鮎川浜
鮎川浜(あゆかわはま、英語: Ayukawahama)は、宮城県石巻市にある大字であり、旧牡鹿郡牡鹿町大字鮎川浜の一部、旧牡鹿郡鮎川町大字鮎川浜の一部、旧牡鹿郡鮎川村大字鮎川浜の一部、旧牡鹿郡鮎川浜の一部に相当する[6]。郵便番号は986-2523[2]。石巻市の住民基本台帳によると、2023年(令和5年)2月時点での人口は690人である[1]。また、ここでは、分離独立した町丁である鮎川大町(あゆかわおおまち)についても、解説する(後述)。 概要明治期より捕鯨が盛んであり、「鮎川の捕鯨か、捕鯨の鮎川か」と謳われる[7]など、捕鯨の町として著名である。鮎川港を中心に栄えているが、開拓農場のある黒崎や金華山道の終点である山鳥にも小集落が存在する[6]。ホエールタウンおしかや石巻市に6つある総合支所の一つである石巻市牡鹿総合支所があるため[8]、牡鹿地域の中心的な地域であることが窺える[9]。また、金華山やおしか御番所公園といった観光資源や、沖合に世界3大漁場である金華山沖といった天然資源があり、さまざまな資源の豊富な豊かな土地である[9]。しかし、山地が分布していることもあり、農業は盛んではなく、耕地土壌は十八成道、金山、熊野、太子、黒崎にかけて小範囲に分布するのみである[10]。 地域の一部が災害危険区域に指定されている[11]。 昔、鮎川の海は『抹香城』という俗称で呼ばれ、昔から捕鯨で有名であったことがうかがえる。ただし、鮎川浜ではマッコウクジラのみを捕獲していたというわけではなく、ミンククジラやゴンドウクジラ、ツチクジラも捕獲していた[12]。また、鮎川港での捕鯨は「死んで漂流する流れ鯨」や「天敵に追われて磯部に流れよった寄り鯨」を捕獲するという伝統があった[13]。 地理石巻市の南西部、牡鹿半島の先端に位置し、石巻湾へと流れる湊川の沖積平野から成り立つ[6]。東海上に金華山、西南海上には網地島が横たわり、よく風浪を遮る[14]。主に鮎川層[注 1]と山鳥層とよばれる地層が分布している[15][16][17]。鮎川層はアルコース砂岩、中粒砂岩、黒色炭質頁岩、礫岩から成る450mの地層であり、下部のアルコース砂岩には斜交層理が発達している[15]。山鳥層は牡鹿半島南端部に分布する紫緑色、紫黒色、紫紅色の輝石や安山岩を主とした火山岩類と,同質の凝灰角礫岩からなり、鮎川層のアルコース砂岩と断層で接触、牡鹿半島東岸の小山崎で十八成層の黒色頁岩と接する[15]。鮎川層群も山鳥層も形成された時期はジュラ紀後期から白亜紀前期である[16][18]。土壌については、褐色森林土と赤黄色土が主に分布している[19]。半島部(金華山以外)では、東部には山地が、西部には丘陵が連なっており、その間に数少ない低地がある[20]。東部の山地は牡鹿半島における脊梁山脈の東南端である駒ヶ峯から御番所山、黒崎を結ぶ険しい山地である[6]。黒崎から鮎川港にかけては海岸段丘が発達しており、その先端は鋭い海食崖になっている[20]。西部の丘陵は平七山、石峠山、大嵐山、小沢山と標高の低い山々が北北東から南南西にかけて連なっている[17]。 また、鮎川市街地付近には数多の舌状台地が存在する[18]。域内には大原浜から鮎川浜山鳥にかけて旧牡鹿町を南北に二分するように大原-山鳥断層線(O-Y線)が位置する。この断層は地区を西北西から東南東に域内を横切り、この断層の南側には、なだらかな山や平地が多く見られる[18][15]。 黒崎黒崎(くろさき)は鮎川浜の小字、および、牡鹿半島南端の岬の名称である[21]。 伊達綱村が仙台藩内の地理、歴史、風俗、産業等を記録させた奥羽観蹟聞老志によると とあり、歌枕である奥の海が黒崎の海上、即ち、金華山付近の海をさすことを示している[21]。 域内には黒崎遺跡が所在しており、多数の石鏃が出土している[14]。 