渭州渭州(いしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代に現在の甘粛省定西市に設置され、唐代に現在の平涼市に移されて、金代におよんだ。 魏晋南北朝時代530年(永安3年)、北魏により渭州が置かれた。渭州は隴西郡・南安郡・広寧郡の3郡6県を管轄した[1]。 隋代隋初には、渭州は3郡6県を管轄した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、渭州の属郡は廃止された。605年(大業元年)、紀州が廃止され、これを統合すると、渭州は8県を管轄した。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、渭州は隴西郡と改称され、下部に5県を管轄した[2]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
唐代618年(武徳元年)、唐により隴西郡は渭州と改められた。742年(天宝元年)、渭州は隴西郡と改称された。758年(乾元元年)、隴西郡は渭州の称にもどされた。渭州は隴右道に属し、襄武・障・隴西・渭源の4県を管轄した[3]。763年(広徳元年)、渭州は吐蕃に占領された。809年(元和4年)、唐により原州の平涼県に渭州が仮設置された。880年(広明元年)、平涼県は吐蕃に占領された。884年(中和4年)、唐が平涼県の故地を奪回し、平涼県に渭州が再設置された[4]。 宋代北宋のとき、渭州は秦鳳路に属し、平涼・潘原・崇信・華亭・安化の5県と靖夏城と甘泉堡を管轄した[5]。 脚注 |