小出秀政
小出 秀政(こいで ひでまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。豊臣家の一門衆。豊臣秀頼の傅役の1人。和泉岸和田藩初代藩主。出石藩小出家初代。 略歴天文9年(1540年)、尾張国愛知郡中村に、織田家の家臣・小出正重(政重)の長男として生まれた。豊臣秀吉とは同郷で、正室は秀吉の母大政所の妹・栄松院であり、秀政は秀吉の叔父(叔母婿)にあたる。甥の立身に伴ってその家人となった。秀政の「秀」は秀吉よりの偏諱である[4]。 天正10年(1582年)10月22日、播磨国姫路城の留守居とされた[5]。 天正13年(1585年)、和泉岸和田城3万石の所領を与えられた[6]。天正19年(1591年)に秀吉の三河吉良狩猟に随兵した[5]。 慶長3年(1598年)3月、醍醐の花見のときに秀吉の正室高台院に随伴した[5]。8月、秀頼の補佐を依頼され[5]、片桐且元ら傅役5名のうちの1人になった。同月の秀吉の死により、遺物金30枚を受領した[5]。 秀吉より統治を委託された内府徳川家康と、五奉行の石田三成との抗争が始まると、秀政は病を称して閑居した。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、次男秀家に兵300を率いさせ、家康に付き従わせ上杉征伐に従軍させた。その後、石田三成ら西軍が挙兵すると長男吉政などの小出一族は西軍に与した。秀政は大坂城留守居で秀頼と共に居たが、吉政は東軍に与した細川幽斎の守る丹後国田辺城の攻撃に参加した。四男の三尹は大津城攻めに参加した。このため、本来ならば戦後に皆が処罰されるはずであったが、秀家が一人東軍に属して関ヶ原本戦で戦功を挙げ、その後の戦後処理でも活躍したため、秀家に免じて小出氏は皆許され、所領も安堵された[8]。 慶長9年(1604年)3月22日に没す。享年65。法名は本光院陽雲日政大居士。 脚注参考文献
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