大須 (名古屋市)
大須(おおす)は、愛知県名古屋市中区中心部の繁華街。現行行政地名は大須一丁目から大須四丁目。住居表示実施区域[WEB 4]。 名古屋市の代表的な繁華街・商店街の一つである。また、秋葉原、日本橋とともに日本三大電気街としても知られている。シャッター街から再生して更なる発展を遂げた稀有な商店街として知られている。 地理行政地名としての大須は名古屋市中区の中央部に位置し、東は千代田一~二丁目、西は中村区名駅南三丁目、南は松原一丁目・門前町・上前津一丁目、北は栄一~三丁目に接する[2]。東西を新堀川と堀川、南北を大須通と若宮大通に囲まれている。 地域概念としての「大須」は、大須通(南側)、大津通(東側)、伏見通(西側:国道19号・国道22号)、若宮大通(北側)の4つの道路に囲まれた二~三丁目エリアを指す事が多く、この範囲は「大須商店街」として知られる[WEB 5]。郵便番号は460-0011[WEB 2](集配局:名古屋中郵便局)[WEB 6]。 歴史近世地名の由来となった大須観音は、元弘3年(1333年)に尾張国中島郡長庄大須(現・岐阜県羽島市)に僧の能信によって創建された真福寺とその塔頭の宝生院が始まりである。 慶長15年(1610年)の名古屋開府によって名古屋城と城下町が整備されると(清洲越し)、城下町のメインストリートとして本町通が開かれ、旧那古野城の南側にあった萬松寺が現在地に移転した。慶長17年(1612年)、徳川家康の命によって宝生院も名古屋城下の現在地に移転し、現在の大須及び周辺に寺社が集められて南寺町が築かれた。こうした寺社への参詣者や街道を往来する人びとを相手にした商店・宿屋・芝居小屋も多数開かれて門前町となり、特に第7代尾張藩主徳川宗春の芸能振興策により大きく発展した。 近代幕末の1858年(安政5年)に、玉屋町(現在の中区錦)の宿屋・笹野屋庄兵衛の上願により、大須観音の北にあたる北野新地(現在の北野神社付近)に役者芸人の宿が置かれ、後に遊女を置く私娼も現れた。明治維新後の1874年(明治7年)10月、北野新地が公認の遊廓に指定されたが、敷地が狭く、拡張もできないため、1875年(明治8年)に西大須に移転した。新しい遊郭は北野新地があった日之出町に因んで旭廓(あさひくるわ)と名付けられたが、1923年(大正12年)に名古屋駅西の大門(おおもん)地区に移転して中村遊廓となった[3]。 こうして幕末期から明治時代には遊郭としても発展したが、1892年(明治25年)の大須大火により衰退した。これを受けて、1912年(大正元年)に萬松寺が寺領の山林を一般の商業用地として開放。これは現在の大須三丁目の大半にあたるほど広大な土地であり、ここへ劇場、演芸場、映画館などが数多く作られ、名古屋市内随一の歓楽街として復活。太平洋戦争前までは東京の浅草、大阪の千日前と並んで「日本三大繁華街」と称されるほど栄えた。しかし、1945年(昭和20年)3月12日と3月19日の名古屋大空襲によって大須は壊滅的な被害を受けた。 現代終戦後の大須の復興は早かった。終戦直後から闇市が立ち、終戦翌年の1946年(昭和21年)に商店主らが「大須盛り場同盟」を結成。更に引揚者や地方から出てきたものが商売を始めたり、名古屋市内の他の場所で開業した店が移転してきたりなどしていった[注釈 1]。戦後復興期には、名物の土産物屋などが再建したり大須球場ができたり、名古屋の繊維街・家具街・仏壇仏具街ともなり、歓楽街としても域内の映画館が14館に及ぶなど復活を遂げた。名古屋で最も早く設置されたアーケードは、大須にある万松寺通りである。 しかしその後は、都市計画によってデパート・百貨店・地下街が整備された名駅地区や栄地区に客が流れた。大須は古くからの繁華街であったが故にそうした開発をされず、栄の繁栄に圧迫されるようになった。その栄とも100メートル道路の若宮大通により分断されると人の流れも断絶。さらに1972年(昭和47年)に名古屋劇場が火災で焼失した事や、大須まであった市電が廃止、多数あった映画館がテレビの普及で次々と潰れたこと、モータリゼーションの波に乗れなかったなども重なって大いに寂れ、昭和40年代になるとシャッター商店街と化した。全国でも先駆けで当時としては非常に珍しいことであったが、その閑散ぶりは凄まじく、僅かな人通りは年配の参拝者くらいで、休日昼間のアーケード下でキャッチボールすら可能だったと伝わっている。 1975年(昭和50年)、こうした状況に危機感を抱いた名城大学の助教授・学生が、「アクション大須」を実施。閑散とした商店街を再び人の集う場所へと、大道芸人の芸の場としてや学生祭の延長会場にしたようなお祭りであったが、大盛況を収めた。これに刺激を受けた若手商店主達により第二回アクション大須、更に大須大道町人祭と続く。