乾和信
乾 和信(いぬい かずのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。山内一豊の家臣。のち山内姓を賜り山内彦作と名乗る。 生涯天文13年(1544年)、乾和宣の嫡男として美濃国に生まれる。 和信は「一豊公前々(1578年以前)より御存知に遊され」とあり[1]、織田氏の家臣であった山内一豊が天正6年(1578年)、播磨国三木城主・別所長治攻めの際に初めて正式に召抱えられた[2]。この合戦で軍功を立てたが負傷したため、気遣った一豊が着ていた紙製の陣羽織を脱いで和信に与えた[3] という。その後も重用され、一豊の養女(安東郷氏の娘で、一豊の姪[4] にあたる)を室に娶り、山内姓を賜った。 天正12年(1585年)、主君・一豊が近江国長浜に転封となると知行1300石を与えられ家老となるが、天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた近江長浜の大地震の際、一豊の娘・与祢を助けようとして夫婦共に死亡した[5]。享年42。 系譜乾氏は清和源氏の流れを汲む土岐氏の支流で、土岐頼貞の四男・道謙の子孫、土岐久右衛門重頼が、美濃国池田郡東野村を本拠とし、土岐氏の居城である稲葉山城の北西(乾)の方角であったため名字とした[6] という。 和信には息子2人がいたが、父母殉死の際幼少のため、家督は和信の弟・和三が嗣ぎ、和信の子らは山内一豊の夫人に養育された。 和信の二子は長じて一豊から偏諱「一(かつ)」の字を賜ったが、「一」の字を憚り同音の「勝(かつ)」の字を用いてそれぞれ勝益、勝次と称した。高知県出身の郷土史家で、国府史蹟保存会会長、南国史談会会長を務めた乾常美は、勝次の子孫(分家)の一人とされる[7]。
補註
参考文献
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