『11PM 』(いれぶん・ぴーえむ)は、日本テレビ ・よみうりテレビ の制作により、1965年 (昭和 40年)11月8日 から1990年 (平成 2年)3月30日 まで約24年半にわたって日本テレビ系列 で放送されていたワイドショー番組であり、深夜番組 かつ日本 初の「深夜お色気番組 」である。基本的に生放送 だった。
正式名称は『WIDE SHOW 11PM 』、略称は「イレブン 」。「イレピー 」とも。日本テレビ製作分・よみうりテレビ製作分を区別する意味合いで「東京イレブン 」「大阪イレブン 」という呼称もあった。開始当初は午後のことを「PM 」(P ost M eridiem)と呼ぶ概念がまだ薄かった時代であり、新聞のテレビ欄に「11P・M 」と記載されていた。
通算放送回数は東京イレブンが6095 回、大阪イレブンが2530 回、合計8625 回だった。最高視聴率は1973年12月に放送された「東西ストリップ合戦」で48パーセント 超だった[ 3] 。
概要
毎週月曜日・水曜日・金曜日は日本テレビが、火曜日・木曜日はよみうりテレビが分担で制作し放送した。日本テレビでは大橋巨泉 、愛川欽也 、よみうりテレビは作家の藤本義一 が主に司会を担当し、お色気から硬派な社会問題まで幅広く取り上げた。アシスタントは朝丘雪路 、松岡きっこ 、一谷伸江 らが担当した。
木曜放送分は系列各局を回りながら、その土地の名物や風俗を探訪する企画を[ 注釈 1] 、また金曜日には週末情報の色合いを強め、釣り や麻雀 のコーナーを放送していた。
1972年6月からは土曜放送が加わり、名古屋テレビ が制作した[ 注釈 2] 。同局担当分はフォークソング やロック などこれまでテレビではあまり取り上げなかった分野に取り組み、毎回ミュージシャンをゲスト出演させていた。名古屋テレビ制作分は1973年3月の中京広域圏のネット再編 に伴い打ち切りとなった。
詳細
当時から「ワースト番組」「低俗番組」「エロブンPM」などと呼ばれ、PTA や婦人団体から批判や抗議は多く、子供に見せたくない番組と一方的なレッテル貼りをされ[ 8] 、当然のごとくPTAのアンケートにおいても、その子供に見せたくない番組ランキングの上位の常連に名を連ねた。政治家からの批判もあり、1975年には日本共産党中央委員会幹部会委員長 (当時)の宮本顕治 から「ポルノ番組だ」と非難された。コラムニストの泉麻人 は、実家のテレビで「親が寝るのを見計らってこっそり観ていました」「バニーガール の太ももを舐めるような撮り方にドキッとした」と振り返る[ 9] 。
一方寺山修司 や山本直純 などの文化人 からは評判が良く、作家の井上ひさし は1972年の雑誌の中で「最良のテレビ番組は『11PM』だ。そこには知恵があり、熱気があり、一生懸命テーマを出そうとする気概がある。これが面白くなくてなんであろうか」と絶賛した。久米宏は熱心に11PMを視聴し、アナウンサーになってからも番組制作の参考にしたと述懐している [要出典 ] 。
オープニング・エンディング
テーマ音楽
シルエットのラインダンサーが踊るアニメーション をバックにしたスキャット によるオープニングテーマ、エンディングテーマは共に三保敬太郎 の即興作曲によるもの。正式なタイトルは「11PMのテーマ」。
録音には2バージョンあり、オリジナルはクラシック出身の増田順平・睦美夫妻によるもので「パー!サバダバ」ではなく、「イー! サバダバ」と歌っている。「パー!サバダバ」のバージョンは番組開始1年後に再録されたもので、男声のパートは岡崎広志(岡田愛詩)、女声のパートは伊集加代 による。日本テレビ制作の東京イレブンでは「パー!サバダバ」のバージョンが、よみうりテレビ制作の大阪イレブンでは「イー!サバダバ」のバージョンが使われた。1999年放送された『11回忌法要スペシャル 』では、「イー!サバダバ」のバージョンが採用されている。
1980年9月25日、3人の女性グループ「あらん・どろん 」が「ウィ!シャバダバ」のタイトルでカバー(ワーナー・パイオニア 規格品番:L-371W)したことから、後にこちらが一般的なタイトルとして認知されることもある。あらん・どろんは金曜の巨泉司会時代に顔出しをしてテーマ音楽を担当していた時期がある。通常のテーマ曲の後、別の歌詞での歌が入る。
2000年には「パー!サバダバ」バージョンによるオープニングテーマ、エンディングテーマ(各21秒)に加え、新たな編集によるロングバージョン(1分9秒)を加えたCD が発売された(バップ 規格品番:VPCD-82136)。「イー!サバダバ」のスキャットが含まれたオープニングテーマは1966年に日本ビクター から発売された「ミュージック・フォー・11P.M.」にて音盤化(演奏は猪俣猛オールスターズ。歌手名は表記なし)。2001年に発売されたCD「60'sTVヒッツ・コレクション」(テイチク 、規格品番 :TECD-25463)に収録されている。
