梁郡梁郡(りょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から隋代にかけて、現在の河南省東部と安徽省北部にまたがる地域に設置された。 概要秦の碭郡を前身とした。 紀元前202年(前漢の高帝5年)、彭越がこの地に封じられ、梁国が立てられた。紀元前196年(高帝11年)、梁王彭越が謀反の罪で処断されると、高帝の子の劉恢が梁王に封じられた[1]。後に呂后の甥の呂産が封じられたが、死後一時的に恵帝の子とされる劉太が封じられるもすぐに処刑され、一時的に国は除かれた。2年後に文帝の四男の劉揖、その死後は次いで文帝の次男の劉武が封じられた。劉武の死後、梁国は5人の子の封国として5つに分割された。文帝の子の武帝が即位し、全国に州が設置されると、梁国は豫州に属し、碭・甾・杼秋・蒙・己氏・虞・下邑・睢陽の8県を管轄した。王莽のとき、陳定郡と改称された[2]。 新末に梁王劉永が割拠すると、梁国の称にもどされた。29年(後漢の建武4年)、劉永の子の劉紆が殺害されて、光武帝が梁国を平定する[3]と、梁郡に改められた。79年(建初4年)、汝南王劉暢が梁王に封じられ、再び梁国が立てられた[4]。梁国は下邑・睢陽・虞・碭・蒙・穀熟・己氏・寧陵・薄の9県を管轄した[5]。 曹魏が建国されると、梁国は廃止され、梁郡に改められた。232年(太和6年)、元城王曹悌が梁王に封じられる[6]と、また梁国が立てられた。
265年(泰始元年)、西晋が建国されると、司馬肜が梁王に封じられた[7]。梁国は睢陽・蒙・虞・下邑・寧陵・穀熟・陳・項・長平・陽夏・武平・苦の12県を管轄した[8]。 北魏のとき、梁郡は南兗州に属し、襄邑・睢陽の3県を管轄した[10]。 596年(開皇16年)、隋が宋州を立てた。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、宋州は梁郡と改称された。宋城・雍丘・襄邑・寧陵・虞城・穀熟・陳留・下邑・考城・楚丘・碭山・圉城・柘城の13県を管轄した[11]。 621年(武徳4年)、唐が王世充を平定すると、梁郡は宋州と改められ、梁郡の呼称は姿を消した[12]。 脚注 |