山口百恵
山口 百恵(やまぐち ももえ、1959年〈昭和34年〉1月17日[2][1] - )は、日本の元歌手、元女優、元作詞家で、現在はフリーランスのキルト作家として活動。本名:三浦 百惠(みうら ももえ)[2]。旧姓:山口。芸能活動時の所属事務所は「ホリプロダクション」で、レコード会社は「CBS・ソニーレコード」に所属していた[3]。 1970年代の日本を代表するアイドル(芸能人)の1人[4]。歌手時代にはペンネームの「横須賀 恵」(よこすか けい)で自曲の作詞を行った。芸能界引退後には、本名の「三浦 百惠(百恵)」名義で他の歌手への作詞や、キルト作家として活動している。夫は俳優の三浦友和、長男はシンガーソングライター・俳優の三浦祐太朗、次男は俳優の三浦貴大。長男の妻は声優・歌手の牧野由依。 以下、氏名の表記は特記を除き「百恵」で統一する。 略歴生い立ち東京都渋谷区恵比寿の東京都立広尾病院で生まれた[2][5]。横須賀市立鶴久保小学校卒業。横須賀市立不入斗中学校[6]時代に、テレビ番組「スター誕生!」に出場。日出女子学園高等学校卒業。 父親には別の家庭があり、子供もいた。戸籍には「認知」の2文字が置かれていた。百恵がこの事実を知ったのは、高校へ入学してすぐだった。既に芸能界入りしており、週刊誌が戸籍謄本を「出生の秘密」と題して掲載した。百恵は父について「私には、父はいない。一つの肉体としてのあの人が地球上に存在していたとしても、私はあの人の存在そのものを否定する。」(『蒼い時』)と記している。幼少時を神奈川県横浜市瀬谷区、4歳のときから中学生でデビューするまで横須賀市で過ごした。世帯数4世帯の木造アパートの2階が住居で風呂は共同風呂であった。父が来るときは、常に大きな黒い鞄を持ってやってきて滞在した。父は異常なまでに百恵を可愛がり、欲しいものは何でも買い与え、何処でも行きたい場所に連れて行った。しかし、金銭を浪費し、母が何度も裏切られる場面を目にし、母が内職で生活を支えた。母は、高校の入学金の工面を父に相談したが、受け入れられなかったことから、子供を差別した理由で父との別離を決心した。中学校の入学直前の春には、父が目の前に立ちはだかり、「中学に入ったからといって、ボーイフレンドとか何とか言って、男と腕でも組んで歩いたりしたらぶっ殺すからな」と言われる。この時の、娘を娘としてでなく自分の所有する女を見る動物的かつ不潔な視線が百恵を父から隔絶した[7]。 芸能界デビュー1972年12月、オーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ)で、牧葉ユミの「回転木馬」を歌い準優勝[7]20社から指名を受ける。百恵はこのとき「発表を聞く前に、私は歌手になれることをはっきり確信していた」。同番組への応募のきっかけは、同い年の森昌子がテレビで活躍しているのを見て「自分も森昌子さんのようになりたい」と思ったことだった。この決戦大会出場時の映像は現存していない。のちに「花の中三トリオ」を組むことになる桜田淳子も、同年に同じ『スター誕生!』で牧葉ユミの曲「見知らぬ世界」を歌って合格していた。 1973年4月14日、映画『としごろ』に出演し、5月21日に同名の曲でアイドル歌手としてもデビュー。森昌子・桜田淳子と共に「花の中三トリオ」と呼ばれた。デビューのキャッチコピーは「大きなソニー、大きな新人」。1973年5月20日、デビュー曲の発売される前日にさいか屋横須賀店の屋上にあるステージで、地元でのお披露目として、デビュー曲「としごろ」を歌う。「としごろ」は、スタッフの期待以下のセールスに止まったため、第2弾の「青い果実」ではイメージチェンジを図り、大胆な歌詞を歌わせる路線を取った。それは1974年の「ひと夏の経験」の大ヒットで大きく花咲くこととなった。これらは「青い性路線」(「性典ソング」)[7]、「意味シン・ソング」[8]などと呼ばれ、年端のいかない少女が性行為を連想させる際どい内容を歌う[8]、この「青い性」路線で百恵は絶大な人気を獲得することになる[8]。 「ひと夏の経験」を歌っていた時期のインタビューでは「女の子の一番大切なものって何だと思いますか」とたいてい質問されたが、百恵は全て「まごころ」で通していた[7]。歌詞の内容は際どかったが、辺見マリや夏木マリ、あるいは1970年代に復活した山本リンダなどのセクシー路線の歌手と違い、百恵は年齢が低くビジュアル面では純朴な少女のイメージだった。