潁州 (安徽省)潁州(えいしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から民国初年にかけて、現在の安徽省阜陽市一帯に設置された。 魏晋南北朝時代527年(孝昌3年)、北魏により設置された。『元和郡県志』では北斉により廃止されたとあるが、『北周地理志』では廃止されたのは長社の潁州であり、この潁州はその後も存続したと考察している[1]。 隋代隋初には、潁州は下部に3郡4県を管轄した。582年(開皇2年)、譙州の一部管轄県が移管されている。607年(大業3年)、郡制施行に伴い、潁州は汝陰郡と改称され、下部に5県を管轄した[2]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
唐代621年(武徳4年)、唐が王世充を平定すると、汝陰郡汝陰県の西北10里の地に信州が置かれ、汝陰・潁上・清丘・永安・高唐・永楽の6県を管轄した。623年(武徳6年)、信州は潁州と改められた。742年(天宝元年)、潁州は汝陰郡と改称された。758年(乾元元年)、汝陰郡は潁州の称にもどされた。潁州は河南道に属し、汝陰・潁上・下蔡・沈丘の4県を管轄した[3]。 宋代1079年(元豊2年)、北宋により潁州に順昌軍が置かれた。1116年(政和6年)、潁州は順昌府と改められた。順昌府は京西北路に属し、汝陰・泰和・潁上・沈丘の4県を管轄した[4]。 金のとき、順昌府は潁州の称にもどされた。潁州は南京路に属し、汝陰・潁上・泰和・沈丘の4県と永寧・漕口・王家市・櫟頭・永清・椒陂・正陽・江陂・界溝・斤溝・永安の11鎮を管轄した[5]。 元代元のとき、潁州は汝寧府に属し、太和・沈丘・潁上の3県を管轄した[6]。 明代以降明のとき、潁州は鳳陽府に属し、潁上・太和の2県を管轄した[7]。 1724年(雍正2年)、清により潁州は直隷州に昇格した。1735年(雍正13年)、潁州直隷州は潁州府に昇格した。潁州府は安徽省に属し、直属の阜陽・潁上・霍丘と亳州に属する渦陽・太和・蒙城の3県、合わせて1州6県を管轄した[8]。 脚注 |