板垣信安
板垣 信安(いたがき のぶやす)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣、板垣氏嫡流。嫡子に修理亮がいる。 来歴甲斐源氏支流の於曾氏出身。弘治3年(1557年)8月以降、板垣信方の嫡子信憲が不行跡を理由に武田信玄により改易されたため、板垣家が一旦断絶した[1]。 しかし、翌永禄元年(1558年)に信方の娘婿にあたる於曾信安が、武田晴信の命によって名跡を継ぎ板垣家を再興した[2]。永禄10年(1567年)の起請文では板垣姓を称しており、武田氏の親族衆として120騎を有した。『甲斐国志』によれば、於曾の菅田天神社や於曾屋敷へ所領を寄進した記録が残る。 駿河国久能城主として永禄12年(1569年)の駿河侵攻では久能城主を務めている(後任は今福友清)。内藤昌秀の戦死後、天正7年(1579年)2月に内藤昌月が上野国箕輪城代就任するまでの間、同城に在城した。 田中城主として田中城(現・静岡県藤枝市田中1)は、1570年(永禄13年)正月、今川氏の傘下であった、徳之一色城を奪った武田信玄が新たに、これらの城域を移動させて増築したのが始まりとされる。 武田四天王の一人とされる山県昌景が城主を務めたが、1572年(元亀3年)、武田勢が西上作戦を始めるにあたって、武田信玄は城主を板垣信安に替え、さらに諏訪原城を構えて徳川氏と対決姿勢を強めた。板垣信安は、「田中の板垣殿」と呼ばれた。山梨県の冨士御室浅間神社や長野県の生島足島神社に判物や起請文が伝わっている[3]。 しかし、この西上作戦の最中で信玄が没し、武田勝頼が1575年(天正3年)に長篠の戦いで大敗を喫すると、徳川氏が諏訪原城を奪い、田中城の支城も徳川氏の手に落ちて孤立した。 1582年(天正10年)、武田親族衆である江尻城の穴山梅雪が織田信長の武田征伐で徳川氏に寝返ると、田中城の城主だった依田信蕃は開城し、徳川氏の傘下に入った。 上野国箕輪城代として上野国箕輪城の城代・内藤昌秀が天正3年5月21日(1575年6月29日)長篠合戦で討死したため、板垣信安が在城。 武田勝頼は、上野支配を、白井城代・真田昌幸と、箕輪城代・板垣信安に委ねた[4]。 子孫信安の嫡男修理亮は、武田氏滅亡後、真田昌幸に仕へ、天正13年(1585年)信濃国上田の合戦で奮戦した[5]。 系譜
注釈
外部リンク
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