久遠郡久遠郡(くどうぐん・くどおぐん)は、北海道(後志国)檜山振興局の郡。 人口6,730人、面積638.68km²、人口密度10.5人/km²。(2024年12月31日、住民基本台帳人口) 以下の1町を含む。
郡域→「せたな町」も参照
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在のせたな町南部の大成区にあたる区域(旧:大成町)133.91km2のみであったが、大成町が瀬棚郡北檜山町・瀬棚町と合併し、新設のせたな町となるに当たり、郡名は大成町の属した久遠郡を用いることとなったため、郡域がおよそ4.7倍に拡大した[注釈 1]。一方で瀬棚郡に残留した今金町はそのままのため、「久遠郡せたな町」と「瀬棚郡今金町」という、郡名と自治体名が別々に残るという、全国でも稀有な例となった。 名称の由来諸説ありはっきりしないが、アイヌ語に字を当てたものである。 由来となった言葉については、「仕掛け弓・ある・山崎」を意味する「クウントゥ(ku-un-tu)」や「黒い・岬」を意味する「クンネ・エトゥ(kunne-etu)」が略された「クン・エトゥ(kun-etu)」、「危ない道」を表す「kun-ru」が挙げられている[1]。 歴史郡発足までの沿革室町時代、嘉吉年間に太田山神社が創建され、享徳3年には松前藩祖武田信広公が久遠郡域の大田に上陸。 江戸時代、久遠郡域は和人地となる。松前藩によってクドウ場所・オオタ場所が開かれていた。陸上交通は、隣接する渡島国爾志郡から道道北檜山大成線の前身にあたる道が通じていたが、北の太櫓郡へは太田山が難所となって陸路が途絶えており、安政年間に江差の商人鈴鹿甚右衛門と津軽の商人松前屋庄兵衛らが私費を投じセキナイから太田山を経てラルイシまでの12里(47.1km)の太田山道(国道229号の前身)を開削し通年の陸路での移動を可能とした。 江戸時代後期の文化4年には、久遠郡域は天領とされた。文政4年には松前藩の元に戻されたものの、安政2年再び天領となり津軽藩が警固をおこなった。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して久遠郡が置かれた。 郡発足以降の沿革
明治9年の大区小区
脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |
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