利州広元の利州本節では、南北朝時代から宋代にかけて、現在の四川省広元市一帯に設置された利州について述べる。 北魏により設置された西益州を前身とする。536年(南朝梁の大同2年)、南朝梁が西魏を攻撃し、西益州を奪い、黎州と改称された。553年(西魏の廃帝2年)、西魏が蕭紀を攻撃し、黎州を奪い、利州と改称された[1]。 隋初には、利州は4郡8県を管轄した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、利州の属郡は廃止された。605年(大業元年)、沙州が廃止され、旧平興郡の地域が統合されて、利州は11県を管轄した。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、利州は義城郡と改称され、下部に7県を管轄した[2]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
618年(武徳元年)、唐により義城郡は利州と改められた。742年(天宝元年)、利州は益昌郡と改称された。758年(乾元元年)、益昌郡は利州と改称された。利州は山南西道に属し、綿谷・胤山・嘉川・葭萌・益昌・景谷の6県を管轄した[3]。 宋のとき、利州は利州路に属し、綿谷・葭萌・嘉川・昭化の4県を管轄した[4]。 1277年(至元14年)、元により広元路が置かれた。広元路は四川等処行中書省に属し、綿谷・昭化の2県と保寧府と剣州・竜州・巴州・沔州の4州を管轄した[5]。 遼寧の利州本節では、現在の遼寧省朝陽市にあった利州について述べる。998年(統和16年)、遼により利州が置かれた。利州は中京大定府に属し、阜俗県1県を管轄した[7]。 金のとき、利州は北京路に属し、阜俗・竜山の2県と蘭州寨と漆河鎮を管轄した[8]。 広西の利州本節では、現在の広西チワン族自治区にあった土司の利州について述べる。宋のとき、利州が建てられ、横山寨に属した。元代も宋制を引き継いだ。利州は岑姓の土官が統治しており、洪武年間に明に帰順し、知州の任を受けた。1427年(宣徳2年)、知州の岑顔が頭目の羅嚮を北京に派遣して馬を朝貢した。正統年間、岑顔は泗城州の岑豹と激しく抗争した。1523年(嘉靖2年)、利州は泗城州に併合された[9]。 脚注 |