乾 正方(いぬい まさかた)は、江戸時代前期の土佐藩上士。禄高は500石。板垣支流乾氏の第4代。幼名は彦市で、通称は庄右衛門。家紋は「榧ノ内十文字」。
来歴
生い立ち
土佐藩上士(馬廻格・500石)乾正祐(與惣兵衛)の嫡男として高知城下(現高知県高知市)に生まれる。
母は早崎石見の娘。
1649年1月21日(慶安元年12月9日)、土佐藩主・山内忠義に惣領御目見え仰せ付けられる。
1672年7月6日(寛文12年6月12日)父乾正祐が、江戸で病死する。
跡目相続以降
1673年(寛文13年)、土佐藩主・山内豊昌より、亡父跡目(500石)のうち、役料である足軽知(200石)を除いた、元々の知行高である300石を無相違下し置かれ、大御小性を命じられた。
1679年11月21日(延宝7年10月18日)、御持筒支配を命じられる。
1688年1月1日(貞享4年11月28日)、外輪足軽知(200石)を下し置かれた。
1689年10月12日(元禄2年8月29日)、幡多郡中村への在番を命じられる。
1690年(元禄3年)、江戸勤番を命じられる。
1700年10月12日(元禄13年9月1日)、土佐藩主・山内豊房が初めて土佐へ入部し高知城に入城するのにあたって、幕府への礼のため江戸へ使者を命じられ、10月28日(旧暦9月17日)に江戸へ着いたが、豊房が御遠行となったため、差し返された。
1703年(元禄16年)、当分、御馬廻支配を命じられる。
1709年10月24日(宝永6年9月22日)、土佐藩主・山内豊隆の時代、御馬廻組頭役を命じられ、役領知200石を下し置かれた。ただしそれまでの鉄砲知(200石)は差し戻されたので、総禄高は500石である。
晩年
1711年(正徳元年)、病気に依って願い奉り、組頭役を差し免され、御馬廻を命じられた。
1715年7月16日(正徳5年6月16日)病死。
墓は土佐国土佐郡薊野村板垣山(現 高知県高知市薊野東町15-12の北東付近)の山頂にある代々墓地に建てられた。
家族
- 祖父:乾正行(金右衛門)
- 祖母:毛利治郎右衛門の娘
- 父:乾正祐(與惣兵衛)
- 母:早崎石見の娘
- 本人:乾正方(庄右衛門)
- 妻:山内内匠(前野貞次)の娘
- 長男:乾加助
- 前妻:雨森氏春(九太夫)の娘(離別)
- 継妻:服部傳太夫の娘
- 二男:乾正清(与惣左衛門)
- 妻:安積良仍(仁右衞門)の娘
- 後妻:出雲路直元妹
- 弟:乾十次郎
参考文献
|
---|
宗家 |
- ∴板垣兼信?-1190
- 板垣頼重1190-?
- 板垣頼兼
- 板垣行頼
- 板垣長頼
- 板垣頼房
- 板垣信房
- 板垣兼光
- 板垣信将
- 板垣信国
- 板垣信鑑
- 板垣信能?-1490
- 板垣信為1490-1515
- 板垣信泰1515-1530
- 板垣信方1530-1548
- 板垣信憲1548-1557
- 板垣信安1558-1579
- 板垣修理亮1579-1600
- 板垣半右衛門1605-?
- 板垣平右衛門
- 板垣知貞1651-1704
- 板垣信精1704
- 板垣久五左衛門1704-?
- 板垣知素
- 板垣信房
- 板垣致知
|
---|
|
信憲流 | |
---|
守正流 | |
---|
正直流 |
- (正祐弟)板垣正直1644-1688
- 乾正房1689-1721
- 乾吉勝1722-1747
- 乾正英1747-1786
- 乾正壽1786-1829
- 乾正春1829-1830
- 乾正厚1831-1869
- 乾正士1869-1941
- 乾一郎1941-2000
- 高岡真理子2000-
|
---|
友正流 |
- (正祐弟)乾友正1648-1689
- (208年間断絶した家を絶家再興)
- 乾六一1898-1903
- (乾姓を絶家して板垣に復姓)無嗣断絶
|
---|
土佐流 |
- 板垣喜右衛門1602-1631
- 板垣喜右衛門1631-1674
- 板垣喜右衛門1674-1738
- 板垣只平1738-1741
- 板垣宇助1741-1773
- 板垣喜助1773-1815
- 板垣惇平1815-1857
- 板垣堅助1857-1859
- (弟)板垣高幸1859-1885
- 板垣四十六郎1885-1945
|
---|
伴内流 |
- 板垣伴内
- 板垣伴内
- 板垣甚内
- 板垣政次
- 佐々木政清
- (弟)佐々木権右衛門
- 佐々木権右衛門
- (養子)佐々木権右衛門
- (養子)佐々木登政
- 板垣政純
- 板垣政徳
- 板垣政一
- 板垣賛造
- 板垣進吾
- 女子
|
---|
征四郎流 | |
---|