2009年、NHK-BS2 の司会者を特集する番組でOPが放送され、徳光和夫 が「まさかNHK でこの曲が流れるとは思わなかった」と感想を述べた。
番組内の挿入歌としては、クロディーヌ・ロンジェ の「Hurry On Down」が、CM前に映されるカバーガールのバックで数秒流された[ 注釈 3] 。
テーマバックアニメーション
オープニングでは時計が18:00ちょうどから23:00ちょうどを差し、時計の真ん中の丸が地球になり、地球から電波が発信し、地球が塗りつぶしの丸(切れ目がある)になり左右に動き、ラインダンサーが踊る姿、女性の裸体が描かれ、11PMの文字をかたどった星座が出て最後には"WIDE SHOW 11PM"となって登場する。
テーマ音楽、テーマバックアニメーション共に第1回から番組終了まで使われた。だが番組初期のアニメーションではラインダンサーの数は3人ではなく15人以上であり、女性の裸体ではなく「渦巻」が映されている。またこの時期のテーマ音楽のラストは「ドゥワー」は無かった。
エンディングでは地球が現れ、地球から電波が発信し、その後逆になり、地球が爆発する。次に女性の裸体が描かれラインダンサーが踊る姿の後11PMの文字をかたどった星座が出て"WIDE SHOW 11PM"となり、最後に"The End"の文字がズームアウトしていく。
開始と終了の挨拶
巨泉と朝丘のオープニングの掛け合いである「野球は巨人 、司会は巨泉の大橋巨泉と」「朝がまるで弱い朝丘雪路です」というやり取りは当時盛んにものまねの対象にされた。1999年の復活特番の際は、この年のプロ野球日本一がダイエー だったため「野球はダイエー、司会は巨泉の大橋巨泉と」「朝まるで弱くなくなっちゃった朝丘雪路」と自己紹介していた。
最後の挨拶は必ず、「明日(来週)は{東京・日本テレビ/大阪・よみうりテレビ}からお送りします。(おやすみなさい。)」の一言で締めくくられていた。
例:「来週は東京・日本テレビからお送りします。おやすみなさい。」
代表的な企画
巨泉・考えるシリーズ
巨泉時代の月曜イレブンはお色気企画が多かったが、硬派な社会問題も特集した。1971年に「戦後日本の大空白」というタイトルで徴用工問題 や慰安婦問題 を放送。沖縄返還 直前の「沖縄で君は何を見たか」(1972年3月13日放送)、沖縄返還当日の「棄てられた沖縄の証言 〜返還後の沖縄の防衛を考える」(1972年5月15日放送)、1985年に起きた11歳の少年投身自殺事件(「マー先のばか」と書かれた遺書)など、政治・事件・事故など数々の社会問題を取り上げ、1972年5月9日に第9回ギャラクシー賞 ・放送批評家賞を受賞した[ 11] [ 12] 。
1982年の1月から3月にかけて計5回放送された「日韓シリーズ」は大きな反響を呼び、3月1日には韓国放送公社 で総集編という形で韓国でも放送された。巨泉は、「このシリーズ1本のため、残り364日はバカを言ってもいい」と語っていたと言う。プロデューサーの都築忠彦 は視聴率は取れるときに取ればいいという考えで、取れるものでベースを作った上で、あとからテーマ性のあるものを打ち出して制作したと語っているが、後に雑誌『中央公論 』での対談で田原総一朗 から「何で低視聴率になってしまう韓国 問題や沖縄問題をやるのか」と聞かれたという[ 12] 。
日本テレビが毎年8月に開催する大型チャリティー番組 『24時間テレビ 「愛は地球を救う」 』はこのシリーズの「世界の福祉特集」が元となっており、同番組スタッフが日本テレビ開局25周年記念番組の社内コンペで同特集を企画として出して採用されたとしている。なお、アメリカ合衆国 で毎年開催されている『レイバー・デイ・テレソン 』を参考にしたという指摘もあるが、24時間テレビの発案者でもある都築はこれを否定している[ 12] 。
久里洋二 のミニミニアニメーション
1966年から1982年まで、月曜イレブンのコーナーとして800本近いショートテレビアニメ が放送されていた。
裸の報告書シリーズ
ポール・モーリア の「オリーブの首飾り」のテーマ曲で始まる月曜イレブンのお色気企画。主にいその・えいたろう (風俗ライター)やカルーセル麻紀 がリポーターを務め、トルコ風呂 (現在:ソープランド )などの性風俗産業の取材を行い、裏文化の仕掛け人の紹介をした。
UFO ・超能力 特集
1970年代中盤以降、月曜イレブンで年に数回、UFOや超能力に関する特集が組まれた。番組後年は水曜に放送していた。
TIME GANG(タイム・ギャング)(よみうりテレビ制作)