山鳥渡山鳥渡(やまどりわたし、やまどりのわたし)[注 2]は牡鹿半島と金華山を渡る渡し、および、鮎川浜黒崎の地域名、集落名である[21]。昔は嶋渡(しまわたし)と表記されていたが、「嶋」の字を「山鳥」と読み間違え、それが定着したことを由来とする[21]。また、金華山瀬戸のうち、幅600mの最も狭い所を鹿渡とする場合もある[21]。 山鳥渡地域には、高さ5.4m、総重量10tで牧山より採れる井内石からできた金華山黄金山神社一の鳥居が所在し、金華山が女人禁制の頃は、女性はこの鳥居より遥拝していた[22][23]。 なお、鮎川浜には山鳥という小字名があるが、山鳥渡は鮎川浜黒崎に所在する。 山など
河川いずれも小川である[24]。
気候典型的な海洋性気候を示し、冬は暖かく、夏は涼しい気候であり、「金華山灯台気象資料」(石巻航路標識事務所蔵)によると年平均気温は12.2℃である[25][26]。 小字小字は以下の通り。原則として、デジタル庁公表の宮城県町字マスターデータセット(2024年8月13日時点)、運輸局公表の東北運輸局宮城運輸支局住所コード表(2024年11月1日時点)を基に作成した[5][4]。
明治期の小字宮城県各村字調書によると明治17、18年頃の鮎川浜の小字は以下の通りである[27][28]。
歴史鮎川浜の歴史は古く、金華山貝塚から出土品が発見されたため、縄文時代から人が住んでいたとされる[29]。 平安時代に、奥州藤原氏が金華山の殿沢という地[注 5]に大金寺という祈願寺を建設したとされる[29]。ただし、この時期に鮎川浜の半島部に集落があったという痕跡は発見されていない[29]。 鎌倉時代になると域内の鮎川金山が開発され始め、それに伴って少なくとも1301年(正安3年)までには鮎川浜の半島部にも集落が形成されるようになったとされる[29][12]。 南北朝時代に紀伊国の船乗りが石巻へ下り、牡鹿半島の各地に定住し、鈴木や木村と名乗ったとされる[30]。 風土記御用書出によると、石巻を支配していた葛西氏が滅ぶとともに、岡田甚左衛門、遠藤宮内左衛門、平塚駿河、鈴木源治左衛門、遠藤丹波、大森慶山、才藤帯刀、大森将監、岡田正兵衛、遠藤因幡などといった葛西、大崎の遺臣とされる武士たちが入ってきた[30]。 その後、江戸時代になると、鮎川浜を含める牡鹿半島は仙台藩の支配下となり、大原浜、給分浜、新山浜、泊浜、寄磯浜、谷川浜、鮫浦、網地浜、長渡浜、十八成浜、そして鮎川浜の十浜一浦で構成される牡鹿郡遠島十八成組に属した[14][21]。金華山への参詣道が造られ、鮎川浜に一の鳥居と茶屋が建設されたが集落自体はさほど発展しなかったとされる[21]。この頃の集落は主に、大森、齋藤、岡田、土岐、鈴木、遠藤が六氏が人口の多くを占めていた[30][31]。 慶長元年には、唐船番所が設置され、胆沢郡前沢村、桃生郡成田村、同郡小船越村、同郡高須賀村より輪番で足軽が2人ずつ詰められ、明治4年に廃止されるまで、異国船の監視をしていた[14]。しかし、実際に異国船を目撃したのは文久4年5月23日(西暦の1736年6月28日に相当)の黒船三隻のみであった[14]。 元禄年間の村の状況は、元禄郷帳によると、村高50石余、牡鹿郡万御改書上によれば、村高は69石余、田は五貫三百三十一文、畑は一貫六百五十八文、海上高は三貫二百九十四文であり、人数は433(男は259人、女は174人)、家屋は東西五十八間、南北三町四十間にわたったという[21][14]。その他、御林が17ヶ所あり、御山守が2人いて、屋寿計川淵の桐ノ井では、御前水を藩主出馬の際に献上したとされる[21]。また、1772年(明和9年)の封内風土記によれば戸数は81であったとされる[21]。江戸期における鮎川浜の集落の規模は十八成組の中では中程度であったが、漁村としての一面をもつほかに金華山参詣の門前町のような役割を担っていた[32]。 明治初期では、遠藤、岡田、斎藤、鈴木、大森、和泉の六氏を中心とした小さな集落であった[31]。