乾 信武(いぬい のぶたけ)は、土佐藩馬廻役、家禄300石。板垣退助の祖父。土佐の奇人(いごっそう)として知られる[1]。
来歴
安永7年(1778年)、高知城下中島町の拝領屋敷にて、土佐藩士乾丈右衛門正聰の長男として誕生。母は林藤左衛門勝周の女[2]。諱は信武、幼名は鹿次郎。字は左近兵衛と称し、のち庄右衛門と改めた[2]。
天明6年2月15日(1786年3月14日)、藩主山内豊雍に惣領御目見えを仰せ付けられる[2]。
寛政9年12月6日(1798年1月22日)、御火消方御用を以て、御家中・町方共、火用心番を仰せ付けられる[2]。
文化2年12月18日(1806年2月6日)、亡父正聰の跡目無相違下し置かれる[2]
文化3年8月28日(1806年10月9日)御使母衣(従六位)を賜わる[2]。
藤並大明神の御宮が建立される際、寄付金を差出した件について、文化5年6月4日(1808年6月27日)土佐藩主山内豊興が御満足に思召され、親しく御褒詞を賜わる[2]。
文化7年2月25日(1810年3月29日)役料銀7枚を成遣わされ、江戸詰めの勤務を仰せ付けられ、文化7年7月3日(1810年8月2日)江戸の藩邸にて卒去した[2]。享年33[3]。
墓所
- 江戸にて卒去したため江戸で荼毘に臥され、品川東海寺の塋域[4]に埋葬された墓があるが、土佐薊野の乾家歴代墓所にも東海寺にある墓石と同形の墓石が建てられている。
家族
補註
参考文献
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宗家 |
- ∴板垣兼信?-1190
- 板垣頼重1190-?
- 板垣頼兼
- 板垣行頼
- 板垣長頼
- 板垣頼房
- 板垣信房
- 板垣兼光
- 板垣信将
- 板垣信国
- 板垣信鑑
- 板垣信能?-1490
- 板垣信為1490-1515
- 板垣信泰1515-1530
- 板垣信方1530-1548
- 板垣信憲1548-1557
- 板垣信安1558-1579
- 板垣修理亮1579-1600
- 板垣半右衛門1605-?
- 板垣平右衛門
- 板垣知貞1651-1704
- 板垣信精1704
- 板垣久五左衛門1704-?
- 板垣知素
- 板垣信房
- 板垣致知
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信憲流 | |
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守正流 | |
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正直流 |
- (正祐弟)板垣正直1644-1688
- 乾正房1689-1721
- 乾吉勝1722-1747
- 乾正英1747-1786
- 乾正壽1786-1829
- 乾正春1829-1830
- 乾正厚1831-1869
- 乾正士1869-1941
- 乾一郎1941-2000
- 高岡真理子2000-
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友正流 |
- (正祐弟)乾友正1648-1689
- (208年間断絶した家を絶家再興)
- 乾六一1898-1903
- (乾姓を絶家して板垣に復姓)無嗣断絶
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土佐流 |
- 板垣喜右衛門1602-1631
- 板垣喜右衛門1631-1674
- 板垣喜右衛門1674-1738
- 板垣只平1738-1741
- 板垣宇助1741-1773
- 板垣喜助1773-1815
- 板垣惇平1815-1857
- 板垣堅助1857-1859
- (弟)板垣高幸1859-1885
- 板垣四十六郎1885-1945
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伴内流 |
- 板垣伴内
- 板垣伴内
- 板垣甚内
- 板垣政次
- 佐々木政清
- (弟)佐々木権右衛門
- 佐々木権右衛門
- (養子)佐々木権右衛門
- (養子)佐々木登政
- 板垣政純
- 板垣政徳
- 板垣政一
- 板垣賛造
- 板垣進吾
- 女子
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征四郎流 | |
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