信都郡

信都郡(しんと-ぐん)は、中国にかつて存在した漢代から唐代にかけて、現在の河北省東南部に設置された。

概要

漢の高祖のとき、信都郡が立てられた。紀元前155年景帝2年)、劉彭祖が広川王となると、広川国が置かれた[1]紀元前37年建昭2年)、劉輿が信都王となると信都国が置かれた[2]前漢の信都国は冀州に属し、信都扶柳辟陽南宮下博武邑観津高隄広川楽郷平隄西梁昌成東昌の17県を管轄した。王莽のとき、新博郡と改められた[3]

後漢が建てられると、信都郡と改称された。72年永平15年)、劉党が楽成王となると、信都郡は楽成国と改められた[4]122年延光元年)、劉得が安平王となると、安平国と改められた[5]。後漢の安平国は信都・阜城・南宮・扶柳・下博・武邑・観津・経・堂陽・武遂・饒陽・安平・南深の13県を管轄した[6]184年中平元年)に安平郡と改められた。

265年泰始元年)、司馬孚西晋の安平王となり安平国と再び改められた[7]284年太康5年)、司馬玷が長楽王となると、長楽国と改められた。西晋末年に長楽郡となった。西晋の長楽郡は信都・下博・武邑・武遂・観津・扶柳・広宗・経の8県を管轄した[8]

北魏のとき、長楽郡は堂陽・棗強・扶柳・索盧・広川・南宮・信都・下博の8県を管轄した[9]

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、長楽郡は廃止されて、冀州に編入された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、冀州は信都郡と改称された。信都郡は長楽・堂陽・衡水・棗強・武邑・武強・南宮・斌強・鹿城・下博・蓨・阜城の12県を管轄した[10]

621年武徳4年)、唐が竇建徳を平定すると、信都郡は冀州と改められた。742年天宝元年)、冀州は信都郡と改称された。758年乾元元年)、信都郡は冀州と改称され、信都郡の呼称は姿を消した[11]

脚注

  1. ^ 漢書』景帝紀
  2. ^ 『漢書』元帝紀
  3. ^ 『漢書』地理志下
  4. ^ 後漢書』顕宗紀
  5. ^ 『後漢書』孝安帝紀
  6. ^ 『後漢書』郡国志二
  7. ^ 晋書』世祖紀
  8. ^ 『晋書』地理志上
  9. ^ 魏書』地形志二上
  10. ^ 隋書』地理志中
  11. ^ 旧唐書』地理志二