中村区
中村区(なかむらく)は、名古屋市を構成する16行政区の一つで、区の東部には東海道新幹線や在来線、私鉄各線、市営地下鉄などが乗り入れるターミナル駅の名古屋駅が位置する。 概要![]() ![]() 名古屋市の鉄道玄関口である名古屋駅周辺は、江戸時代までは、名古屋城の城下町から西へ外れた湿地帯であり、笹島と呼ばれていた。 しかし、明治になると、東海道本線が引かれた際に名古屋駅が設置され、戦前から商工業地域として栄えた。 この頃、同時に名古屋有数の風俗街となる中村遊廓も発展した。駅ビルのJRセントラルタワーズやその核店舗のJR名古屋タカシマヤの開業を契機として、2000年代以降は再開発により日本有数の超高層ビル街へと変貌を遂げた。名古屋駅周辺(特に東側)は名駅と呼ばれ、中区の栄地区と並ぶビジネス街・商業エリアへと成長した。名駅は、2027年のリニア中央新幹線開業に向けて現在も大規模な再開発が進んでいる[1]。名古屋駅南部の笹島地区は、かつてはドヤ街であったものの、ささしまライブ24地区として笹島駅(貨物駅)跡地が再開発され、新都心のような都市景観を形成している。 一方で名古屋駅西側は、歴史的な関係や地権者の問題から大規模な開発は進められておらず、東側ほど発展はしていない。名駅エリアを除いて、区内全域が名古屋市内きっての典型的な下町地域となっており、戦前からの住宅街でもあるがゆえ現在でも下町情緒溢れる街並みを残している。区の中央部には市内唯一のソープランド街(旧中村遊郭をルーツとする)が位置している。 名古屋市営地下鉄桜通線延伸や名古屋市営地下鉄東部線整備などの計画もあり、今後の発展が注目されているが、未だ実現へ至っていない。 地理![]() 地形河川
地域→詳細は「名古屋市の地名 § 中村区」を参照
人口
隣接自治体・行政区
歴史古代![]() 沖積平野上に位置し、古墳時代以前の遺跡は乏しい。遊里ヶ池遺跡(道下町3丁目)から縄文土器の出土が僅かに確認できる。古墳は庄内川左岸の岩塚古墳群(七所社境内)や高須賀町[注釈 1]で小規模な円墳が確認されている。他に、烏森町の烏森遺跡で古墳時代から平安時代の須恵器が出土する程度である。岩塚古墳には日本武尊が東征の際に腰を掛けた岩があるという伝説があり、この腰掛岩が現在の岩塚町の地名の由来とする説がある。 「中村」という地名は、奈良時代の律令制下から確認できる古い地名である。史料上の初出は平城京出土の木簡で「尾張国愛知郡中寸」と書かれている。「寸」は「村」の略字で、8世紀以前には「中寸」とも表記されていたことが分かる。平安中期成立の『和名類聚抄』にも愛智郡中村郷の記載があり、律令制下では尾張国愛知郡内の郷(里)の一つであった。この当時に「中村郷」と称されていた地域の範囲は不明だが、概ね現在の中村区中部から北部の一帯であるとするのが定説である。稲葉地町から横井などの中村区南部については律令制下では愛知郡千竈郷であったことが近年判明している。 区内の式内社としては、岩塚町の七所社を愛智郡「御田神社」に比定する説がある。油江天神社(中村町二丁目)は平安末期成立の『尾張国内神名帳』に「油江天神」として記載のある古社である。他に土江神社(日比津町)も、『尾張国内神名帳』記載の古社に比定されている。 中世鎌倉時代には律令制下の中村郷が分割され、「上中村郷」「下中村郷」などに分かれていたことが知られている。当時の中村は国衙領と考えられるが、鎌倉後期の『熱田宮領注進状案』に「上中村郷」とあり、熱田神宮領もあったらしい。鎌倉期から南北朝期の熱田神宮関連史料には「岩墓郷」(後の岩塚町)、「大脇郷」(後の大秋町)、「泥津郷」(後の日比津町)、「薦野郷」(後の米野町)などが見え、後の地名に通じるいくつかの郷が成立していた。伊勢神宮領の一楊御厨も現在の中村区南西部まで及んでいた。 中世には鎌倉街道[注釈 2]の経由地となっており、特に東宿町は萱津宿の庄内川東岸の宿場として栄え、13世紀の『東関紀行』に「かやつの東宿」として記録が残っている。