日本のアニメーションの歴史日本のアニメーションの歴史(にほんのアニメーションのれきし)では、日本におけるアニメーション史について記述する。「アニメーション映画」、「テレビアニメ」の記事も参照のこと。 前史から1940年代前史→「アニメーション映画」も参照
![]() 広義のアニメーションは複数の静止画により動いて見せるものであり、近代以前には以下が存在する。 約3万2000年前の旧石器時代に描かれたショーヴェ洞窟の洞窟壁画は世界最古のアニメーションとも呼ばれる。考古学者と画家による研究では、動物は全て通常より多い本数の足・頭・尻尾が描かれており、ちらちらとした炎の明かりで見た場合に動いて見えるという[1]。 近代になり1831年にフェナキストスコープ、1834年に回転のぞき絵、1877年にプラキシノスコープが発明された。 映像作品としての初期のアニメーションには以下がある。 1902年のジョルジュ・メリエスによる『月世界旅行』の最後の、ロケットが港に戻るシーンで、すでに切り絵アニメーション(静止した背景画の前で、船の切り絵を少しずつずらしてコマ撮りする)が用いられ、これが映画のコマ撮り(ストップモーション)によるアニメーショントリックである。 それ以前には1892年にフランスで作られたエミール・レイノーの『哀れなピエロ』(原題:Pauvre Pierrot)を初めとする一連の作品がある。しかし、レイノーの作品は純粋な意味での映画ではなく、テアトル・オプティークと呼ばれるゼラチンフィルムに別々に描かれた手書きの人物と背景をプロジェクターで同時にスクリーンに投影装置によって上映されていた。他にアメリカのジェームズ・スチュアート・ブラックトン監督による『愉快な百面相』(1906年、原題:Humorous Phases of Funny Faces)などがある。これは黒板に白チョークで描く実写と、そのコマ撮りを組み合わせた線画アニメであり、この最後のピエロの部分では白い枠線の切り絵がチョークアニメーションと組み合わされて用いられている。またアメリカでは1920年代半ばから『アメリカン・アニメーションの黄金時代』が始まっている。 実写部分を含まない世界最初の純粋な短編アニメーション映画は、フランスの風刺画家エミール・コールによる『ファンタスマゴリー』(1908年、原題:Fantasmagorie)である。以後、数年間でアメリカおよび映画発明国フランスで線画アニメ映画の製作が盛んになった。ちなみに日本で最初に封切られたアニメーション映画は1912年(明治45年)4月に東京市の映画館で公開されたエミールの作品『ニッパールの変形』(1911年、原題:Les Exploits de Feu Follet)といわれる[2]。なお世界初の純粋長編アニメーション映画は1917年にアルゼンチンのキリーノ・クリスティアーニによって製作された。 1914年にはセル画によるアニメーション技術がアール・ハードによって開発、特許申請される。しかし、当時、一般には、背景を印刷した紙にペン描き、というのが、一般的だった(『クレイジー・カット』シリーズ(1916年、原題:Krazy Kat)、『フェリックスの初恋』(1919年、原題Feline Follies)など)。また、アルゼンチンやドイツなどでは、切り紙や人形アニメが盛んに創られていた。 アジアでは1941年に中国において万籟鳴と万古蟾の万氏兄弟監督で公開された『西遊記 鉄扇公主の巻』がアジア初の長編アニメーション映画とされる。1942年には戦時下の日本に輸出され、当時16歳の手塚治虫に影響を与えると共に、海軍省に長編アニメーション映画『桃太郎 海の神兵』(1945年)を制作させる動機となった。 日本における前史![]() →「日本の漫画の歴史」も参照
12世紀 - 13世紀(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)の日本の絵巻物にアニメーション技術の前史をさかのぼる見方がある。高畑勲によれば、『鳥獣人物戯画』『信貴山縁起』『伴大納言絵巻』などの絵巻物は、永遠や本質や現実に迫る西洋の物語絵画とは対照的に、時間的経過を空間的に表現して「現在」の連続として味わわせるもので、表情の変化、線で書かれた動きなどは漫画やアニメと同じであり、日本のアニメの歴史は絵巻物から語らねばならないと述べている[3][4]。 江戸時代の幻灯芝居である写し絵、走馬灯、草双紙、合巻、紙芝居、影絵、のぞき絵にも、アニメのカット割り、マンガのコマ割りの技術がみられ、中でも写し絵は動画映画の始祖であるとされる[5][3][4]。 日本アニメの黎明期![]() ![]() ![]() 日本では1917年(大正6年)に初めてアニメ作品が制作された[6]。当時続々と輸入されていた日本国外の短編アニメ映画の人気を受けてのことで、下川凹天、幸内純一、北山清太郎の3人の作品が同じ年にそれぞれ別々に公開された[6]。 1916年、天活(天然色活動写真株式会社)で下川凹天が、小林商会で幸内純一が、日活で北山清太郎が独自にアニメーション制作を開始。1917年(大正6年)1月、下川が手がけた短篇アニメーション映画『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』が公開され国産アニメーション映画の第1号となったが、他の2人との差は数カ月程度でそれぞれ独自の方法で製作しているため、3人とも日本のアニメーションの創始者として扱われている[7][注釈 1]。3作品はいずれも1917年に公開されたが、現存するのは幸内純一の『なまくら刀』のみである[8][9][10][注釈 2]。 諸外国と同じく当初作られていたアニメは数分程度の短編映画が多かった。作り手も個人もしくは少人数の工房での家庭内手工業に準ずる製作体制で、生産本数も少なく、生産の効率化を可能とするセル画の導入も遅れていた。1930年前後にセル画が使われ始まるまでは、日本では、フランスなどと同様、切り絵によるアニメが主流であった。 その後もディズニーなど輸入されたアニメとの競争にさらされながら、小規模なスタジオで制作されていた。1953年にテレビ放送が開始されるまで、アニメ作品を鑑賞するには、短編のアニメ映画が添え物として上映されるのを映画館で見るのが主流であり、アニメと言えばアニメ映画以外に存在しなかった。 映画がトーキー化すると制作費が高騰し、興行主は同じ値段なら見劣りがする日本産より質が高いアメリカのアニメを選ぶようになり、第二次世界大戦前の日本で人気を呼んだアニメはアメリカのアニメだった。 第二次世界大戦が始まるとこうした状況は一変し、アメリカ映画は輸入禁止となる一方、戦意高揚を目的とする作品が制作され瀬尾光世監督による長編アニメーション『桃太郎の海鷲』(1943年)が藝術映画社より製作され、1945年には松竹動画研究所により『桃太郎 海の神兵』が産み出され、海軍省が提供した潤沢な予算でそれまで大量に使えなかったセル画や大量の人材を投入した。上記2作のほか、戦争中には日本最初のフルセルアニメーション『くもとちゅうりっぷ』(1943年)があり、戦時中にもかかわらず叙情性が豊かなミュージカル仕立ての作品となっている。 終戦直後も、細々とながら短編アニメ映画は製作され続けていた。この時代の代表作に『すて猫トラちゃん』(1947年)がある。 教育映画・教育ビデオでも比較的アニメは多用された。比較的初期の作品に、『カチカチ山の消防隊』(1948年、日本漫画映画社、消防庁)がある。 1950年代から1980年代カラーアニメの国産化![]() ![]()
戦後、1952年(昭和27年)に、大藤信郎は色セロファンや千代紙を使った短編のカラー作品『くじら』を発表し、カンヌ映画祭の短編部門で2位を受賞した[14][15]。1953年(昭和28年)に日本で初めてのカラー(総天然色)・立体アニメーション映画 『セロ弾きのゴーシュ』、1955年(昭和30年)におとぎプロが制作した短編アニメーション映画版『おんぶおばけ』、1956年(昭和31年)7月藪下泰司演出『黒い木こりと白い木こり』、同年大藤信郎監督『幽霊船[16]』(ヴェネツィア国際映画祭特別賞を受賞)、1958年(昭和33年) 4月5日、東映(教育映画部)製作としては初の国内向けカラーアニメーション映画『夢見童子』が制作された[17]。 東映は1956年に日動映画を吸収合併しアニメスタジオ「東映動画」を発足。東映動画は劇場用アニメーション映画の製作を開始し、日本初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』(1958年)が制作され「東洋のディズニー」を目指した目論見通りに日本国外へも輸出された。 テレビアニメの開始1953年にテレビ放送が始まると、単発で数分程度のアニメーションが番組内の1コーナーとして、あるいはCMにも用いられるようになり、エイケン(旧・TCJ動画センター)のルーツとなる日本テレビジョン株式会社(現・TCJ)[18]や漫画家の横山隆一のおとぎプロが制作に携わっている。また同年に日本初のフルコマ撮り人形アニメーション『ほろにが君の魔術師』が持永只仁、川本喜八郎らの手によって制作されている。 1954年から1956年まで清水崑が原作の『かっぱ川太郎』がシリーズとして全861回放送された。「かっぱ川太郎」は1951年に清水崑が小学生朝日新聞に連載を行った作品である。作画枚数は非常に少なく、紙芝居に近い作風であったといわれている。1955年には朝日新聞社の企画で映画化まで行われ、当時としては高い人気を誇っていたと推測されている。録画放送の技術が無かった頃の作品であるため、原画は残っているが動画は残っていない[19]。 1957年から1959年まで『漫画ニュース』が放送された。この作品では、当日に起きたニュースを静止画と部分的なアニメーションで表現するという試みが行われている。この番組を毎晩見たと言うNHK教育局ディレクターだった後藤田純生は、アニメーションに触発されて『みんなのうた』や『おかあさんといっしょ』でアニメーションを手掛けるようになった[19]。 劇場作品に対して、初期のテレビアニメはテレビ放送のカラー化及びカラーテレビの普及が進んでいない事情もあって、ほとんど白黒で始まることとなったのだが、1958年7月14日と同年10月15日に放送された『もぐらのアバンチュール』はカラーテレビ放送のテストプログラムとして作成された[20]。フィルムは長らく行方不明になっていたが、2013年に日本テレビの倉庫から発見、その一部が2013年6月19日放送の『ZIP!』および『スッキリ!!』で公開され、本作がカラー作品という事実が確証されている[21][22]。そのため現存最古の国産テレビアニメである。 ただし、カラーで放送されたかどうかは不明である。当時はカラー放送の実験放送期間中であり、また、国産のカラーテレビがまだ発売されていなかったため、カラーで放送されていたとしても見た人は限られたものだろうと考えられる[23]。 1960年1月15日に、中村メイコのトークや実写を交えて3つの童話をアニメーション化した30分番組『新しい動画 3つのはなし』(NHK)が放送された。この他に短編アニメーションを利用した番組は、『みんなのうた』(NHK、1961年放送開始)や、おとぎプロ制作による日本初の連続短編テレビアニメーション『インスタントヒストリー』(放送時間1分、1961年5月8日~1962年2月24日)フジテレビ系列で放送されたが、新聞のテレビ欄での扱いは、読売は毎回掲載した以外は、朝日が数回、毎日・日経は掲載していなかった。 鉄腕アトム![]() 当時の映像業界では、アニメーション制作には長い期間と制作費がかかるというのが常識であり、NHK、民放を問わず、本格的なアニメーション番組を制作するテレビ局は現れず、『ポパイ』・『恐妻天国』(後に『原始家族』として再放映)・『宇宙家族』など日本国外から輸入されたアニメーションが盛んに放送されており、1963年の『鉄腕アトム』を待たなければならなかった。 1961年に手塚治虫が発足させた「虫プロダクション」は、日本で最初の本格的連続テレビアニメ『鉄腕アトム』(1963年 - )とそれに付随する日本初のテレビアニメからの長編アニメ映画『鉄腕アトム 宇宙の勇者』(1964年)を製作している。 『鉄腕アトム』は、週1回放送の30分番組という後のテレビアニメの基本形態を作り、日本におけるテレビアニメシリーズの嚆矢と位置付けられている。1961年放送開始の『インスタント・ヒストリー』は3分番組で実質は1分にすぎなかった。 タイトルは『鉄腕アトム』と当初から決まっていたわけではなく、元虫プロ営業部次長の須藤将三によると、スポンサーが明治製菓に決まる直前まで、『鉄腕アトム』か『0マン』かは未定であったという[24][注釈 3]。 東映動画は、手塚治虫原作の『ぼくのそんごくう』をベースとして『西遊記』を制作する際、手塚自身からの申し出もあって、ストーリーボードなどのスタッフとして手塚を招聘することになった[26]。手塚は独自にアニメーションについて研究していたが、フルモーションの長尺作品をベースとする東映動画の考え方とは必ずしも馴染まなかった点があり、独自のアニメ制作を模索することになる。 このために、原作者の手塚治虫自らが制作会社虫プロダクションを興し制作を指示、虫プロスタッフの坂本雄作、山本暎一の両名がテレビアニメ企画を広告代理店・萬年社(99年に破産)に持ちかけ、企画が実現した。 当初、アニメは日本では低年齢層に受け入れられ、子供達の間で特に人気があった。大人達はそれまでに見慣れていた時代劇やホームドラマのようなものに関心が高く、アニメには余り興味を示さなかった。そして初期に作られたアニメで成功した作品はほとんどが子供向きのものであった。この事情から、1960年代から1970年代にかけて制作されたアニメはほとんどが子供、特に12歳以下を対象とした内容であった。キャラクターグッズを欲しがる年齢層もこの年齢層に重なっていたため、アニメ制作会社にとってもこれは好都合であった。 このように、初めてのテレビアニメが制作されてからの約10年間は、良くも悪くもアニメは『鉄腕アトム』に多くの影響を受けていた。現在の日本のアニメは原作を持つ作品が多いが、これは黎明期のテレビアニメに原作付きの物が多かったという例に倣った結果と言える。 少ない制作費手塚のテレビアニメは、撮影そのものが秒8コマのリミテッドであるだけでなく、立絵紙芝居や切り絵アニメーション、古い30年代の部分アニメなどの技法を組み合わせて、止め絵、引き絵、口パク、バンクなどを多用し、カメラによって絵を動かしており、当時の欧米アニメーション主流とはまったく別の、より古いアニメーション原理に則っている。写実性では劣るものの、こうした技術は後の日本のテレビアニメやゲームソフト等にも生かされていった。 また、手塚は「(一本につき)五十万で売って。それ以上高くしないでください。それ(くらい低価格)なら他でつくれないでしょ」と指示、「手塚さんはテレビアニメを独占するつもりだったのかどうか。萬年社は『安すぎる』と、手塚さんに内緒で百五十万円を虫プロに払っていました。実際は制作費がいくらなんて、どうでもよかった。ロイヤリティーが日銭で何百万円と入ってきたんですから。」 (虫プロ・元営業部次長・須藤将三)[24]。 この時の価格が業界での標準となり、アニメの大量生産が可能になった点もあるが現在に至るまでアニメ業界は低予算に苦しめられることになる。 東映VS虫プロ虫プロのアニメを、東映動画の現場の大塚康生らは「電気紙芝居」と批判したが、東映動画の経営陣は、テレビアニメを製作しなければならないという経営上の必要性から、手塚のアシスタントを務めたこともある月岡貞夫の企画をもとに、『狼少年ケン』を製作する。また、やはり手塚に近かった石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の絵で『レインボー戦隊ロビン』を作り、その友人・アシスタントの赤塚不二夫、永井豪や横山光輝などのアニメを量産することになる。宮崎駿は長編中心だが、高畑勲はテレビアニメにも関わっている。 『鉄腕アトム』がテレビ放映されるとその影響はすぐに現れ、長編アニメ映画を制作していた東映動画も同年に『狼少年ケン』でテレビアニメに進出。その後、ノウハウを積み重ねて、それまでフル・アニメーションでアニメ映画を作っていた東映動画がテレビアニメのノウハウを取り入れたB作と呼ばれる『サイボーグ009』を1966年に制作し、この後は、映画の世界でもリミテッドアニメは珍しくなくなった。1960年代は、アニメーション映画はほぼ東映動画と映画『鉄腕アトム』を創った虫プロダクションだけの時代が続いた。ただし、東映動画の長編作品は年に1 - 2本程度、虫プロダクションの制作頻度はそれよりも遅く、当時、莫大な数の邦画が作られていたことから考えると、アニメーション映画はほとんど作られていなかったと言っていい。 東映と虫プロのライバル意識はしばらく残り、東映系のアニメーターと虫プロ系のアニメーターの間で作画修正の応酬が起きることもあった[27]。 カラーテレビアニメと内製システムの崩壊連続テレビアニメでも試験的にカラー制作されるものが現れてきた。1964年1月25日に放映された『鉄腕アトム』の第56話や、1963年12月20日から1964年にかけて全15話が放送された人形アニメーション『シスコン王子』などはカラーで制作されたが、放送自体はモノクロであり、カラーのテレビアニメではなかった[28]。 『ドルフィン王子』全3話が『ジャングル大帝』(1965年10月)に先立つこと半年前に放映されているが、放送回数が少なかったため、「ジャングル大帝」が事実上の日本カラーテレビアニメの嚆矢とされる。 そして、本格的な日本最初のカラーテレビアニメ『ジャングル大帝』(1965年)は、アメリカ合衆国での放送を前提に資本が集められて実現した。 カラーによるテレビアニメは、制作費がかかることと、カラーの受像機が普及していなかった事情から、この後も数年間は新作はカラーと白黒の作品が混在していた。ただしこれはアニメに限った話ではなく、この時代、他の多くの番組も同様にカラーと白黒が混在していた。 楠部大吉郎によるとテレビアニメはカラー化によって制作費が大幅にアップしたそうである。モノクロの時は30分240万から250万だった所がカラーで540万になった。楠部によれば歴史的にいって日本のテレビアニメの制作費がこれほど上がったのはカラー化の時だけである[29]。 テレビアニメは大人気となり、大量のプロダクションが生まれ、作品数も飛躍的に増加したがその結果、アニメーターの数が不足した。多くのプロダクションは美術系大学の卒業生などを集めたがそれでも足りなかった。優秀なアニメーターの引き抜きが恒常的に行われるようになり、アニメーターの人件費はみるみる内に高騰した。反面、テレビ局の製作費はそれほどは増えなかった。 それまでほとんどのアニメ制作プロダクションは内製システムを採っていた。キャラクター設定から原画・動画・動画チェック・彩色・撮影など、全ての工程を社内で行うことによって、作品の品質を保てていた。外注は1963年には既に存在したが、恒常的には行われていなかった。 しかし、1971年から東映動画は主だった工程のみを自社内で行い、動画・彩色などの比較的単純な工程については外注や出来高払いに移行をし始め、実質的な人員整理を開始した。これに対しては組合側が激しく反発したが、経営側は応じず、1972年、指名解雇が始まる。経営側は組合側の反発にロックアウトを行って応酬した。経営側が強硬だったのは、赤字が嵩み、人件費の削減が行えない限り、会社の存続が困難だったためだと言われている。 一方、虫プロダクションでは1973年の労働争議が解決しないまま倒産した。社長の手塚治虫は虫プロ設立当時「僕は何かあったら労組の先頭に立って一番に会社を糾弾する」と冗談を言っていたことがある。 同じく内製システムだったタツノコプロも1970年代半ばに賃金問題と社長の死去で、70名から80名の有力な人材が流出して結果的にリストラを行ったことと同じ状態になった。 これらの事件を切っ掛けに、ほとんどのプロダクションは多くの作業を外注に頼るようになり、また、以後、アニメーターの給与は極めて低く抑えられるようになった[30]。例えば、虫プロダクション出身者によって設立された日本サンライズは、虫プロダクションを教訓に、制作管理スタッフだけを正社員として発足した。この状況は現在も続いている。1980年代後半以降、動画・彩色という低賃金の工程はほとんどが東アジアで行われるようになり、アニメ制作の空洞化が指摘されている(なお東映動画は海外発注を1973年に開始している)。 映画業界におけるアニメ需要の高まり1970年代に入ると、東映・虫プロ以外の他社の参入によりアニメ映画の本数は増加するが、テレビアニメを単に再編集したものが多かった。しかしビデオデッキが全く普及していない時代であり、熱心な愛好者は、テレビの名場面が再び劇場の大スクリーンで見られるというだけで、喜んで劇場まで足を運んだ。比較的有名な再編集アニメ映画には、『宇宙戦艦ヤマト』(1977年)がある。同作品と翌年公開された『さらば宇宙戦艦ヤマト-愛の戦士たち-』は大成功を収め社会現象となった。この成功でアニメが一般社会に認められることとなり、この後にルパン三世劇場版(『ルパンVS複製人間』・『カリオストロの城』)、『銀河鉄道999』、『がんばれ!! タブチくん!!』など高年齢層を狙った作品が相次いで登場し、日本で高年齢層向けアニメーション映画が多数作られる切っ掛けにもなった。 1981年3月には《アニメ・ブーム》とマスメディアが騒ぐこととなった[31]。この年、3月14日の同日封切で、松竹が『機動戦士ガンダム』、東宝が『ドラえもん のび太の宇宙開拓史』『怪物くん 怪物ランドへの招待、東映が『世界名作童話 白鳥の湖』など東映まんがまつり、東映洋画が『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』、日本ヘラルドが『おじゃまんが山田くん』、サンリオが『ユニコ』を公開し、各社アニメ作品のオンパレードとなり、映画界は"3・14アニメ戦争"などと呼ばれた[31]。 1980年代は劇場版『機動戦士ガンダム』などの再編集アニメに加え、『伝説巨神イデオン 発動篇』、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』『AKIRA』など、新作映画も多く作られた。この他、東映まんがまつりに代表される、テレビアニメでの人気作の新作を映画にし、数本立てで上映する形態が恒常化した。これなどの作品はアニメ愛好者よりは子供を中心とした家族を狙った作品が多い。ヒット作を連発した宮崎駿・高畑勲作品(『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『火垂るの墓』等)、『ドラえもん』の劇場用長編などが連年公開されるようになったのもこの時代である。 オリジナルビデオアニメ (OVA)→詳細は「OVA § 歴史」を参照
1983年、日本初/世界初のOVAである『ダロス』が発売される[32]。 これにより日本の商業アニメーションは映画(アニメーション映画)・テレビ(テレビアニメ)に次ぐ第3のメディアをもつことになった[33]。スクリーン数や放映枠数に限りがある映画・テレビと異なり、OVAは(流通にさえ乗せられれば)製作会社都合で自由に出版が可能であった。また映画館・テレビ局のブランディングや放送コードによる内容制限もなかった。そのためOVAはニッチジャンル[34]や作家性の強い作品[35]を育む土壌となり、商業アニメーションはその幅を更に広げていくことになる[36]。 この後も続々と新作が発売され、1980年代後半からしばらくの間にかけて日本アニメの柱の1つになった。OVAは、作品そのものを購入できるような収入を持つ独身男性を主要購買層に定めた作品が多く[要出典]、それらを対象にしたアニメは自然とOVAで発表されることが増えた。 コンピュータグラフィックスの登場コンピュータグラフィックス (CG) の利用は、1960年代から始まり、アメリカでは映画『2001年宇宙の旅』にも参加したジョン・ウィットニー(John Witney)が先駆者として評価され、1961年に『カタログ(Catalog)』を制作。日本でも、1967年11月に第1回草月実験映画祭において、山田学と月尾嘉男によるコンピュータ制御のプロッタで描画したアニメ『風雅の技法』を発表。日本初のCGアニメと目されている。黎明期のCGは表現力の乏しさから抽象的なアートアニメーション、計算に基づいたシミュレーションに用いられた。初期のコンピュータゲームも図形的なデザインによる、リアルタイムで生成されるアニメーションと見ることができる。 商業的な娯楽作品にCGを大々的に用いる切っ掛けとなったのは、1982年のディズニー制作のアメリカ映画『TRON』の登場が大きい。その影響からか、日本でもコンピュータを部分的に用いたアニメが登場するようになる。1983年には映画『ゴルゴ13』とテレビアニメ『子鹿物語』、1984年には映画『SF新世紀レンズマン』『超人ロック』などが制作された。これら1980年代前半の作品は話題性や新奇性による宣伝効果狙いを含んだ、実験的なものであった。 1990年代から現在デジタルアニメへの移行従来のアニメは長い間、紙に描いた線画をセルと呼ばれる透明なシートに転写し、それを手作業で着色した上で、順番に取り替えながら撮影する制作方式だった。これは人海戦術的な方式でありながら技術も必要であり、その放送時間と比較して大変な労力を要した。CGもしばらくは特殊効果としての補助的な使用中心だったが、技術革新となったのは1990年代後半頃からのセルの廃止や3DCGである。セルの廃止は、原画を従来通り人間が手描きし、それをコンピュータに取り込んで以降の過程をコンピュータ上で処理する。着色はデジタル彩色となり、使用可能な色数はそれまでのアニメ専用絵具(アニメカラー)の80色程度から一気に1600万色となった。3DCGは原画段階から3Dモデリングを元にコンピュータが作画を行う。基本的に紙への作画はしないので、手書きとは質感が異なるものの、立体物などがリアルに表現できる。これらにより、フィルムでの撮影や編集もコンピューター上での作業に移行することになった。 ディズニーとピクサーは共同で、CGアニメ制作用システム、コンピュータ・アニメイテッド・プロダクション・システム (CAPS) を開発した。CAPSは、1989年の『リトル・マーメイド』で試験的に最後の一部に用いられ、続く1990年に公開された『ビアンカの大冒険』で全面的に採用となった。1991年には『美女と野獣』、1992年には『アラジン』にも用いられ、興行的にも成功を収めた。セルアニメーションで培われた技法と、CG独自のカメラワークや表現を違和感なくを調和させて、1992年にはアカデミー賞の最優秀科学技術賞を獲得した。さらに1995年にはピクサーが制作した3D-CGによる『トイ・ストーリー』が大成功を収める。フルCG映画の登場によりCGの話題性や新奇性は薄れ、CGは単なるアニメ制作の手法の一つとして定着していった。 日本でも1995年に最初の3DCG連続テレビアニメ『ビット・ザ・キューピッド』が放送開始された。新作アニメはセル非使用前提で開始されるようになり、セルの需要が減少したため、1997年に富士写真フイルムは利益の少ないセルの生産を停止、それを期に東映動画はほぼ全作品でセル非使用に切り替えた。2002年には旧来の長寿アニメの大半もセル非使用に切り替わった。そして、2013年に『サザエさん』もセル非使用に切り替わり、セルアニメは実験的作品を除いて消滅した。 デジタル化に伴い、ペンタブレットによる作画工程からのデジタル化や、デジタル通信ネットワークの利用による分業(日本国外などの下請けスタジオまで原画データをデジタル通信で送り、完成したデータもデジタル通信で受けとる)も広まった。21世紀前半には、トゥーンレンダリングなどで手書きの質感を3DCGで表現する試み、AIに作画させる試みも進んでいる。 アニメ映画の拡大1990年代のアニメーション映画は、本数は増加したが、高年齢層を狙った作品は少なく、児童・家族向けの作品が多かった。アニメ映画は観客の層が偏り、資本の回収が困難なことが多く、また、高年齢層のアニメ愛好者は劇場に足を運ぶよりは自宅でビデオで繰り返し見るほうを好んだため、製作側が自然とテレビアニメやOVAを重点に置き始めたためだと考えられる。また、テレビアニメの映画化が非常に多いのがこの時代の特徴である。1990年代はアニメーション映画はほぼ毎年日本映画の興行成績の上位に位置しており、1989年の『魔女の宅急便』を始めとして、1991年は『おもひでぽろぽろ』、1992年は『紅の豚』、1994年は『平成狸合戦ぽんぽこ』、1995年は『耳をすませば』、1997年は『もののけ姫』、1999年は『劇場版ポケットモンスター 幻のポケモン ルギア爆誕』と、以上がその年の日本映画興行成績の最上位を記録している。 2000年代になると、アニメなしでは日本映画は成り立たないとまで言われるほど、アニメ作品の比重が増加した。キネマ旬報によると、2002年度の日本映画の興行収入10位までの内6本がアニメで、1位と2位、4位、5位は全てアニメだった。ただし、2003年度は、アニメの本数は5本に減り、1位はアニメではなかった。またこれらアニメ映画のほとんどは『ポケットモンスター』に代表されるテレビアニメ番組の新作を映画にしたものである。 教育用では、麻薬防止用の啓発ビデオ『ダメ。ゼッタイ博士のゼミナール』(1995年)や、税金・納税の義務・著作権・銀行・参政権[37][38] などの啓発・広報ビデオなど、アニメの使用は広がっている。教育映画は実写でのドキュメンタリー作品が中心で、従来、アニメの比率は高くなかったが、近年、割合は増えつつあり、歴史教育映画・番組でも、アニメを使用したものは多い。かつてアニメは幼児・低学年向けに限られていたが、中学生向け程度まではアニメ作品が創られるようになっている。 深夜アニメとインターネット配信日本では1990年代後半から深夜帯の青年向けアニメが広まり始めた(深夜アニメ)。1998年頃から特定の層に需要を見込んだ採算性が注目されるようになり、テレビアニメの放送形態として一般化していった。この動きには、1990年代に製作委員会方式がアニメでも採用されだしたことが一因であると言われる。 深夜アニメにおける製作委員会方式とは、高年齢層向けの作品を高年齢層向けの時間帯に放送し、その宣伝効果でビデオソフトやキャラクター商品を売り上げ、制作資金を回収する方法が確立された。これにより、高年齢層向けの作品のテレビアニメも増えてきた。これらの作品は深夜帯や独立UHF局、BS局、アニメ専門のCS局、インターネット配信などの安い放送枠を狙って先行放送した直後にビデオソフト化し、話題になっているうちに販売するという販売戦略が採られている。 普及した要因としては、複数の企業が制作費を出し合う製作委員会方式によって制作費の調達が容易になったこと、少子化による玩具の売り上げ低下で玩具メーカーがスポンサーから撤退しゴールデンタイムのテレビアニメ放送が難しくなってきたこと、1995年の高年齢を狙ったアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の大成功、1997年頃に実用化されたコンピュータ彩色による制作費の低下・制作期間の短縮化、テレビアニメのビデオソフト化で制作費を賄う仕組みができたこと、そして地上波の深夜放送枠、ケーブルテレビ局、WOWOWノンスクランブル枠、独立UHF放送局、CS放送、BSデジタル放送、インターネットといった新たな放送枠が開拓されたことが挙げられる。 1990年代後半より少子化で子供向けアニメの需要が低下し、全日帯の自主規制も強まる中、アニメファン向けの映像ソフトなどの販売や世界展開などを見込んで製作側が時間帯を買い取るという形での深夜アニメが数多く作られた。その結果、2006年には全日帯のアニメ製作分数と深夜帯のアニメ製作分数がほぼ互角となるほどにまで深夜アニメが広がり、アニメバブルとも形容された。 こうしてニッチな客層に特化したことで、一部の国民的有名作品を除いて一般人の視界からアニメが消えることになったが、ビデオパッケージの販売が好調だったことに支えられ業界はうまく回り、深夜アニメから話題作が出るようになった。2000年代後半に動画サイトと海賊版の登場があり、DVD市場は焼け野原となるが、この状況を逆手に取って、『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006年、京都アニメーション)が動画サイトの力で大ヒットを成し遂げた[39]。 2000年代後半には京都アニメーションなど小規模のプロダクションがネットなどの口コミによりヒット作を輩出し、2011年のシャフトによる『魔法少女まどか☆マギカ』は地方での地上波放送が無かったにもかかわらず深夜アニメとしては異例の高視聴率を獲得、続く劇場版では深夜アニメ映画で初めて興行収入で20億円を突破した。 2000年代末期以降になると深夜アニメに対してほぼ黙殺を貫いていた主要メディアも存在を無視できなくなり、2010年代には『進撃の巨人』(2013年)などをこぞって取り上げるなど深夜アニメの大衆化が進んだ。『進撃の巨人』はキー局ではない深夜放送だが、コミックの売上が2013年上半期総合1位になり社会現象と呼ばれた。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンなどにもアトラクションが設置されている。主題歌も月間カラオケランキングで総合1位になり、CDも売れ、NHK紅白歌合戦に出場している。また同年には『ラブライブ!』(2013年)も興行収入20億円を超え、同様に紅白歌合戦に出場している。 ただし放送数には地域によって差が見られ、2012年には独立局で放送の深夜アニメを含めると最多の東京都とその電波が届く地域では145本が放送されたのに対し、地方を中心に全く放送されなかった地域もある。地上波ではこのような状況であるが、インターネットや衛星放送により地方での格差は是正されている傾向にあり、各種動画サイトやBS11では積極的に深夜アニメの放送、配信を行っている。 深夜アニメや、2010年代に台頭したNetflixオリジナルアニメなどを始めとするWebアニメの制作数拡大により、21世紀には狭義のOVAは衰退し、ネット配信に移行している。 国によるアニメ産業育成1977年から、文化庁は毎年数作品の「こども向けテレビ用優秀映画」を選定し、テレビアニメに製作援助金を交付する制度を開始した。1998年には一般向け作品を含む「文化庁優秀映画作品賞」に統合された。 2004年5月、アニメや漫画など日本のソフト産業の保護・育成に官民一体で取り組む為の「コンテンツ促進法」[40] の法案が自民党、公明党および民主党の3党共同で提出され、法案審議は全会一致で可決している[41]。その後、2020年1月までに2度の改正が行われているものの、現行法として機能し続けている[42]。 しかし一連の「クールジャパン」事業による政府の支援は現場に届いていないとされる[43]。 日本国外への輸出の歴史日本アニメの主な輸出先は北米で、金額では過半数を占めると言われる。しかし、日本のアニメは、北米だけではなく、フィリピン、韓国などの東・東南アジア地域、南米、当時社会主義国時代だった東欧諸国を含むヨーロッパ、オーストラリア、ロシアなど、全世界で放映されており、それらの国の映像文化・児童文化に与えた影響は非常に大きい。ただし、放映状況については明確な統計もなく、それぞれの製作プロダクションにもはっきりとした記録が残っていない場合が多い。本小項目内では、主に北米向けの輸出状況について述べ、分かる範囲で他国の状況をも列挙する。 本格的なアニメの輸出は、1963年、アメリカ合衆国で『鉄腕アトム』が放映されたことに始まる。『鉄腕アトム』は現在までに30か国以上で放映された。これを皮切りに、1970年代までにかけて『ジャングル大帝』、『エイトマン』、『マッハGo Go Go』、『科学忍者隊ガッチャマン』、『宇宙戦艦ヤマト』などがアメリカ合衆国で放映された。また、アメリカ向け専用番組の下請け制作も広く行われた。 これら日本のアニメの進出に対し、明確な拒否反応を示した国もいくつかあった。ほとんどの国での拒否的反応の理由は、古くから日本でも行われた批判と同じで、暴力的であり、性的な表現を含む、というものだった。国によってはそれなどには過敏に反応し、かなり大きな内容の変更が行われた場合もある。ただし、いずれにしても、当時主な視聴者であった子供らからははっきりとした拒絶はされず、ほとんどの国では現在でも同じように日本製アニメが放映されている。 外国で放映されたテレビアニメは、日本製であることを隠すため、スタッフ名が削除されたり、現地風の名前に差し替えられて放映された作品もある。また、内容が現地に合わせて改変されるのは恒常的に行われた。例えば、前述の『科学忍者隊ガッチャマン』では、アメリカ放映の際、戦闘場面が暴力的であるという理由で削除され、関係ないロボットを登場させたり、別ストーリーを構成したりして放映時間を調整した。 また、ある国で受け入れられた作品が他国でも人気になるとは限らなかった。例えば『超電磁マシーン ボルテスV』は、フィリピンでは主題歌が軍歌に採用されるほどの大成功を収めた。日本風の生活風景の出るもの(『ドラえもん』)や、特定の国を扱った作品(『ベルサイユのばら』)は、国によって受容されるかどうかが明確に違う。 1980年代になると、アメリカでは日本と同じように、玩具を売るためのアニメの製作が盛んになり、日本のスタジオも下請けの形でこれらの作品製作に加わった。実際にはほとんどを日本で製作した作品が多い。ただし、元となる玩具販売がアメリカ国内限定という事情もあり、これら作品のほとんどは日本では放映されていない。例外として『戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー』は、アメリカ向けに製作された玩具販促アニメであるが、日本に逆輸入されて放映された。 この時代になると、アメリカの日本アニメの愛好者団体の活動(ファンサブ)が活発化してくる。最古参のファンによればこれらの団体は北米で家庭用ビデオデッキが販売されてすぐ、1976年に活動を始めた。起源については、ロサンゼルスのアジア人向けUHF局が流していたロボットアニメを鑑賞する会から始まったという説がある。当時から、日本製アニメに対してanimeという語が使われていたという。 一方、ヨーロッパでは、1978年からフランスの子供番組内で日本のテレビアニメの放映が始まり、人気を博した。アメリカと異なり、フランス語のアテレコだけでほぼオリジナルのまま放送された。子供たちには圧倒的な支持を得たが、描写が暴力的で下らないとして大人からの批判が高まり、1990年代末に番組は終了したが、同じころ、フランス以外の国々でも放送され、多くのアニメファンを育てた。フランスでは、この当時アニメを見て育った世代は、番組のパーソナリティーの名前を冠して「ドロテ世代」と呼ばれている[44][45]。 日本アニメの日本国外での評価と進出は、1989年12月の『AKIRA』の北米公開を境に大きく変化する。当初ハリウッドではこの映画はあまり注目されず、北米での配給権を買ったのは中小の配給会社だった。しかし、各地の芸術系映画専門館で巡回的に公開する策が功を奏し、観客や批評家に日本のアニメは芸術的なものがあるという印象を与えることに成功した。『AKIRA』は、ヨーロッパでも同様の公開方式を採り、こちらでも同様の印象を与えることに成功した。 1992年から1993年にかけ、『超神伝説うろつき童子』が、イギリス、アメリカで劇場公開された。この作品は成人アニメである。日本では特に評判の高い作品ではなかったが、そのようなアニメ作品に見慣れていなかったヨーロッパ人、アメリカ人には衝撃的な作品であり、おびただしい数の批判が寄せられた。また、一時期、animeはそのような成人アニメの代名詞ともなった。ただし、日本国外でこの作品と同程度の印象を与えた成人アニメ作品は、この後は出ていない。 1995年以降、日本のアニメシリーズがほぼそのままの形で放映される形態での輸出もされるようになった。ただし、国によっては相変わらず大きな改変がされることも多い。特に、通常のテレビで子供が直接見る時間帯に放映されるものに多い。この時代から輸出されるようになった作品に、『美少女戦士セーラームーン』、『ドラゴンボール』、『遊☆戯☆王』などがある。1996年の『攻殻機動隊』はアメリカではタブーの表現に切り込み大ヒットし、アメリカのビルボードでビデオソフト週間売り上げ1位をとったことも、アニメ輸出へ有利に働いた。なおビルボードで日本の映像作品がビデオ販売1位となったのはこれが初めてである。 1999年には新たな転機があった。前年から放映されていた『ポケットモンスター』が全米を初めとして世界各地で大成功を収めた。映画版『ポケットモンスター』と、映画『リング』のハリウッドリメイク版『ザ・リング』の成功から、日本映画、特にアニメ作品への注目が高まった。これらの作品の成功により、ハリウッドの映画会社の中では、日本映画や日本アニメの専門部署を設け、北米向け輸出や改作が可能な作品がないか検討を始める所も出た。この頃、アニメのアメリカへの輸出量は、前年比で3倍まで増え「ジャパニメーション」の言葉とともに広まった。しかしその後の伸びは鈍化し2000年代後半には「ジャパニメーション」ブームは終わった[46]。 また、中国政府は自国のアニメを発展させるため、ゴールデンタイムの時間帯の外国制作のアニメの放映を禁止し、さらにアニメ放映の約8割以上を自国制作のアニメにする措置を2006年9月から行うと発表した。2007年の『名探偵コナン』を最後に中国国内での日本の新作アニメのテレビ放送は行われていなかったが、2021年に『はたらく細胞』のテレビ放送が決定した[47]。 年表
1890年代
1900年代
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1910年代
1920年代
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
脚注注釈
出典
参考文献
関連文献
関連項目外部リンク |
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