1979年から1987年までの火曜イレブンでは、構成に東京同様のマガジン形式を採り入れ、特に「TIME GANG」のサブタイトルを付けて放送した。進行は羽川英樹 (当時よみうりテレビアナウンサー)や初期は高橋基子 が務め、レポーターとして横山プリン 、後年はタージン 、九十九一 らが登場していた。司会の藤本義一はまとめ役(コメンテーターに準じたもの)に回った。ただし、バーテンダー役の野村頻紹との掛け合い生CMは引き続き放送した。後述する「秘湯の旅」はこの「TIME GANG」のコーナーの一つである。
裸のヨガ(よみうりテレビ制作)
火曜イレブンの企画。文字どおり、海岸で女性モデルが全裸 (前が映る時はトップレス )でヨガ のポーズを披露していた。
秘湯 の旅(よみうりテレビ制作)
火曜イレブンの企画。「うさぎちゃん」と呼ばれた女性リポーターが全裸に近い状態で、数々の温泉 を紹介した。「効能 」という言葉もこのコーナーから広まった。
イレブンルーレット
1986年4月から9月まで、所ジョージが担当した水曜イレブンで放送。番組のセット自体が巨大なルーレットとなっており、電話による視聴者参加形式でルーレットゲームを行った。
イレブンフィッシング
金曜イレブン冒頭の趣味企画。釣り名人・服部善郎(読売映画社(当時) プロデューサー)が主に海釣りをレポートしていた。聞き手は横田岳夫ディレクターが担当した。また釣りが趣味の巨泉も率先してロケに参加していた。
麻雀実践教室
金曜イレブンの趣味企画の一環として放送され、麻雀番組の走りとなっていた。
CAR GUIDANCE
1966年に大橋巨泉が金曜イレブンのホストになってから1985年に降板するまで続いた長寿コーナー。当初は巨泉が担当していたが、後に番組内で「悪役」と呼ばれたレギュラー出演者の小林昭男 や女性リポーターが新型車をメーカーを問わず紹介し、週によっては輸入車も取り上げることもあった。
イレブンダービー
競馬に見立てた双六ゲーム。一般視聴者が電話で参加し1対1で競われた。いろは順の(イ - ヌ)×(1 - 10)の数字に構成されたパネル100枚の中から交互に1枚ずつ選び、書かれた数字分だけ進む。ただし、マイナスも隠れており、選んでしまった場合は数字分だけ戻らなくてはならない。また、「落馬」もあり、この場合はその時点で失格となる。先にゴールした視聴者が勝ちとなった。巨泉時代の金曜イレブンで放送された。『スーパークイズスペシャル 』に巨泉がゲストで出演したとき、巨泉の司会で、番組出場者が参加する形にしてこの企画の復活版が行われたことがある。マス目を示すボードには「イレヴ ンダービー」と記載してあった。
このコーナーの箇所は、1968年 1月1日 放送された『ある日わたしは 』というテレビドラマでも再現されており、バニーガール 役として城山ゆり子(松原智恵子 )とその友人の夏子(梶芽衣子 )、美枝(橘和子 )が担当している。
海外ロケ
当初は小島や巨泉があまり知られていない海外(主にヨーロッパ)を旅して紹介するものだったが、かたせや秋川などの女性アシスタントのグラビアシーンも取り入れられた。また、ロケ地の夕陽の映像を必ず撮影していき、そのシーンを紹介したコーナーもあった。
異色対談
違う世界の大物著名人が、予備知識なしで対談するという企画。林家三平 ・オノ・ヨーコ 、輪島功一 ・金子光晴 、竹村健一 ・五味康祐 など様々な対談があった。
紅白ストリップ合戦
全国から人気ストリップ嬢が集合し紅白形式に分かれ、"艶技"を披露する年末恒例企画。1974年12月30日には番組史上最高視聴率をマークした。
夜のレコード大賞 (よみうりテレビ制作)
年末企画。有線放送のデータをもとに審査され、大賞などが決定される。後に独立して『全日本有線放送大賞 』と改称され、現在は『ベストヒット歌謡祭 』として放送されている(ただし賞レース形式は2010年をもって撤廃されている)。
各界名士のど自慢
年内最後の放送の年末企画。政治家、社長、文化人などが歌を披露した。終了後も独立した特番として1993年ごろまで続いた。
上方お笑い芸人紅白歌合戦(よみうりテレビ制作)
大阪発の年内最後の放送における関西芸人たちによる年末企画。司会は羽川英樹で藤本は審査員だった。
創設期
「視聴率 不毛の時間帯」とされていた深夜番組 の時間帯の開拓に乗り出し、日本教育テレビ(NETテレビ、現在:テレビ朝日) の『モーニングショー 』同様、アメリカ の深夜情報番組 『ザ・トゥナイト・ショー 』をヒントに企画された。「お色気番組 の元祖」的な位置づけをされる番組だが、初期は週刊読売 編集長だった山崎英祐が司会を務め、時事問題についての考察を述べるスタイルの、日本テレビ報道局制作の硬派番組であった。
