名古屋章
東京府東京市麹町区九段[5][注釈 2]出身(当時[いつ?])[注釈 1]。身長170cm、体重78kg[4]。旧制九段中学校卒業[5][2]。 NHK東京放送劇団、文学座、劇団雲を経て、1975年(昭和50年)以降はフリー[5][注釈 3]。1950年代から半世紀にわたり、数多くの舞台、映画、ドラマ、ラジオに出演、ナレーターとしても活躍した。 来歴・人物山梨県で生まれ、東京で育つ[1]。幼少期、姓の「名古屋」が珍しいものであったことや、父の氏名が「名古屋 愉快」[6]であったため、級友からからかわれていた。 1949年(昭和24年)に旧制中学を卒業すると、東京放送劇団(NHK)養成所に3期生として入所[7]。同期には後に声優として活躍する勝田久、高橋和枝らがいた。 1952年(昭和27年)にはラジオドラマ『ぼたもち』に主演し、同年の芸術祭賞を獲得[7]。このほか、ラジオドラマには『一丁目一番地』などに出演した。 1959年(昭和34年)に文学座へ入団[7]。1963年(昭和38年)に劇団雲の創立に参加[7]、1975年(昭和50年)の劇団雲の解散以後はフリーで活動し、地人会、こまつ座などの舞台にも出演した演劇人でもあった。1971年(昭和46年)には『釘』で第6回紀伊国屋演劇賞個人賞を、1983年(昭和58年)に『雨』で芸術祭演劇部門大賞を受賞している[7]。 ラジオドラマ時代は美声を生かして二枚目を担当し、数多の女性ファンを獲得した[8][注釈 4]。映画ではクセのある敵役や悪役を演じ、テレビドラマでは刑事役や大映テレビ制作の作品に常連出演するなど、名脇役ぶりで親しまれた。特撮では『帰ってきたウルトラマン(以下、帰マン)』のナレーターや、『ウルトラマンタロウ』の朝日奈勇太郎隊長役が代表作である[9][注釈 5]。 1991年(平成3年)から2003年(平成15年)まで、藤村有弘(1982年死去)から引継ぐ形で『ひょっこりひょうたん島』の2代目ドン・ガバチョ役を務めた[7][9]。 2003年(平成15年)6月24日午前8時35分、肺炎のため死去[10][11]。72歳没。同年3月には脳腫瘍で手術を受けリハビリをしながらも、9月まで仕事のスケジュールが入っており、現役の俳優として迎えた死だった。亡くなる13日前に収録したNHK教育テレビの番組『ピタゴラスイッチ』の百科おじさん役が遺作となった。死去時の追悼番組として放送されたのは、ホテルの料理長を演じたテレビドラマ『HOTEL』である。2006年(平成18年)発売のDVD版『ウルトラマンタロウ』Vol.12の特典映像にも現存するインタビュー映像が追悼収録された[注釈 6]。 生前の趣味は、鉄道模型、絵画、ゴルフだった。また、プロ野球の読売ジャイアンツファンであった。 後任名古屋の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。 俳優声優
出演テレビドラマ
配信ドラマ
映画
舞台
吹き替え洋画・海外ドラマ
海外アニメ
テレビアニメ
劇場アニメOVA人形劇CD
CM
ラジオドラマその他
脚注注釈
出典
参考文献
関連人物外部リンク
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