雍州
雍州(ようしゅう)は、中国にかつて存在した州。現在の陝西省中部から北部・南東部を除く甘粛省・青海省北東部から寧夏回族自治区一帯に設置された。 先秦時代州名は州内の雍山・雍水による。 古代中国の九州のひとつとされ、その範囲は『爾雅』では「河西」、『尚書』では「黒水西河」とする。黄河は陝西省と山西省の境界付近を南から北に流れており、「河西」「西河」は黄河西岸を指す。『周礼』では「正西」すなわち中原から真西側にあたる地域であるとする。 漢代前漢初には雍州の州名は使用されず、この地域は涼州とされた。武帝の時代に雍州が設置されたこともあるが、まもなく廃止された。 後漢末の194年(興平元年)、涼州4郡を分割し雍州が設置された。213年(建安18年)、州名を古制に改めるとし雍州と涼州を統合、雍州とされた。 魏晋南北朝時代220年(黄初元年)、禅譲により成立した魏は旧雍州地域に涼州を設置、旧涼州地域が雍州とされた。また文帝の時期に雍州西部に秦州を設置された。 西晋が成立すると州治は長安に移され、東晋の時代になると太元年間に僑州としての雍州が設置されたが、554年、西魏はその版図内に同名州が存在することとなったため、僑州の方を襄州と改称された。北周が成立すると雍州は国都である長安の所在となり、長官は刺史の上位の州牧が設置され、隋・唐に継承された。 またこれ以前の487年(太和11年)、北魏により雍州西部に岐州を設置された。 隋代605年(大業元年)、隋により宜州及び華州が雍州に統合され8郡26県を管轄した。607年(大業3年)、郡制施行に伴い京兆郡と改称され、下部に22県を管轄した。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
唐代618年(武徳元年)、唐により京兆郡は雍州と改められた。713年(開元元年)、雍州は京兆府に昇格し、行政区画名としての雍州の名称は消滅した。 日本への影響唐朝との日本の交流の中、雍州が長安の所在地であることより、日本の京師である山城国の雅称に転用し、そこから「雍尋城州」という異称も派生している。『雍州府志』も山城国の地誌である。 関連項目 |
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