歌とビジュアルのギャップ、それに伴うある種の背徳感が、百恵の人気を独特なものにしていったと言われる。これは百恵の芸能人としての資質によるだけではなく、所属事務所やレコード会社による周到なイメージ戦略の賜物でもあった。CBS・ソニーのプロデューサー酒井政利は「青い果実」をリリースする際、作詞家の千家和也に対して「より過激な表現」を求めつつ、「中学生にこんな歌詞を歌わせていいのか」と自問したものの、「ストレートに表現することも一つの行き方だ」と思い直した。その後、千家・都倉コンビが作った楽曲は45曲に及ぶ。 小西良太郎は「大人たちに言わせれば、いたいけな中学生が、口にするだけでもドキドキしそうな歌を歌う。けしからん!もってのほかだが、少々うすぐったい。天地真理やアグネス・チャンらの、そぞろ恋を恋する季節の歌が、年相応に明るくて、健康的で、ほほえましかった。ところが、そんな優等生型ニコニコポーズに飽きがきたところで、見回したら、百恵の青いセクシーさが、急に説得力を持ってきた」などと評した[9]。 同曲が大ヒットした1974年には文芸作品の名作『伊豆の踊子』に主演し、演技でも評価を得る。この映画で共演した相手役の三浦友和とはグリコプリッツの広告でこの年の夏に共演済であった。『伊豆の踊子』は一般公募で相手役を募集したが、このグリコ広告を観た『伊豆の踊子』の監督・西河克己が最終選考の中に三浦の書類を入れたと言われている。三浦とはその後もテレビドラマや広告でも共演して共に絶大な人気を博し、2人は「ゴールデンコンビ」と呼ばれた。 百恵の映画初出演はレコードデビュー前にホリプロが制作した『としごろ』(和田アキ子、森昌子主演)で、新人の顔見せとしての出演だったが、『伊豆の踊子』以降、映画13作で主演。そのうち12作は三浦との共演である。「映画に関するかぎり製作者は彼女をリメイク女優以上に認識していなかった。にもかかわらず西河は『霧の旗』で、驚異的なまでのファム・ファタールぶりを彼女に演じさせた」[10]。1978年にはファンからの声の大きかった初のオリジナル作品『ふりむけば愛』がコンビ出演のグリコ広告を撮り続けていた大林宣彦監督の演出で製作された[8]。サンフランシスコロケを行った本作あたりから、週刊誌等、マスメディアが「二人はかなり親密な仲」などと書き立てるようになった[8]。1979年にコンビ主演10作品記念としてオリジナル作品『ホワイト・ラブ』が小谷承靖監督で製作された。これらの映画は東宝配給ながらすべて日活撮影所で製作され、監督やカメラマンも西河ら日活出身者が大部分を占めることもあり、往年の日活青春映画、文芸映画の後継的な意味合いも持っている。東宝の監督である小谷や河崎義祐が担当した場合も、最後の引退記念作品『古都』も日活製作で、東宝からカメラマンの長谷川清ら数名のスタッフを連れて20年ぶり(発足の最初期に短期間在籍)に日活撮影所へ乗り込んだ市川崑監督は、馴染みの薄いスタッフを粘りに粘って叱咤し引退作を撮影した。市川は以前に何度か自分の作品に百恵の出演を依頼していたが、ホリプロサイドから断られており、この最後の作品で監督を務める喜びを制作記者会見で語っている。三浦との「ゴールデンコンビ」は「モモトモ映画」とも呼ばれ[8]、共演作12本は1本平均200万人を動員し[8]、120億円を稼いだ[8]。 テレビドラマでの初レギュラー出演は1973年10月スタート、大映テレビ制作TBS系の「顔で笑って」。この作品で宇津井健との親子役が始まり、以降宇津井健を公私共に「お父さん」と慕った。1974年10月からはTBSのテレビドラマ『赤いシリーズ』(いわゆる大映ドラマ)に主演し、『赤い疑惑』『赤い衝撃』では三浦友和と共演。高い人気を集め、シリーズは6年にも及び、百恵のレギュラー出演作品は『赤い絆』引退記念作品の『赤い死線』まで6作品にもなった人気ドラマとなる[1]。 1976年リリースのシングル『横須賀ストーリー』から阿木燿子・宇崎竜童夫妻の作品を歌って新境地を開いた。実際はそれ以前にも、『横須賀ストーリー』の2か月前に発売されたオリジナル・アルバム『17才のテーマ』に収録の「木洩れ日」「碧色の瞳」「幸福の実感」の3曲で宇崎夫妻の提供曲を歌っている。その後、宇崎夫妻の提供曲はシングル、アルバムを合わせると69曲に及んだ。宇崎夫妻が手掛けた作品は大ヒットの連続で、百恵の世界を決定的に形作った。