ライアン・ブリスコー(Ryan Briscoe、1981年9月24日 - )は、オーストラリア・シドニー出身のレーシングドライバー。
ブリスコーはシドニーのトリニティ・グラマースクールを卒業した。母語の英語に加えてイタリア語、フランス語を話すことができる。
経歴
初期
多くのレースドライバーのようにブリスコーはカートからその経歴を始め、1993年に最初のレースに参加した。オーストラリア、北米、イタリアでの選手権を勝ち取った後、2000年にフォーミュラ・ルノーにステップアップした。2001年にはイタリア選手権で5勝を挙げてチャンピオンとなり、ユーロカップでは6戦に参加、2勝を挙げてシリーズ4位となった。2002年にはトヨタF1のテストドライバーとなる。その年は国際フォーミュラ3000に参戦したが、思うような結果を出せず7戦を持って撤退することとなる。その後はドイツF3選手権に参加、3度の表彰台を得た。2003年はフォーミュラ3・ユーロシリーズに参戦、8勝を挙げてシリーズチャンピオンとなった。2004年はトヨタF1チームで、サードドライバーのリカルド・ゾンタがクリスチアーノ・ダ・マッタに代わってレギュラードライバーに昇格したのに合わせ、サードドライバーとなった。
2005
2005年はジョーダン・グランプリが、トヨタエンジンを獲得するためにブリスコーと契約する準備ができていたとの噂が生じた[1]。しかしながらブリスコーはチップ・ガナッシ・レーシングからIRLに参戦した。その年はインディ500で10位という成績を残している[1]。彼はまたデイトナ24時間レースにも参加、グランダムへのデビューも果たした。シアーズポイントではポールポジションを獲得したが、オーバルでのレースに苦しみ、何度かのクラッシュを経験した。
2005年9月11日、シカゴランド・スピードウェイで事故に遭遇、両方の鎖骨を折るという怪我を負った。ブリスコーの車はアレックス・バロンの車に乗り上げフェンスに激突、二つに折れた。ブリスコーは9月19日に退院し、アメリカで初期の療養を受けた後にイタリア、ヴィアレッジョの療養施設に転院した。このクラッシュでの負傷から回復するのには8週間が必要であった。公式サイトは2005年11月14日にアメリカに戻ると発表した。
2006
チップ・ガナッシ・レーシングは2006年シーズン、ブリスコーに代えて前年チャンピオンのダン・ウェルドンを起用した。シーズン前にブリスコーはケヴィン・カルコーヴェンのPKVレーシングでテストドライブを行った。また、Miジャック・コンクェストでもテストを行っている。2006年のデイトナ24時間レースにはウェイン・テイラー、マックス・アンジェレリ、エマニュエル・コラールと共に出場したが、ブリスコーがドライブする前にチームはアクシデントによるダメージのためレースを撤退した。
2007年のインディ500で予選を待つブリスコー
2006年、ブリスコーはホールデン・レーシング・チームからジム・リチャーズと組んで耐久レース、サンダウン500およびバサースト1000に参加すると発表された。また、A1グランプリのラグナ・セカ戦にA1チーム・オーストラリアから出場し、3ポイントを獲得した。インディ500ではA.J.フォイト・レーシングから#48号車のドライバーとして出場し、驚きをもって捉えられたが、契約が非常に遅れたためバンプ・デイの残り1時間半でもシートフィッティングを行っている状態であった。結局予選では走行することができなかった。翌週ワトキンズ・グレンでドレイヤー&レインボールド・レーシングの#5号車をドライブ、インディカー・シリーズに復帰する。このレースでは3位を獲得した。続いて同チームから3戦に出場したが、2戦でリタイアした。その後負傷したクリスチアーノ・ダ・マッタに代わってルースポーツからチャンプカー・シリーズに参加、2戦に出走したが、その内の1つは母国で行われたゴールド・コースト・インディ300であった。
2007
ブリスコーはペンスキー・レーシングからポルシェをドライブしてアメリカン・ル・マン・シリーズに参戦する契約と、スティーヴン・J・ルクソとジェイ・ペンスキーのチームからインディ500に出場する契約を交わした。インディには前シーズンのチャンピオンチームであるペンスキー・レーシングの車両が貸与されることとなった。
インディ500にはシマンテック・ルクソ・ドラゴン・レーシングから#12号車をドライブして出場し、予選では7位、平均スピードは224.410mphであった。決勝は2007年5月28日に開催され、ブリスコーは雨のためにレースが中断されるまで、166周を走行していた。結局33人中5位となり、30万2,305ドルの賞金とドライバーズ・ポイントを30獲得した。
2008
インディアナポリス・モーター・スピードウェイ、2008年5月
2008年はNASCARに参戦するサム・ホーニッシュJr.に代わってペンスキー・レーシングと契約、インディカー・シリーズに参戦した。
2008年のインディ500では、ピットアウトの際にダニカ・パトリックと接触、パトリックのサスペンションを引き裂き、自らの車のフロントエンドを破損、リタイアとなった[2]。
レース戦績
† - As Briscoe was a guest driver, he was ineligible to score points.
フォーミュラ
フォーミュラ・ルノー2000・ユーロカップ
国際F3000選手権
(key)
ドイツ・フォーミュラ3選手権
(key)
フォーミュラ3・ユーロシリーズ
F1世界選手権
(key)
- *:サードドライバーとしてエントリーしたが、悪天候のため走行せず。
A1グランプリ
(key)
アメリカン・オープンホイール
チャンプカー・ワールド・シリーズ
(key)
インディカー・シリーズ
年数
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チーム数
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レース数
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PP数
|
勝利数
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表彰台 (勝利以外)**
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トップ10 (表彰台以外)***
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インディ500勝利数
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チャンピオン獲得数
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11
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6
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136
|
13
|
8
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20
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38
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0
|
0
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- ** 表彰台(勝利以外):2位または3位
- *** トップ10
(表彰台以外):4位から10位まで
インディ500
スポーツカー
アメリカン・ル・マン・シリーズ
ユナイテッド・スポーツカー選手権
FIA 世界耐久選手権
ル・マン24時間レース
デイトナ24時間レース
セブリング12時間レース
V8 スーパーカー
+ Not Eligible for points
参照
外部リンク
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ヨーロッパF3選手権 |
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ユーロF3 |
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ヨーロッパF3選手権 |
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FIA F3選手権 |
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