人口は1887年(明治20年)時点で332人、世帯数は1888年(明治21年)時点で67世帯と、長渡浜より小さく、網地浜、大原浜と同規模であり、小さな漁村であった[31]。しかし、1906年(明治39年)4月12日に山口県下関の東洋漁業株式会社(後の日本水産)が鮎川浜向田に事務所を開設し、金華山沖でノルウェー式捕鯨法を導入した捕鯨を始めてから、捕鯨の町としての知られるようになる[7][33]。ただし、東洋漁業が事務所を鮎川浜に構える際には、鯨の解体による地先海面の汚染を恐れて、少なからずの反対運動があった[34]。しかし、鮎川村長の和泉恒太郎や鮎川漁業組合幹部の鈴木吉松、岡田菊之助、和泉太三郎らの説得により、東洋漁業が村に、年300円を寄付することで合意し、村では鮎川小学校建設の費用にした[34]。東洋漁業事務所の創業開始後、実際に、鯨骨や内臓が事業所から投棄され、海面を汚染したものの、1907年6月に、下関から来た小林惣太郎が鯨皮から、鯨油とゼラチンをつくる工場をつくり、石巻の松田庄助が鯨肥工場を建てたことで事態は好転した[34]。 その後、1907年11月、鮎川浜黒崎鴨川に、高知県奈半利の土佐捕鯨合資会社(後の大洋漁業)が、1908年2月、鮎川浜南に、和歌山県串本の花伊水産株式会社が、1911年2月に、鮎川浜南に、山口県仙崎の長門捕鯨株式会社が事務所を構えた[33]。東洋漁業、大洋漁業や極洋捕鯨(戦後に参入)といった日本の三大捕鯨会社が進出してきたことにより、県の内外から労働者が流入し、世帯数は3倍近くとなり鮎川浜は栄えた[31][35]。また、捕鯨の他、先述のような鯨の廃棄物を再利用するかたちで肥料製造業といった新しい産業が地域に根付いた[12]。1908年10月、和泉恒太郎が鯨〆粕や魚粕などの肥料売買免許を取得したのを皮切りに、11月から12月にかけて、岡田菊之助、鈴木亀吉、岡田宜太郎が鯨〆粕や魚粕の肥料製造営業免許を取得し、海岸を埋め立てて、工場を建設し、鯨肥の製造販売を開始した[36]鮎川浜と隣接する十八成浜で28の肥料製造会社が操業を開始した[12][36]。 鮎川浜以外にも、荻浜に内外水産(1907年)、大東漁業(1907年)、帝国水産(1908年)が、十八成浜清崎に藤村捕鯨(1910年)、小淵浜走りに大日本水産(1910年)に事業所を開設した[33]。 鮎川浜を含め、宮城県内での捕鯨は軒並み、宮城県外資本によって行われたが、宮城県内資本での捕鯨が計画されたことが度々あった。初め、宮城県内で捕鯨に興味を示したのは、養賢堂学頭の大槻清華であった[33]。文政年間大槻清華は鯨志稿を著し、捕鯨への関心を示した[33]。1837年(天保8年)には、仙台藩が捕鯨取開方を設け、牡鹿郡狐崎組の大肝入である平塚雄五郎と桃生郡大須浜の大肝入格である阿部源左衛門がこれを務めた[33]。阿部源左衛門は同年に銛を用いて、鯨四頭を仕留めた[33]。1859年には阿部源左衛門、桃生郡名振浜の寅次郎、甚四郎、船越浜の左五郎、宮城郡塩竈の餅屋与左衛門、三浦屋貞助らが連名して、仙台藩に鯨蝋製造の願書を提出した際には、桃生郡大須浜と気仙郡綾里浜と並んで捕鯨の根拠地の候補として上がっていた[37]。その後も田代の阿部久八郎、渡波の浜谷兼兵衛、仙台の石川進らが、捕鯨計画をたてるも頓挫したり、1906年10月3日に寄磯浜前浜の遠藤栄四郎が金華山漁業株式会社をたちあげ、アメリカ式捕鯨法を用いた捕鯨を行ったものの技術的に、他県の捕鯨資本に及ばず、捕鯨から撤退するなど軒並み失敗した[33]。