しかし全く視聴率が取れず、テコ入れ策として横田岳夫ディレクターから「どうしたらいい?」と相談を受けた大橋巨泉が「今まで扱ってこなかった“遊び”の要素を取り上げたら?深夜だから大丈夫だろう」と提案。横田も同調し番組の変革を思案したが、司会役を巡って調整が難航(三橋達也 をはじめ高島忠夫 、藤村有弘 ら4人ぐらいのタレントに司会を打診したがいずれも断られてしまった)、ついに横田から「いっそのこと巨泉、自分で喋っちゃったら?」と頼まれたため、「巨泉のなんでもコーナー」という名前で巨泉自らコーナー司会を務めることになった。その後、山崎に代わる司会として打診した小島正雄 に「(月曜日・水曜日・金曜日の)週3日はしんどいから2日にしてくれ」と要望されたことがきっかけで、横田の推薦で既に番組視聴者に顔と名前が知られていた巨泉に白羽の矢が立つ。これを機に巨泉はこれまでの放送作家から司会者に転身することとなった。
巨泉は月曜日・金曜日・週2回司会を務めることになったが、月曜日も担当することになったのは1968年1月に小島が突然急死して後釜の手配がつかなかったためで、当初は月曜日・水曜日についてはピンチヒッターという扱いで日本テレビ制作の3日分すべての司会を巨泉が担当した。そして2月中旬から水曜日は当時の大阪イレブンで人気を得ていた元芸妓の安藤孝子 の起用例に倣い、銀座の現役クラブママであった堤妙子 を起用[ 注釈 4] 、月曜日については局側の意向が強く働いたこともあり結局そのまま巨泉が正式な後任となった。
放送時間
当初は月曜日 - 木曜日はタイトル通り23:00丁度のスタートで、金曜日のみ『日本プロレス中継 』や『金曜夜席 』の放送があったため、23:15スタート。NNN 最終版ニュース『きょうの出来事 』をインサートした。後に『きょうの出来事』は23:00丁度に放送時間が移動して再び独立し、『きょうの出来事』の放送時間拡大が進むにつれ、『11PM』は放送時間が23:15→23:10→再び23:15→23:20→23:30(金曜日は『TVムック・謎学の旅 』が入ったため23:45)というように放送時間が繰り下がってゆく。番組末期には23:55スタートとなり、プロ野球中継(巨人戦)の時間延長やゴールデンタイムの特別番組の影響で午前0時台にスタートしてしまうことも少なくなかった。
最も遅く始まった回は、1988年 7月26日 放送の火曜イレブンで、日本テレビが中継したプロ野球オールスターゲーム の放送が1時間延長されたため、0:55からスタートした。また、23:15スタートの時代にはタイトルロゴに「+15 」が、23:20スタートの時代には「+20 」が付加されていた。
基本的に本番組は生放送 だったが、状況によって収録 の場合もあったとされ、末期の金曜レギュラーの吉田照美 が『日刊ゲンダイ 』の短期連載で記したところでは、本番数時間前の夕方に疑似生放送(いわゆる撮って出し )で収録することが多かったとのことである[ 注釈 5] 。当時、高校生であり、法律により本来出演できる時間帯ではない小栗香織 が金曜日に出演していたのはそれが理由である[ 16] 。
放送期間
放送時間(JST )
月曜 - 木曜
金曜
1965年11月8日 - 1966年9月30日
23:00 - 翌0:00(60分)
23:15 - 翌0:00(45分)
1966年10月3日 - 1969年3月28日
23:15 - 翌0:15(60分)
1969年3月31日 - 1972年3月31日
23:10 - 翌0:20(70分)
1972年4月3日 - 1974年3月29日
23:15 - 翌0:23(68分)
1974年4月1日 - 1980年3月28日
23:15 - 翌0:21(66分)
1980年3月31日 - 1985年4月4日
23:20 - 翌0:25(65分)
1985年4月5日 - 1988年4月1日
23:30 - 翌0:35(65分)
23:45 - 翌0:50(65分)
1988年4月4日 - 1990年3月30日
23:55 - 翌0:55(60分)
特記事項
制作
企画段階では月曜から金曜まで全曜日を日本テレビが制作する予定だったが、当時の日本テレビ内部では社員の労働超過が問題になっており、労働組合 が猛反発。会社側が「日本テレビ制作は月曜日・水曜日・金曜日の週3日とし、火曜日・木曜日はよみうりテレビに制作を委託する」という妥協案を出し、これを組合側が受け入れて番組が制作された。尚、後の番組好評を受けて、1967年夏より土曜22時台にてよみうりテレビ制作による土曜版の放送が開始(司会は曾我廼家明蝶 )されたが、1968年5月までの短期間で打ち切られている。この体制は後番組の『EXテレビ 』→『どんまい!!→TVじゃん!! 』にも受け継がれたが、『ZZZ 』では地方局の多くも参加(ただし、制作は東京のプロダクションに丸投げ)。それが発展解消した現在の『夜は別バラ→しんバラ→バリューナイト→プラチナイト 』では、木曜日[ 注釈 6] に限りよみうりテレビが制作を担当している[ 注釈 7] [ 注釈 8] 。