この2人を作家として指名したのは周囲のスタッフではなく百恵本人だった。 1977年に日本武道館で行われた第6回東京音楽祭(TBSテレビ・ラジオ)で外国人アーティストが多数出演・受賞する中、日本人歌手として楽曲「夢先案内人」で銅賞を受賞した。 1978年の『第29回NHK紅白歌合戦』(NHK総合・ラジオ第1、#NHK紅白歌合戦出場歴参照)で紅組トリを務める。白組の沢田研二と共にポップス歌手のトリは番組初のことで、10代の歌手が紅白のトリとなったのも百恵が初で、最年少記録は破られていない。ホリプロが東京都目黒区に建てた自社ビルは、百恵の成功によるところが大きいことから「百恵ビル」と呼ばれることもある。 1979年には、評論家の平岡正明が『山口百恵は菩薩である』を著すなど、多くの文化人に「現代を象徴するスター」として語られた。写真家の篠山紀信は百恵のデビュー当時から被写体として何万枚も撮り続けたが、たびたび印象的な写真を発表して注目を集めた。1970年代に篠山が最も多く撮影した女性は百恵であるが、篠山は「それは時代が山口百恵を必要としていたから」として、百恵を「時代と寝た女」と評した[1]。 年代別プロマイド(ブロマイド)売上では、1974年 - 1980年のベスト10にランクインし、特に1976年は女性1位となった。 人気作詞家だった阿久悠は『スター誕生!』の審査委員長を務めていたが、同番組出身である百恵のソロ楽曲には作品を一切提供していなかった。その理由のひとつとして「当時は桜田淳子に(詞を)書いていたから、同系統の歌手には書かないことにしていた」と阿久自身は述べている[11]。2008年に日本テレビ系で放送されたドラマ『ヒットメーカー 阿久悠物語』では、『スター誕生!』のテレビ予選で百恵に対して阿久が「青春ドラマの妹役のようなものならいいけれど、歌は諦めた方がいいかもしれない」と評したことで[7]、「そのことに傷ついた百恵は作品の提供を阿久に求めなかった」と脚色されているが、あくまでもドラマ上での脚色で、阿久自身は著書『夢を食った男たち』で、前述のオーディションでのエピソードについて記した上で、自身も百恵のファンであることと、百恵の魅力についても倉本聰との対談を差し挟んで語っている。 婚約、芸能活動を完全引退1979年10月20日に大阪厚生年金会館のリサイタルで「私が好きな人は、三浦友和さんです」と、三浦との恋人宣言を突如発表する[8]。その後三浦も記者会見で「結婚を前提にして付き合っています」と語った。 1980年3月7日に三浦との婚約発表と同時に、「我が儘な…生き方を私は選びました。(中略)お仕事は全面的に、引退させて頂きます」と芸能界引退を公表する。その一方で、迫り来る引退を視野に入れた形でのレコードのリリースや公演の予定を発表。1975年のザ・ピーナッツで始まり、1978年に解散のキャンディーズで定着した引退記念興行が大々的に展開されることになった。 引退直前の同年9月に刊行された自叙伝『蒼い時』は、複雑な生い立ち、芸能人としての生活の裏面に加え、恋愛や三浦との初体験についても赤裸々につづられており、発売から1か月で100万部を超え、12月までに200万部を超える大ベストセラーになった。巻末のあとがきには百恵自身の万年筆による手書き原稿が印刷されている。同書の仕掛け人である出版プロデューサーの残間里江子にも注目が集まった。写真撮影は立木義浩。引退後の1981年に文庫化されている。 1980年10月5日に日本武道館で開催されたファイナルコンサートは、当日にTBSで生放送され、案内役は『ザ・ベストテン』の司会者である久米宏が担当した。会場に殺到したファンに対して「本当に…私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」とメッセージを言い残し、最後の歌唱曲となった「さよならの向う側」で堪えきれずに、涙がこぼれても拭わずぽたぽた落としながらの絶唱と成った。歌唱終了後、ファンに深々と一礼をした百恵は、マイクをステージの中央に置き、静かに舞台裏へと歩んで立ち去った[12]。この「最後にマイクを置く」演出は振付担当の西条満の考案で、今では伝説的なアクションとして語り継がれ、さまざまな番組などで真似されている。 ファイナルコンサート翌日の10月6日に、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)で引退特集番組が放送された。