上津屋橋
上津屋橋(こうづやばし)は、京都府久世郡久御山町と八幡市を結ぶ木津川に架けられた木橋。川が増水すると橋桁が流される構造を持つ流れ橋であることから流れ橋(ながればし)[1]、あるいは木津川流れ橋(きづがわ ながればし)、八幡流れ橋(やわた ながればし)などと呼ばれることもある。 概要上津屋橋は、京都府道281号八幡城陽線の一部に指定されている橋長(全長)356.5 m、幅3.3 mの橋である[1]。歩行者の専用橋[注釈 1]で、周辺住民の生活道路として利用されている[1]。 手すりおよび、落下防止のための欄干はなく、バイク・自転車は降りて通行するよう注意書きの看板があがっている。街路灯が設置されていないため夜間は暗い。 木津川の水が増水した場合、固定されていない橋板が橋脚の上から流される構造(流れ橋)で、1枚あたり40 - 50 mある板が8枚[注釈 2]、ワイヤーロープで繋がれて載っているだけで、水が引いたあとは、ワイヤーロープを手繰り寄せて橋板を元に戻す仕組みである[1]。橋桁が流失した場合、利用者は約500 m下流側にある新木津川大橋などへ迂回する[2]。新木津川大橋が開通するまでは、数 km離れた別の橋[注釈 3]へ迂回する必要があった。 上津屋橋の周囲は、堤防の外側[注釈 4]であるため、主に茶畑として利用されており民家や電柱などがない。近代的な橋とは異なる外観を利用して時代劇のロケーション撮影地としても利用される[2]。年平均で7回、最大で年24回の時代劇の撮影に利用された経歴がある[3]。 歴史江戸時代から明治時代の中ごろまで、川の両岸地域が上津屋村という一つの農村であったことから住民は渡し船で木津川を頻繁に往来していた[4]。また石清水八幡宮への参拝者も渡し船を利用していた[4]。ただし、渡し船での渡河は利便性が悪かったことから1953年(昭和28年)に少ない予算で架橋できる流れ橋を架けたのが上津屋橋の始まりである[5]。架設当時は京都府道久津川停車場上津屋線の橋梁として建設されたが、1959年(昭和34年)12月に路線が現在の京都府道八幡城陽線となる[4]。 架設から2016年(平成28年)までの間に21回流れており、おおよそ3年に1回程度流されている[6]。ただ、2011年(平成23年)からは4年連続で流されている[6]。
批判と検討2010年代に入ると大雨による橋桁の流出が頻繁に発生しており(2011年から4年連続)、橋桁が流出すると復旧までの数か月間橋が通行不能になり生活に支障が出ることや、あるいは復旧のために数千万円単位の修繕費が発生することから、地元の一部からは「府民の税金を木津川に流しているようなものだ」といった批判が出るようになっている[18]。当時京都府の山田啓二知事も2014年8月の台風11号の被害を受けて「橋としての機能を果たしていない」として、橋の構造を見直し永久橋にすることも含めて検討を行う方針を明らかにした[19]。そこで、「上津屋橋(流れ橋)あり方検討委員会」が設立され、有識者から今後の上津屋橋のあり方について意見を得た[20]。のちの検討委員会では幅広く意見を聞くことになり、意見募集の公募や地元自治体での署名活動が行われた[20]。 一方で、永久橋の建設に必要な費用負担の問題に加え、2013年の流出時には流出後に橋の近くにある流れ橋交流プラザ「四季彩館」の来場者が大幅に増加するなど、橋が流れること自体が観光の大きな要素となっていること[18]、前述のとおり2010年に近隣に第二京阪道路の新木津川大橋が開通したため橋が流れても生活への影響が少なくなっていることや、さらに2014年度に川の堤防から新木津川大橋の歩道に上がれる階段の整備が[注釈 5]されており、完成後はさらに生活への影響が少なくなると予想されること[21]などから、永久橋への架け替えに反対する意見もある。意見公募では約8割が従来の景観を維持したまま復旧を望む声であり、署名活動では12,827名の署名とともに景観の存続を望む要望書の提出があった[20]。 それらの意見を踏まえて検討した結果、2014年11月に従来の「流れ橋」構造のまま75 cmかさ上げして復旧することが決定した[2][22]。 構造通常の桁橋では橋脚と橋桁・橋板(上部構造)は固定してある。しかし、上津屋橋では橋桁・橋板は橋脚にワイヤーロープで繋がれているだけである[4]。そのため、水位上昇時に橋桁・橋板は浮かび上がり、これらはワイヤーで繋がれているため流出することがない[6]。橋桁・橋板は8つのブロックに分割されており、水位上昇時には筏流しのように並んで見えるようになる[6]。 橋桁・橋板が流れる構造は橋の強度を高めて水の圧力に耐えようとするのではなく、構造物の一部が流されてしまうことによって破壊に到る圧力を受け流すという考え方に基づく設計である(柔構造)。加えて、上流から流されてきた物が橋脚と橋桁の間に引っかかってダム様の塊を作ってしまい、それが増水によって決壊する事態も、この構造であれば未然に防ぐことができる。堤防の間を結ぶ永久橋の建設は費用がかかるため、このような構造が採用された[8]。この他にも、ワイヤーロープで繋ぐことで橋桁は増水のたびに流されながらも流失することはほとんどなく、復旧作業の効率と経済性を高めている。しかし流出した橋桁がうまく流れに乗って浮かび上がることができず、損傷する部分も少なくはなかった。 1982年(昭和57年)の台風10号による流出では損失が酷かったため、復旧の際に橋板が取り換えられている[8]。 1997年(平成9年)の台風9号による流出後の復旧にあたっては、流出時の橋桁の損傷を減らすために全体の半分の区間で20枚程度の橋板を鉄製の棒で固定する「ユニット化」が実施された。 2009年(平成21年)の流出時にユニット化の効果が確認できたため、全区間でユニット化を実施して復旧した[23]。 橋脚は全73基中、久御山町側の17基がコンクリート製となっていた。 2015年(平成27年)11月からの復旧工事は、大規模な全面補強再建のため、総工費は約3億5千万円。木材は所定の条件を満たすものを調達するため北山杉が使用された[24]。橋桁と橋板は39枚[注釈 6]で構成され、3枚ずつワイヤーロープで橋脚に固定されている。水位が橋桁に達すると、乗っているだけの橋桁と橋板は浮かび上がり、13ブロックに分かれる。床板は従前の床板を再利用。橋桁は、直径30 - 40 cmの北山杉156本[25]。設計上の流出頻度は5年間に1度の流出を想定し橋面を75 cm嵩上げされた。橋脚はコンクリート製を主体とし、両端の控木は流用可能な松杭は流用された。ただし、コンクリートの部分は着色によって目立たないようにした[24]。流木などの影響低減のため、橋脚の間隔は3.0 - 6.2 m(平均4.9 m)から8.7 - 10.1 m(平均9.1 m)のおよそ倍に広げ、橋脚数が40基となった[26]。工事を早期に完成させるため左岸と右岸に分けて工事が行われ、解体・撤去、下部工設置、上部工設置の3段階に分割されて施工された[27]。 画像
所在地交通アクセス主に以下のアクセス方法がある[28]。
周辺施設橋の八幡市側には食事・休憩・入浴・宿泊などができる総合施設、やわた流れ橋交流プラザ「四季彩館」がある(所在地:八幡市上津屋里垣内56-1)。また橋の近くには四阿のついたベンチを備えた京都府道801号京都八幡木津自転車道線の休憩所がある[29]。 上津屋橋を舞台にした作品文学・小説
音楽脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク |
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