大阪担当の木曜日は時折ネット局各社との共同制作となり、藤本などの司会者が日本各地に出張して放送された。内容は大抵が「〇〇県の風俗」となっていたが、ここで言う「風俗」とはどちらかといえば「民俗」に近い、真面目な物が多かった。
最初のCMに入る前には必ず製作(制作)著作のロゴ表記をしていた(最後の挨拶でも同様)。
例:「製作著作(当時の社章)日本テレビ[ 注釈 9] 」「制作著作 よみうりテレビ」
見識
明石家さんま のテレビデビューは当番組の大阪イレブンで、「落語家の成人式」という副題で「SEXの四十八手 以外に知っている技は」という質問に「逆さ十文字落としでぇーす」と答え、説明してウケたが、司会の藤本義一から「さんまかいわしか知らんけどな、テレビで言っていいことと悪いことがある。それぐらい覚えて出て来い!」と本番中に叱責された事を後年語っている。
時事
記念番組
節目ごとに「○○周年記念祭」のスペシャルがあり、巨泉・愛川・藤本の3人やレギュラー出演者が一堂に会した。過去に、8周年・10周年・15周年・20周年に行われた。司会は徳光和夫 で、後の『11回忌法要スペシャル』でも会場の司会進行をしている。
録画放送
稀に月曜日・金曜日のプロ野球・巨人戦ナイター中継 において、月曜日は公開生放送の『NTV紅白歌のベストテン 』、『ザ・トップテン 』、金曜日は『太陽にほえろ! 』の放送が優先されることがあったため、試合時間内での生中継が出来なかったこと、また北海道 遠征(北海道シリーズ)については平日のデーゲームであったことから、その場合『11PMナイター』と称して録画ダイジェスト中継が行われた。また、日本プロゴルフ選手権大会 の開催日にも予選ラウンド2日間を、さらに野球・ゴルフ以外の競技も録画中継したことがあった他、最終年度の1989年など読売ジャイアンツが優勝した年には祝勝会の録画中継や優勝までのドキュメントをまとめた優勝特番を放送した事もあった。いずれも先述した重大ニュース発生時と同様に「11PM」の題を残しながら放送されていた。これは後継番組の『EXテレビ 』でも同様だった。
1969年 11月28日 には日本テレビの労働組合 がストライキ を決行したため生放送を行うことができず、急遽、過去の収録分を再放送したことがあった[ 18] 。
1972年から1975年まで全日本女子プロレス の録画中継も年4回の割合で行った。全女の中継はフジテレビ の『全日本女子プロレス中継 』が有名だが、当時の看板レスラーだった赤城マリ子 がきっかけとなり彼女をメインエベンターとして独占的に放送していた。また全日本女子プロレスの後楽園ホール 初進出も1973年5月30日放送分であった。
放送時間の短縮
1974年 には第1次オイルショック による電力節減の一環として放送終了時間の繰り上げ措置が行われていた。日本テレビでは1月7日 から0:25終了としたためこの番組への影響は少なかったが、1月14日 からその措置がとられたよみうりテレビでは在阪民放4局[ 注釈 11] の社長会の取り決めで0:00終了となったため、よみうりテレビでは放送途中の0:00で放送終了となり、また同局が制作していた火曜・木曜分は0:00以降はネット局への裏送り になった。その後オイルショックの状態が緩和されたことにより在阪4局の取り決めが解消されたため、5月6日 よりよみうりテレビの放送終了時間が0:25となり、同日から通常の放送に戻った。
出演拒否
出演者
月曜日・水曜日・金曜日(日本テレビ製作)
注
^ 愛川の水曜日司会担当時、今野雄二 がサブ司会を務めたが、詳細な担当期間は不明。
^ 巨泉の金曜司会就任当初、パートナーは週替わりのゲスト制を採っていたが、5週目のゲストパートナーとして朝丘がゲスト出演した際の両者の掛け合いが好評であったことから1966年5月より正式にレギュラーに起用された。
^ 朝丘の結婚・妊娠休業に伴う代役として出演。
^ a b c 小島の急死(1968年1月17日に急逝)に伴うもので、小島急逝後の1か月間は水曜日も含めて巨泉がピンチヒッターという形で務めていた(2月中旬以降、水曜日は堤と交代、月曜日は正式に後任となった)。
^ 1974年1月から3月は妊娠休業のため由紀さおり が代理パートナーとして出演。
^ カバーガール担当期間を含むが、アシスタント着任時期は不明。
カバーガール
火曜日・木曜日(よみうりテレビ制作)
司会者・アシスタント
期間
司会者
アシスタント
メイン
サブ
火曜日
木曜日
火曜日
木曜日
火曜日
木曜日
1965年11月9日 - 1969年8月28日
藤本義一 [ 表注 1]
(不在)
安藤孝子
1969年9月2日 - 1970年8月27日
市川靖子