司会者の芳村真理・井上順のほか、百恵と同じホリプロ所属の先輩だった和田アキ子、中三トリオの桜田淳子と森昌子、女性歌手仲間として仲が良かったアン・ルイス・岩崎宏美・太田裕美・小柳ルミ子・高田みづえ・ピンク・レディー、男性歌手では「新御三家」の郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎などが、百恵の最後の雄姿を見守った。そのほかにも、番組のフィナーレ前には五木ひろし・研ナオコ・沢田研二ら歌手仲間が登場、特にジュディ・オングから花束を受け取る際に百恵は感極まって涙を見せた。漫才コンビの青空球児・好児、プロデューサーの酒井政利やディレクターの川瀬泰雄など仕事仲間の大勢も駆け付けた。この放送は後に『山口百恵 in 夜のヒットスタジオ』として2010年6月30日にDVDが発売されている。百恵と親しい間柄でもあった芳村はこの回の放送について、「いつもはスタッフ達の怒声も飛び交い、賑やかなスタジオであるはずが、この時はとても静かで、感動的だった」「番組の放送が終わった後も、皆去るのが辛く、VTRも回しっぱなしでお別れ会が続いた」と放送時のスタジオの様子を語っている。 現役歌手として最後のテレビ生番組出演は、10月13日放送の『山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング』である。日本テレビ『NTV紅白歌のベストテン』の特別番組として放映された。この時の百恵は一切涙は流さずに、観客に向って終始清々しい笑顔を振り撒いていた。 正式な芸能活動の完全引退は、10月15日のホリプロ20周年記念式典で、その時に歌った曲は「いい日旅立ち」である。式典の後同ホテル内において午後8時半過ぎに引退記者会見が開かれたが、記者の多さから開始直後に、前列にいた100名近いスチール用カメラマンと後方のビデオカメラマンとの間で揉める場面もあり、中断しかねない状態となった。この会見はこの当日放送された『水曜スペシャル特番 山口百恵 今夜 旅立ち!』(テレビ朝日)で番組の終わりに一部生放送され、これが芸能人として事実上最後のテレビ生出演となった。 引退時は21歳(22歳の誕生日の約3か月前)で、芸能人としての活動はわずか7年半ほどだった。引退までにシングルは31作の累計で1,142万枚、1970年代に最もレコードを売り上げた歌手であった[13]。 オリコンシングルチャートにおいて、1973年6月4日付でデビューシングルの「としごろ」が75位に初登場してから1981年3月2日付で32枚目のシングルの「一恵」が96位にランクインするまで、405週連続で100位以内にチャートインし続けた[14]。オリコンアルバムチャート(レコードのみ)において、引退後の1989年時点でアーティスト別セールス13位(251万枚)、TOP10総登場週数16位、TOP100総登場週数11位、と70年代アイドル歌手(男女共に)では最も上位にランキングされている[15]。 現役時代にはホリプロとの確執があり、『蒼い時』でも意見の相違により社長の堀威夫と衝突があったと振り返っている。当時の制作部長であった小田信吾とともに独立するつもりであったが、ホリプロ側が小田を説得して独立を阻んだため引退を決意したとの見解もある。もし独立が成功していれば三浦との結婚がなかったかもしれず、女優としてその後も活躍していた可能性があったとの見方もある[16]。 結婚結婚式は1980年11月19日に、東京都港区赤坂の霊南坂教会にて飯清が牧師を務め、披露宴は東京プリンスホテル・鳳凰の間で招待客1,800人が出席して行われた[17]。仲人は宇津井健夫妻で、友和側の主賓は東宝社長の松岡功(息子は松岡修造)、百恵側の主賓はCBSソニー会長の大賀典雄がそれぞれ務め、百恵の父親代わりはホリプロ社長の堀威夫が務めた。披露宴の司会はメインが岡田真澄、サブが徳光和夫(当時日本テレビアナウンサー)であった。 引退後引退後もマスコミやファンから関心が高いが、一貫して芸能界と距離を取り原則としてマスメディアに出演しない。長男出産後の記者会見に三浦とともに出席したほか、『3時のあなた』(フジテレビ)から取材を受け、その模様が同番組で放映されたことがある。作詞家として作品を提供したことがあり、1982年にアン・ルイスに提供した「ラ・セゾン」がヒットしている。 