茅部郡茅部郡(かやべぐん)は、北海道(渡島国)渡島総合振興局の郡。 人口17,167人、面積479.42km²、人口密度35.8人/km²。(2024年11月30日、住民基本台帳人口) 以下の2町を含む。 郡域1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町のほか、以下の区域にあたる。 歴史郡発足までの沿革江戸時代の茅部郡域には、松前藩によって小安場所(現・函館市戸井小安地区周辺)・戸井場所(現・函館市戸井地区周辺)・尻岸内場所(現・函館市恵山地区周辺)・尾札部場所(函館市南茅部地区周辺)・茅部場所・野田追場所(旧落部村、現二海郡八雲町野田生周辺)以上、箱館六ヶ場所が開かれ、陸上交通は茅部峠を経て亀田郡の箱館から道東や千島国方面に至る道が通じていた。寛政12年には郡域最北端の野田追まで和人地となっていた。 当初松前藩領となっていたが、江戸時代後期の文化4年、茅部郡域を含む渡島国域が天領とされた。文政4年いったん松前藩領に復したが、安政2年、茅部郡域は再び天領とされ南部藩が砂原に陣屋(分屯所)を築き警固をおこなった。安政3年には茅部峠よりも距離の短い藤山 - 軍川間の軍川新道が開削されている。この他、安政年間には森に一妙寺が建立されている。 箱館戦争の際、鷲ノ木に旧幕府軍約3,000名が上陸した。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して茅部郡が置かれた。茅部郡成立当時、現在の函館市東部(旧・戸井町、恵山町、椴法華村の各全域[1])と現在の二海郡八雲町南西部(野田生・由追・沼尻の各地区全域[2][3])も含まれた。 郡発足以降の沿革
明治9年の大区小区
参考文献
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