1970年9月1日 - 1971年9月2日
笹田泉
1971年9月7日 - 1976年10月28日
真理アンヌ
1976年11月2日 - 1977年10月27日
岸じゅんこ
1977年11月1日 - 1978年6月1日
多田千香
1978年6月6日 - 12月28日
東てる美
1979年1月4日 - 8月2日
横山エミー
1979年8月7日 - 1980年5月29日
テレサ野田
1980年6月3日 - 1981年4月2日
秋本圭子
1981年4月7日 - 1985年3月28日
松居一代
1985年4月2日 - 1988年3月31日
吉田由紀
1988年4月5日 - 9月29日
桂べかこ
(不在)
(不在)
遙洋子
1988年10月4日 - 1989年3月30日
池田裕子
1989年4月4日 - 1990年3月29日
浦島三和子
表注
カバーガール
土曜日(よみうりテレビ制作)
土曜日(名古屋テレビ制作)
土曜日(日本テレビ制作)
1973年4月 - 1974年3月:佐藤允
アシスタント:奈美悦子 (1973年4月 - 8月)→風間千代子(1973年9月 - 12月)→鶴間エリ (1974年1月 - 3月)
ネット局
『11PM』はNNN系列外の局でも放送された一方で、オイルショックの影響や内容の過激さ、他系列ネットなどを理由に打ち切った 系列も多く、特に『スポーツワイド・プロ野球ニュース 』(FNN ・FNS 系列)開始後は、そちらに切り替える局も現れた[ 注釈 14] 。そのため1990年3月の終了時にフルネットで放送していた局はNNN16局と、他系列とのクロスネット局2局の18局にまで減少していた[ 注釈 15] 。ここでは各地区での放送状況を取り上げた。
なお、後番組が『プロ野球ニュース』扱いとなる局には★を付けている。『プロ野球ニュース』の系列外ネットは1994年3月で終了[ 注釈 16] [ 注釈 17] 。
注
南海放送は日本テレビ系列ではあるが、編成方針にそぐわないとして長年当番組をネットしなかった。開始当初はいわゆる成人向きとみなし、放送エリアである愛媛県 の風土に馴染まないことと、深夜のローカルニュースを廃止できないのが理由であった。しかし1984年4月改編で「ニューメディア」を強く意識した大改編を断行。『必殺シリーズ』『特捜最前線』など娯楽番組を占めていた深夜帯にもメスが入り、遂にネットされることになった[ 40] 。
主なスタッフOB
日本テレビ/東京イレブン
よみうりテレビ/大阪イレブン
白岩久弥 :「11PM」担当時は藤本義一にその演出スタイルを絶賛された。当枠の後番組でプロデューサーを担当した『EXテレビ 』(大阪版)や、『パペポTV 』などでTVの新機軸を開いた。
諏訪道彦 :アシスタントディレクターとして参加。その後、東京制作局→制作局・東京制作センター、編成局・アニメ事業部へ異動。『シティーハンター 』『名探偵コナン 』などのアニメ番組のプロデューサーとして活動中。
11PM 11回忌法要スペシャル
1999年 (平成11年)11月11日 、この日の日付に11が並んだこと、また終了からおよそ満10年(数えで11年)経ったことから『11PM 11回忌法要スペシャル』が、11月11日23:37 - 0:50[ 注釈 28] 一夜限りでNNN30局[ 注釈 29] で放送され、大橋巨泉ら歴代の司会者をはじめ、番組にゆかりのある有名芸能人が一堂に会した。
番組内容は、11PM11回忌法要と銘打たれたパーティの中継で、赤坂プリンスホテル ロイヤルホールのメイン会場は徳光和夫の司会進行で行われた。メインステージは祭壇を模しており、遺影の部分は番組のシンボルだった23:00を指す懐中時計のオブジェで、位牌も作られており、「性楽院深夜拾壱開拓居士 」と戒名まで記されていた。
巨泉や愛川、朝丘らがスタジオ形式でフリートークを行う会場入口前セットの進行は福澤朗 で、当時日本テレビのアナウンサーだった福澤は巨泉から「給料制か。フリーになって、ウチの事務所(オーケープロダクション )に来い」とツッコまれていた[ 注釈 30] 。番組の基本ベースは、番組の生い立ちを人の生涯に見立てた、過去のお宝映像を紹介するVTR企画とそれに沿ったフリートークで展開され、会場入口前セットでは爆笑問題 が11PMの歴史を振り返るフリップ漫才などが行われたほか、メインステージでは、千堂あやか によるストリップショーが披露され、放送された。パーティの終盤には藤本義一を始めとする大阪イレブンの面々も駆けつけ、番組の最後に巨泉、愛川、藤本の3人がトークし、現在のテレビ番組に対して苦言を呈していた。
