紗那郡以下の1村を含む。
当該地域の領有権に関する詳細は千島列島及び北方領土問題の項目を参照のこと。 概要→詳細は「紗那村」を参照
択捉島北東部に位置し、東は蘂取郡、西は振別郡に接しており、当初は択捉島5郡中で最も面積が広かった。中心集落は紗那で、村役場のほか裁判所の登記所もおかれた。また、紗那川の河口には択捉漁業の大規模な缶詰工場が建設される[1]など、散布半島東岸の別飛もあわせ明治期の択捉島では最も栄えた地域だった。しかし、人口は昭和初期にピークを記録した後、減少傾向となった。 歴史郡発足までの沿革江戸時代中期、紗那郡域は東蝦夷地に属し宝暦4年(1754年)松前藩によって開かれた国後場所に含まれた。寛政11年には高田屋嘉兵衛によって択捉航路が運行されるようになる。同年、紗那郡域は公議御料とされた。 江戸時代後期に差し掛かると、国後場所から分立した択捉場所が開かれ、エトロフ会所(運上屋)[2] (最初は老門だったが、後に紗那へ移転した)や漁場が設けられる。近藤重蔵によると、寛政12年には7郷中2郷(アンオンコタン、アリムイ)7村が紗那郡域にあり、人口も150人程を数えている(旧留別村域の2郷3村、250人ほどを除く)[3]。文化3年には高田屋嘉兵衛によって有萌神社と紗那神社が創立された。同年7月27日、継右衛門ら6名の慶祥丸乗組員たちが、蘂取郡域の番所から紗那の会所に到着。漂着した北千島方面(幌筵島・羅処和島)から帰ってきた。また、南下政策を強力に推し進めるロシアの脅威に備え、紗那には勤番所が置かれ、弘前藩と盛岡藩の藩兵が警固を行っていたが、文化4年4月25日(1807年)会所などをロシアが攻撃・略奪・放火するシャナ事件(文化露寇、フヴォストフ事件)が勃発し、勤務中の間宮林蔵もこの事件に巻き込まれている。当時、有萌村で自刃した隊長の墳墓は史跡となっている[4]。嘉永3年恵比須神社創立。紗那郡域は安政2年再び公議御料となり仙台藩が警固にあたったが、安政6年の6藩分領後も公議御料(仙台藩警固地)のままであった。別飛神社も幕末ころ創立されている。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して紗那郡が置かれた。 郡発足以降の沿革
明治9年の大区小区
人口北海道二級町村制施行前
北海道二級町村制施行後 国勢調査の結果で大正14年 - 昭和10年のデータは、昭和10年の国勢調査報告[10]より。
脚注
参考文献
外部リンク
関連項目 |