爾志郡人口3,122人、面積162.59km²、人口密度19.2人/km²。(2024年11月30日、住民基本台帳人口) 以下の1町を含む。
郡域1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町に二海郡八雲町の一部(熊石各町)を加えた区域にあたる。 名称の由来アイヌ語に由来するとした説もあるが、山田秀三は郡内にそれらしいアイヌ語地名がないことに加え、松浦武四郎による郡名建議書に「乙部より熊石、これを西在八ヶ村と申候。西郡に致し置候方に存候」とあることから、和名の「西」の字を飾って「爾志」としたと推察している[1]。 歴史郡発足までの沿革和人が定着し始めたのは室町時代の嘉吉年間までさかのぼると言われ、後に越後・佐渡・能登方面から移住者が増える。 江戸時代の爾志郡域は和人地となっており、北前船も熊石に寄航していた。また、江戸時代の陸上交通は南の檜山郡方面から北の後志や石狩を経て天塩の増毛方面に至る道(国道229号の前身)が通じていた。延宝5年越山を命ぜられた柏巌和尚が門昌庵を開く。元禄4年には「熊石番所」が設けられ、後に和人地が後志国に拡大されるまで蝦夷地との往来を取り締まった。享保6年5月法蔵寺境内に「山海漁猟群萠下種結縁為菩提也」という供養碑が建立される。 寛保元年7月19日の午前5時ころ松前方面から熊石にかけて、渡島大島の噴火に伴う推定波高約10メートルの大津浪が押し寄せ、相沼、泊川地区の死亡者だけで110名に達し、推定では住民の三分の一程度が死亡するという壊滅的な大打撃を与えた。この津波の被害を記載した『相沼無量寺過去帳』は現在、寛保津波の碑も建立された熊石の無量寺が所管している。天明年間の乙部はニシンの千石場所として発展。天明・天保の飢饉時には南部、青森、秋田方面から移住者が増加した。 爾志郡は当初松前藩領とされていたが、江戸時代後期の文化4年、爾志郡域を含む渡島国域が天領とされた。文政4年いったん松前藩領となったが、安政2年、乙部村以北は再び天領とされ津軽藩が警固をおこなった。文久元年乙部に大火発生、170余戸の人家と寺社殿を焼失。元治元年に松前崇広が老中になると、乙部から熊石まで8ケ村が松前藩に戻された。幕末、熊石で見市温泉が見つかる。箱館戦争の際は乙部に新政府軍1,500名が上陸している。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して爾志郡が置かれた。 郡発足以降の沿革明治9年の大区小区
脚注
参考文献
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