またラジオセンターアメ横ビル(現・第1アメ横ビル)を建設し、ここへ秋葉原から招致した家電店やパソコンショップなどが入居した。同年に名古屋市営地下鉄鶴舞線が開通し、周辺・遠方とのアクセスも良くなり、上前津駅に加えて大須観音駅もできた。これらを契機として客の足が大須に向くようになり、更に商店街へ電器店やパソコンショップが集まって、秋葉原(東京)、日本橋(大阪)に次ぐ電気街として発展し、日本三大電気街の一つに数えられるようになった。その後、秋葉原同様に、電子街、電脳街、オタク街としても発展していった。なお、2006年(平成18年)7月の調査によると、電器店、パソコンショップ等の数は秋葉原、日本橋、大須の順で多かった。 しかし秋葉原、日本橋とは異なり、この地方では時計・カメラ系量販店(ウォッチマン・アサヒドーカメラ・トップカメラ)が家電・パソコン・携帯電話などを販売していた他[注釈 2]、大須自体がアーケード商店街がメインだったため、郊外型家電量販店の台頭に加え、名古屋駅前の大型店進出(ビックカメラ名古屋駅西店、ヤマダ電機LABI名古屋)により、秋葉原、日本橋の例と同様に電気街としては縮小傾向にある[WEB 7]。また、電脳街としてもグッドウィルや九十九電機などが店舗統・廃合するなど、名古屋駅近辺に進出したビックカメラグループ(ビックカメラ・ソフマップ)やヤマダ電機などの影響や業界再編の波で縮小傾向にある。 現状2015年(平成27年)に不動産・住宅情報サイト「HOME'S」内の住宅トレンドニュースサイト「HOME'S PRESS(ホームズプレス)」が実施した「愛知県民に聞いた好きな名古屋の商店街ランキング」で1位を獲得した[4][WEB 8]。 中部地方のオタク街2010年(平成22年)にはローカルアイドルグループのOS☆Uが活動を開始した。その後、CAMOUFLAGEやBSJプロジェクトといったアイドルグループが登場している。SKE48はシングル楽曲である「バンザイVenus」と「コケティッシュ渋滞中」のMV撮影を大須で行ったことがあり、特にバンザイVenusでは約1000人のエキストラによるダンスシーンが仁王門通商店街にて撮影された。大須出身という設定のバーチャルYouTuberとしてキミノミヤがいる。 アイドルや漫画・アニメだけに限らず、フィギュア、鉄道模型、エアガン、プラモデル、トレーティングカード、レトロゲームなどの専門店も出店していて、「ボークス」などの直営店や、関西以外で唯一の「ジョーシンスーパーキッズランド」もある。 なお、秋葉原名物となったおでん缶の元祖とも言える天狗缶詰は名古屋の企業であるが、秋葉原で名が知られるようになった頃は、まだ大須では販売されていなかった[WEB 9]。 様々な施設と店舗がある街大須およびその周辺には、大須観音、萬松寺、七寺、若宮八幡社、三輪神社、富士浅間神社など多数の神社仏閣がある。 青柳総本家、大須ういろ、コメ兵、矢場とん、コンパルの本店または本社は大須にある。かつてはスガキコシステムズ(スガキヤ)の本社も大須にあったが、2010年(平成22年)には丸の内に移転した。逆にパソコン周辺機器のバッファローは一時大須から移転していたが、2010年(平成22年)には新社屋が完成して大須に戻った。 大須近辺には3台のからくり人形時計が存在する。萬松寺の「信長」、若宮大通にある「三英傑」、大須観音の駐車場にある「宗春爛漫」である[WEB 10]。 全国各地の商店街が衰退・縮小する中で、再生しさらなる発展を遂げた稀な例である[WEB 11]。 主な通りごとに万松寺通商店街、大須新天地通商店街、名古屋大須東仁王門通商店街、大須仁王門通商店街、大須観音通商店街、大須門前町商店街、大須本通商店街、赤門通商店街、赤門明王商店街が形成され、9つの商店街で約400店舗、地区全体では約1200店舗が集積し、全体で「大須商店街」を構成する[WEB 12][WEB 13]。 大須商店街の来訪者数は平日3万人、休日7万人から8万人。[要出典] 年表
町名の沿革
交通駐車場は大通り沿いに駐車場ビル、各所にコインパーキングがある。また大型バス可な駐車場が、若宮大通の白川公園との間・久屋大通庭園フラリエの北・大須1丁目の北にあり、観光バスでの来訪も多い。 鉄道道路南北の通り
東西の通り
主な施設大須一丁目大須二丁目
大須三丁目
大須四丁目
祭り・イベント
出身有名人・関連人物出身有名人
関連人物
大須を舞台とした作品小説ドラマ漫画アニメ脚注注釈出典WEB
新聞文献
参考文献
外部リンク
座標: 北緯35度9分31.874秒 東経136度54分13.468秒 / 北緯35.15885389度 東経136.90374111度 |
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