しかし室町期には海岸線の南下により街道のルートが変化し、萱津宿も衰退した。 戦国期には織田信秀が中村郷に給知を得たらしく、織田秀敏に相続された記録が残る。天正年間の『信雄分限帳』には「中村の郷内 大屋十郎兵衛」とあり大屋十郎兵衛らが知行地を与えられていた。 豊臣秀吉は現在の中村区域に相当する尾張国愛知郡中村郷中中村に生まれており、太閤、千成、日吉、豊臣、本陣など、秀吉に関する地名や小学校名が多い。また、熊本城などを筆頭に築城の名手であった加藤清正も中村生まれである[3]。 近世江戸期には愛知郡上中村、下中村が成立し、これらの村名が後に区名として採用されることになる。中村区内にあった江戸期の村としては他に、岩塚村、中野高畑村、大秋村、中島村、稲葉地村、日比津村、栄村、米野村、烏森村、平野村、牧野村、広井村などがあった。 1636年(嘉永13年)、東海道の脇往還として、佐屋街道が整備され、砂子村から宿場が差し替えられ、岩塚村(現在の愛知県名古屋市中村区岩塚町)に岩塚宿が設置された。 歌舞伎役者の初代中村勘三郎は中村と縁があり、出自は名古屋中村とも言われている。 近代明治期に愛知郡上中村、下中村、岩塚村、中野高畑村、大秋村、中島村、稲葉地村、日比津村、栄村が複数回の合併を経て、1906年(明治39年)に愛知郡中村が成立した。ただし栄村の一部は名古屋区に編入されている。1921年(大正10年)に愛知郡中村は名古屋市に編入され、名古屋市西区の一部となる。 1923年(大正12年)4月1日 、中村遊廓(または中村旭廓)が開業。ただし当時の新聞記事によると、4月1日に一斉移転できたわけではなく、一部の業者は移転未了のままのスタートだった。新生中村遊廓は、日吉(ひよし)・寿町(ことぶき)・大門(おおもん)・羽衣(はごろも)・賑(にぎわい)の5つの町からなっていたため、五町街(ごちょうまち)[4] または五丁町(ごちょうまち)と呼ばれた。
近現代1937年(昭和12年)10月1日、西区と中区の一部から旧愛知郡中村の領域とその周辺地域を分離して中村区が新設された。その後、中川区との間で、境界線を概ね関西本線に合わせるよう修正している。 区の人口は1960年代後半に20万人台に達し、市内で最多の住民を擁する地域となったが、それ以降は名古屋東方への市街地拡大や、高い人口密度による生活環境の悪化により急速に人口流出が進み、2000年代前半には13万人台まで減少した。しかし、名古屋駅至近の立地から区東部を中心にマンション建設が進み、現在は再び増加傾向にある。 政治行政役所
出先機関・施設![]() 国家機関外務省経済産業省厚生労働省財務省防衛省
特殊法人
施設![]() ![]() ![]() 中村公園文化プラザ ![]() 警察
消防
医療・福祉
郵便局
郵便番号は以下の通りとなっている。
文化施設
運動施設対外関係![]() 国際機関国際連合機関領事館
経済![]() ![]() 第三次産業商業
金融機関拠点を置く企業→「Category:中村区の企業」も参照
情報・生活マスメディア新聞社放送局
中継局ライフライン電力ガス上下水道電信交通![]() ![]() 鉄道鉄道路線
※ 北隣の栄生駅も、当区と西区との境に所在する。
地下鉄
※ 地下鉄八田駅は中川区に所在するが、当区から徒歩圏内にある。 バスバス路線
道路高速道路
国道
県道
市道
幹線道路の道路通称名
教育専門職大学
大学院大学
大学![]()
※ 他に、東京通信大学、名城大学、名古屋経済大学のサテライトキャンパスや広報センターが設置されている。 専修学校
高等学校
中学校
小学校
インターナショナルスクール観光![]() スカイプロムナード ![]() ![]() ![]() 名所・旧跡
観光スポット
文化・名物祭事・催事
スポーツ公営競技出身・関連著名人![]() ![]() 歴史人物
政治家芸能
スポーツ選手脚注注釈出典
関連項目
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia