乾氏
土佐・乾氏
土佐の乾氏は3流あり、土佐藩家老格(4,500石)の乾彦作和信の系統と、土佐藩馬廻役(1,000石)乾加兵衛正信の系統、そして、長宗我部氏の旧臣で、山内氏入国以降土佐藩に仕えた宇多源氏流の乾氏の系統である。 清和源氏頼光流 土岐支流 乾氏乾彦作和信の系は、清和源氏美濃土岐支流で、土岐頼貞の三男・道謙の子孫とする土岐久右衛門重頼が美濃国池田郡東野村を本拠とし、土岐氏の居城である稲葉山城の北西(乾)の方角であったため名字とした。土岐氏の一族であり、一時期「乾氏」を称したに過ぎない。乾和宜の子、乾彦作和信、乾備後和三兄弟は、天正6年(1578年)播磨国ではじめて山内一豊によって召し抱えられた。慶長6年(1601年)「山内」姓を賜う[1]。 山内和三は、正室に野中権之進良平の娘(母は山内一豊の妹・合姫)の「通宇(つう)」を娶るが子は無く、後妻として千利休の親族である泉州堺の渡辺与兵衛常有の娘・梅子を娶り、三男一女が生まれた[2]。 山内市正和好は藩主・山内豊房の養妹(真田伊賀守忠房次女・須奈姫)を正室に迎え5,500石を食んだが、一人娘の「兼(かね)」は桐間兵庫義卓に嫁し後嗣がいなかった。その為、和好は末期に至り弟の時和を願い出たが、許可の下される前の宝永4年5月18日、享年31歳で歿した[2]。和好の跡を、弟の時和が継いだが、豊房の次代藩主・山内豊隆は乾家の権勢を警戒し、1,000石の相続しか認めず家格も「家老」から「中老」に格下げし、乾家配下の与力も召し放ち(乾氏家臣団の解散)とした。そのため「処分が重すぎる」として乾家親族の中老・乾半之丞和充(当時61歳)、板坂馬左衛門永吉(知行1,200石、当時66歳)が、奉行職を通じて抗議をしたが、「藩主の本意に叛する」として、和充、永吉は即日閉門を命ぜられた[3]。さらに同年9月、両名は閉門を解除されたが、和充は「中老」から「馬廻」に降格、永吉は隠居を申付けられ、嫡子・板坂又左衛門利重も「馬廻」に降格、400石のみ相続が許された。さらに山内時和も、享保6年(1721年)、素行を問責され蟄居となり、嫡子・和祥は半分の500石しか相続が認められず、家格も「中老」から「馬廻」に格下げされた。一方で由緒から「山内」の称号は使用を許可され、幕末まで「馬廻」格として存続した[4]。 幕末の当主・山内轉(源承)、山内彦作和倫は、戊辰戦争の頃、旧姓「土岐」に復し、それぞれ土岐轉(うたた)、土岐彦作和倫と名乗った。家紋は「丸之内桔梗」。菩提寺は高知の永源寺(旧名乾流寺)。乾氏の墓地の面積は330坪に及ぶ。
(出典)『土岐姓乾氏系譜』高知県立歴史民俗資料館蔵 両乾氏関連系図
(出典)『土佐藩御侍中先祖書系図牒』、『土佐の墓』、『板垣精神』
清和源氏頼信流 板垣支流 乾氏
清和源氏(甲斐源氏)武田支流の板垣駿河守信方の孫乾加兵衛正信を祖とする。正信の父、板垣弥次郎信憲が改易ののち殺されたため、旧臣北原羽左衛門、都築久太夫らに供奉せられ、籠居して乾氏と改め、天正18年10月7日(1590年11月4日)、遠江国掛川ではじめて山内一豊に召抱えられた。信憲は不行跡の後に殺害されたため、一般には正信は「信憲の子」より「板垣信方の孫」として知られる。正信の嫡流10代目の子孫・乾退助正形が、戊辰戦争の際に、岩倉具定の言を入れて姓を板垣に復したのが板垣退助である。以降は板垣家 (伯爵家)を参照。家紋は「 系図
(系譜注)
ギャラリー宇多源氏 佐々木支流 乾氏
土佐の佐々木支流 乾氏は、佐々木経方の六男行範の支流という。古くは室町幕府に仕え、京都に住した。その子孫で阿波国の三好家に仕え、勝瑞合戦の時に討死した乾兵庫を祖とする。兵庫の子、乾玄蕃は、阿波国の黒土川の合戦で討死し、玄蕃の子を乾次右衛門という。次右衛門に二子あって、長男を乾長右衛門と言い、二男を乾新右衛門正之という。乾正之(新右衛門)は、山内忠豊公の御代、1661年(万治4年)4月13日に初めて土佐藩に召抱えられ、1714年(正徳4年)6月27日死歿した。この正之を初代として明治まで連綿と続く家である。家紋は「八重桔梗(やえききょう)」、「丸に鱗(まるにうろこ)」、「丸に算木(まるにさんぎ)」、「黒餅に算木(くろもちにさんぎ)」である。同じ土佐藩士であるが、江戸時代を通して上記2つの乾家とは全く縁組などは無く、別家である。 鳥取・乾氏
乾氏は本姓は宇多源氏で、佐々木経方の六男行範の支流という。古くは室町幕府に仕え、京都に住した。永正8年(1511年)に足利義澄が死去するとこれに仕えていた乾太郎兵衛は京都を去り、摂津国島下郡に住した。 孫の乾平右衛門長次の代に池田恒興に仕え、100石を与えられた。以後、池田氏の勢力拡大と共に成長していった乾氏は慶長15年(1610年)に池田忠雄が淡路国6万3,000石の大名に取り立てられた際、家禄を1,400石に加増され、家老職に任じられた。備前岡山転封後も引き続いて家老の座にあり、長次の子・乾直幾は鳥取転封により、家禄を加増され3500石を与えられた。 鳥取藩での乾氏は着座家に列し、その後も代々、家老職を勤めた。また、因幡国船岡に陣屋を置き、自分手政治に準ずる土地支配を行うことを認められた。代々の乾氏の中でも6代・乾長孝は学問・武芸に秀でており、家老職にあって、藩政改革を行った功績で知られている。享保3年(1718年)、池田吉泰より1,000石が与えられ家禄4,500石に加増された。寛政10年(1798年)、乾長孝の隠居料500石が与えられ家禄5,000石に加増された。幕末期においても10代・乾徳脩が藩の軍制改革に関わるなどしている。明治2年(1869年)、版籍奉還により船岡の陣屋並びに所領を返還した後は鳥取を離れ、東京に移住した。 菩提寺は船岡の乾徳山西来寺(現在は廃寺)、墓所は船岡の西来寺跡と鳥取の興禅寺の2ヵ所ある。 鳥取・乾氏系図
脚注
参考文献
関連項目 |