引退直後の1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』では「人気アンケート」で4位だったため番組側は出演交渉を行ったが、本人からは「既に引退しましたので辞退します」との回答があり出場はなかった[18]。2000年の『第51回NHK紅白歌合戦』、2005年の『第56回NHK紅白歌合戦』でも番組側は出演交渉を行ったが出演しなかった。 家庭に入ってからは2人の息子をもうけた。2人が小学校に在学中だった1994年、テレビドラマ『スウィート・ホーム』(TBS)について「内容が事実と異なり、保護者に対する誤解を与えるため、内容の訂正と『お受験』という言葉の使用中止を求める」趣旨の嘆願書が、小学校受験を行った保護者たちからTBSに送られた際には署名者の1人となっている[19]。それまでほとんど使われなかった「お受験」の語は、このドラマがきっかけで流行語になった。(小学校受験#批判も参照)。 1987年頃から独学でキルト製作を始め、のちにキルト作家の鷲沢玲子に師事して作品を作り続けている[20]。作品が「東京国際キルトフェスティバル」等の展示会に出品されることもあり、2019年には日本ヴォーグ社から三浦百恵名義でキルト作品集『 自宅に不審者が押し入る事件も発生したが、大事もなく解決している。夫の三浦によれば、プライバシーが脅かされる生活に対し、百恵は「私は、これ以上芸能界にいたことを後悔したくない」と漏らした。長男の通園に備えて自動車教習所に通い始めた頃には、教習所の周りを百恵を狙ったカメラマンが囲んだため苦悩した。夫が人権擁護局に対応を求めた翌日は、同局の注意喚起によりカメラマンは一人も来なくなった。しかし長男の入園式に際して援護局に対応を要請した際は担当者に断られ、マスコミが自宅や幼稚園を取り囲む取材攻勢の中で強行突破を強いられ[22]、車内の子供が強引にレンズを向けられて怯える騒ぎとなった。あまりの横暴に百恵は激怒し、車を降りてカメラマンを平手打ちした。この出来事は翌週の週刊誌各紙に掲載された。 節目ごとに多くのベスト・アルバムが発売されている。デビュー30周年にあたる2003年には、未発表曲1曲を含む24枚組CD-BOX『MOMOE PREMIUM』が発売され、このヒットによりブームが再燃した。 1980年のシングル『謝肉祭』は、歌詞の中で連呼する「ジプシー」は差別用語として、1990年代後半以降はレコード会社が発売を自粛した。このためベスト盤CDやファイナルコンサートのDVD『伝説から神話へ -BUDOKAN…AT LAST-』も不完全な形で発売された。しかし2005年5月25日発売の『コンプリート百恵回帰』(全曲新アレンジで構成)に収録されたのをきっかけに、2006年1月18日発売のライブCD-BOX『MOMOE LIVE PREMIUM』に納められたファイナルコンサートのCD及びDVDは「謝肉祭」を含むノーカット版が収録された。当時のシングル・バージョンも2007年7月20日発売の廉価版CD『山口百恵ベスト・コレクション VOL.2』に収録され、9月30日に『MOMOE PREMIUM』の改訂盤として通信販売限定で発売された『Complete MOMOE PREMIUM』および『MOMOE PREMIUM update』にも収録され完全復活を果たした。 引退25年・ホリプロ創立45年にあたる2005年、百恵の楽曲を使用したトリビュート・ミュージカル『プレイバックPart2〜屋上の天使』が上演された。 2020年6月、『女子SPA!』は同ウェブサイト上で、「去り際(引退)がいさぎよかった女性5選」の1人として百恵を選出して掲載した[23]。 ストリーミング配信引退から40年を迎えた2020年5月29日、音楽サブスクリプションサービス上で、600曲以上の楽曲のストリーミング配信を開始した[24][25][26][27]。 エピソード
音楽
シングル
オリジナル・アルバム
テープのみの企画盤
ベスト・アルバム
テープのみの企画盤
ボックス・セット
ライブ・アルバム
サウンドトラック
映像作品
トリビュート・アルバム
他の歌手への提供曲の作詞
コンサート
出演映画
テレビドラマ(※ゲスト出演は含む)
NHK紅白歌合戦出場歴
ラジオ(※放送局はすべてニッポン放送)
CM
書籍著書
関連書籍
脚注注釈出典
関連項目
外部リンク
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