番組のメインスポンサーには当時と同じサントリー ・トヨタ自動車 ・資生堂 (「ご覧のスポンサー」扱い。なお表記は「アウスレーゼ」名義)が付き、番組名物だったサントリーの生CM も再現され、巨泉と松岡きっこがサントリーの商品を紹介、メイン会場のパーティでもサントリーのアルコール類で乾杯が行われた(CMのコピーは「サントリーのワインで21世紀を祝おう」)。
この11回忌法要スペシャルは、本放送当時の現役スタッフだった菅原正豊 率いるハウフルス が制作を担当し、菅原も総合演出として参加した。なお、よみうりテレビは制作協力扱いで製作著作は日本テレビだった。
スタッフ
構成:浜田悠、長谷川勝士 、小山薫堂 、高橋洋二
ナレーション:武田広 、鷹西美佳 (日本テレビアナウンサー)
編集:鈴木教全
協力:ビデオプロ
制作進行:内田佳代子
制作スタッフ(日本テレビ):河西裕、梅原幹 、栗原甚、朝倉康晴、田澤実、馬場誠、高井昭男、上田知洋
制作スタッフ(読売テレビ):松本芳久、三好順作
製作スタッフ(ハウフルス):津田誠、鈴木正和
ディレクター:加藤就一(日本テレビ)、千葉昭(ハウフルス)
演出:小路丸哲也(えすと )
制作協力:How Fulls、よみうりテレビ、NTV映像センター
プロデューサー:笹尾光
チーフプロデューサー:柏木登
総合演出:菅原正豊 (ハウフルス)
総監督:神戸文彦 、望月和雄
製作著作:日本テレビ
再放送・ライブラリー
2012年1月、ホームドラマチャンネル で、愛川欽也が司会を担当した水曜日のみ「愛川欽也セレクション」として1978年、1982年、1983年放送分から6本が再放送された(権利関係により一部の音楽の使用部分をカット)。同番組が地上波を含めて再放送されるのは初めてのことである。番組の始めと終わりに、愛川欽也・朝倉匠子 の二人が当時の思い出を語る数分のトークが追加された。
2014年2月から、衛星劇場 の「ミッドナイトアワー」枠で、土曜イレブンや末期の日本テレビ制作の当番組が月1本のペースで再放送されていた。肖像権などの権利関係により、ヌードになるモデルの顔や裸にはボカシが施されたり、一部内容をカットした配慮を加えた放送内容となっていた。
横浜市にある放送ライブラリー では以下の5本が閲覧可能となっている。
1970年5月7日放送分「田谷力三 ショー」
1973年1月1日放送分「テレビ20年 なつかしの名シーン」
1980年11月20日放送分「今夜よみがえる東北の芸人たち」
1982年3月1日・3月8日放送分「韓国から見た日本〔2〕〔3〕」
パロディー
脚注
注釈
^ STVとの共同制作「11PM SAPPORO 」など[ 4]
^ 名古屋テレビからのレギュラー化以前にも共同制作で「11PM Nagoya 」が不定期で放送されたこともある[ 5] 。
^ シングル盤「ハリー・オン・ダウン」には、「よみうりテレビ「11PM」番組挿入歌」の表記や、11時の時計が描かれたものなどがある。
^ 但し起用当初より司会者経験ゼロの堤の進行ぶりを不安視する向きがあり、堤は当初契約通り半年で降板。その後8月下旬よりサントリー のインフォマーシャルを担当していた三木鮎郎 が水曜司会を担当することとなった。
^ 吉田照美が出演していた当時の「金曜イレブン」は、10代後半から20代の女性モデルをレギュラーに起用(「SOS歌劇団」という番組内グループ)していたこともあり、彼女たちのスケジュール(10代のメンバーは一部に法律などによる出演時間の制約がかかる者もいた)に配慮しての「擬似生放送収録」が多かったようである。
^ 一時期『プラチナイト』の枠外だった時期あり。
^ 一時期、中京テレビの制作枠があった時期は日本テレビ制作枠が週2日となっていた。
^ 2019年4月からは金曜日に枠が設置されることに伴い、水曜日が中京テレビ制作に変更。これにより、日本テレビ制作が週3日の体制は維持となる。
^ 1985年3月までは「製作(社章)日本テレビ」(他局と異なり「著作」の表記がなかったため)。また当番組において、日本テレビ製作時のロゴ表記は手書きやゴシック体がほとんどだったが、エンディングのスタッフロールでは正規の局ロゴが表示されていた。
^ 当時、沖縄では未放送。
^ 1974年当時テレビ大阪 は未開局。
^ 1979年 - 1980年2月
^ 1935年生の女優 とは同姓同名の別人。本名同じ。1960年3月23日東京都生まれ。東京立正短期大学 を1980年3月に卒業。1980年3月に「今週のギャル」コーナーに出演したが、出演した際の反響が大きかったことから1980年5月からカバーガールとなった[ 21] 。
^ 開始時、プロ野球ニューススタッフは本番組をかなり意識しており、キャスターに当時の月曜・金曜担当であった巨泉を引き抜く話もあったという。
^ 後述の、11回忌法要スペシャルは沖縄県 を除く30局ネット(長崎国際テレビ 、鹿児島読売テレビ を含む)で放送された。
