乾長次
乾 長次(いぬい ながつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。岡山藩家老。 出自鳥取乾氏は宇多源氏の佐々木経方の六男・行範の支流とされる。長次は鳥取乾氏の祖・乾太郎兵衛の孫に当たる。 経歴天文14年(1545年)、摂津国島下郡に生まれる。初め、足利義輝に仕えていたが、早い頃に池田恒興に仕え、兵部大輔を名乗った。元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正8年(1580年)の花熊城の戦いなどで戦功を為し、100石が与えられた。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いにおいて敵陣へ突入しようとした池田輝政を諫め、結果として命を救ったことがきっかけとなり、以後、重用されるようになった。その後も天正18年(1590年)の小田原征伐などで戦功を為し、慶長5年(1600年)、池田輝政が姫路に移ると600石に加増された(後に900石)。 慶長15年(1610年)、幼い池田忠雄の後見人となり、1400石に加増、元和元年(1615年)に忠雄に従って岡山藩に移り家老職に補せられた。元和2年(1616年)5月9日没。 長次没後、子・直幾は鳥取藩転封により、家禄を加増され3500石を与えられた。子孫は代々鳥取藩の家老を勤めた。 参考文献
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