^ 1994年4月スタートの『ニュースJAPAN 』への内包となり、FNN単独加盟局以外でのネットが事実上不可能になったため。
^ これに伴い、四国放送 、高知放送 、テレビ宮崎 は『どんまい!! VARIETYSHOW&SPORTS 』よりネット再開した。
^ a b c d e f g h i 11回忌法要スペシャルもネット。
^ a b c d e f g h 11回忌法要スペシャルはネット。
^ ネット交換前 、日本テレビ系列 (NNN のみ)だった福島テレビ ではネットされなかったが、福島テレビ ・福島中央テレビ とのネット交換 により1971年10月1日からネット開始[ 27] 。
^ エログロ低俗化を訴えた後、『ミセス&ミセス 』と共に打ち切り。ただし、1983年10月12日は田中角栄の判決に関する内容だったので、「報道スペシャル」の題に置き換えた上で放送した。当番組の後番組である『EXテレビ 』は1993年10月に山口放送がNNSフルネット局になってから放送を開始したほか、『ミセス&ミセス』の後番組である『ルックルックこんにちは 』も当初は時差ネット(一時期放送なし)で開始したが、1993年10月以降はフルネットで放送した。
^ 放送開始した1965年12月時点ではネットしていない[ 37] 。
^ 「テレビ欄」『朝日新聞 』大阪版、1969年4月30日、9面。
^ 1975年3月時点では既に打ち切っていた。
^ いったん打ち切りにし、後に再開。
^ 当時の上層部との折り合いが付かなかったのが退職の理由。
^ チーフプロデューサーと同義。
^ この日の『ZZZ 』第1部『キスだけじゃイヤッ! 』と、『BOON! 』は休止。
^ 長崎県・鹿児島県は終了後に開局した長崎国際テレビ 、鹿児島読売テレビ にこの回だけ移行。
^ 福澤は、後にオーケープロダクションの親会社となったイースト 傘下のノースプロダクション に所属。その後同じくイースト傘下のオールラウンド へと移籍している。
出典
参考文献
青森放送株式会社『青森放送50年史』青森放送 、2004年。
大橋巨泉『巨泉 : 人生の選択』講談社 〈講談社文庫〉、2003年。
大橋巨泉『ゲバゲバ70年!大橋巨泉自伝』講談社、2004年。
テレビ静岡社史編纂委員会 編『テレビ静岡二十年の歩み』テレビ静岡、1988年。
名古屋放送株式会社社史編集委員会 編『希望の泉 2』名古屋放送、1982年4月1日。NDLJP :12274809 。 (要登録)
開局50周年記念社史編纂事務局 編『名古屋テレビ放送50年史』名古屋テレビ放送 、2012年。
南海放送株式会社 編『地域とともに三十年』南海放送、1984年2月。NDLJP :12275568 。 (要登録)
日本テレビ放送網株式会社『深夜の浮世史 : Wide show 11PM』日本テレビ放送網 、1983年2月18日。NDLJP :12275349 。 (要登録)
読売テレビ50年社史編纂委員会 編『読売テレビ50年社史』讀賣テレビ放送 、2009年。
関連項目
^ 『ダイハツ・フェロー カタログ』ダイハツ工業、1967年、3-4頁。
^ 小関和夫『日本の軽自動車 カタログで楽しむ360ccの時代』三樹書房、2000年、74頁。ISBN 4-89522-265-9 。
日本テレビ 平日深夜枠
前番組
番組名
次番組
不明
11PM
日本テレビ 平日23:00枠
不明
11PM
日本テレビ 平日23:15枠
不明
11PM
The Day きょうの出来事 ※23:00 - 23:20
日本テレビ 月曜 - 木曜23:20枠
不明
11PM
きょうの出来事 ※23:00 - 23:30
日本テレビ 月曜 - 木曜23:30枠
不明
11PM
きょうの出来事 Sports&News ※23:00 - 23:55
日本テレビ 金曜23:20枠
不明
11PM
TVムック ※23:00 - 23:30
きょうの出来事
※23:30 - 23:45
日本テレビ 金曜23:45枠
不明
11PM
きょうの出来事 Sports&News ※23:30 - 23:55
関連項目
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関連項目 関連人物
日本テレビ関係者 日本テレビ以外 のアナウンサー 番組共演者 その他
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瞳の誓い
99粒の涙
乙女心ウラハラ
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IMORI MIYUKI SINGLE COLLECTION 井森美幸に2,000円!!
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