1923年(大正12年)に、林兼商店の出資を得て、十八成浜の後藤善三郎が遠洋捕鯨合資会社を設立(1930年に遠洋捕鯨株式会社となる)した他、1925年に、鮎川浜と十八成浜の鯨肥業者30人が出資し、鯨肥原料確保を目的に鮎川捕鯨株式会社を鮎川浜田の浜に建設するなど一時的に宮城県内資本が捕鯨を行っていたこともあるが、鮎川捕鯨はマルハ土佐捕鯨派(社長の和泉恒太郎、常務の阿部儀助、稲井商店など)や東洋捕鯨派(監査役の和泉総之助、島孝、鈴木良吉など)、遠洋捕鯨派(主に十八成浜の業者)に分かれており、内部でのまとまりに欠けていたため、鮎川肥料組合や鮎川肥料合同会社などに分裂し、1950年に有名無実となった鮎川捕鯨は極洋捕鯨に合併され、遠洋捕鯨は1946年に県外資本の大洋漁業に合併された[35]。 戦後になると、1945年から始まった黒崎開拓事業の一環で外地より引き上げた人々が鮎川浜黒崎に入植したことにより、黒崎で集落が形成された[30][38]。 1952年に日本水産の事業所が、鉄道が敷設されており立地条件の良い女川へと移転してから、資本が一斉に撤退し、村落の経済は大打撃を被り、人口も1960年代より、減少し始めた[30]。その後は、国際的に捕鯨の禁止が叫ばれ、1982年に国際捕鯨委員会により、商業捕鯨の全面禁止が採択され、鮎川浜における捕鯨は衰退の一途をたどることとなった[39][12]。しかし、2019年に日本が国際捕鯨委員会を脱退したことにより、2020年、鮎川港を拠点とするミンククジラの商業捕鯨が再開された[40][41]。 沿革
地名の由来文政風土記によれば、域内を流れる湊川に鮎が沢山いたため、鮎川と名付けられたとされる[26]。 施設
産業データ以下は、2021年(令和3年)6月実施の総務省経済センサスの調査によるデータである。 農業江戸時代から、大麦やヒエの栽培が盛んに行われており、畑の多かった昭和中期まで麦類の栽培が主であったとされる[74]。現に1909年(明治42年)に成立した陸前国牡鹿郡地誌の鮎川村[注 12]の生産物総覧には、明治42年に米661石(7,754円)、麦1,140石(6,129円)で、明治43年に米640石(8,960円)、麦1,537石(7,689円)と記されている[75]。また、同書には1887年(明治20年)に農漁業をしていた家は29戸であったと記載されている[75]。平地が少ない地形であったため、山の中腹から麓にかけて石塁を築き、畑や水田を設けた[74]。 明治時代後期になると専業農家の割合が徐々に増えはじめるが、戦後になって農業を専業的に営む家が減り、鮎川浜の産業構造の中から姿を消した[76]。昭和後期の昭和60年代には、鮎川浜の農家は、黒崎農場の酪農3戸、第1種兼業農家1戸、養鶏1戸の計5戸のみとなった[76]。 企業
鮎川浜内に本社を置いている捕鯨会社の一つ[注 13]である[77]。1925年に鮎川浜田の浜に建設された鮎川捕鯨株式会社とは関連はない[77]。星洋漁業と日本近海が捕鯨を撤退するにあたり、鮎川浜の戸羽捕鯨が引き取る形で2008年に設立された[77]。なお、星洋漁業は昭和20年代から大洋漁業の子会社で、日本冷蔵の船を購入して捕鯨を始めた[77]。第8幸栄丸および第3大勝丸を用いて商業捕鯨を行うが、株主である戸羽捕鯨と網走の三好捕鯨に傭船料を支払っている[77][78]。毎年4月から11月までミンク鯨・ツチ鯨の捕鯨を行っており、鯨肉や皮および畝須等の鯨白手物を原料として塩蔵品や鯨ベーコン、さらし鯨の製造販売をしている[79]。 文化明治12年時点では、遠藤、岡田、斎藤、鈴木、大森、和泉、安藤、奥海、土岐、平塚、粟野、島の12姓氏、52戸のみからなる集落であったが、捕鯨産業が盛んになるにつれ、外部からの転入者が増え、昭和60年になると、261姓氏、808戸からなる集落になり、様々な文化が形成されていった[80]。
小型捕鯨繁栄時の鮎川浜で見られた、他地域から移入してきた者(家族)と、元々鮎川に暮らしていた者(家族)という血縁関係のない者同士で、ある種の親戚関係を構築する独特のコミュニティ形成方法である[81]。既住者が移入者を親戚として受け入れることで、移入者がより円滑に鮎川浜のコミュニティに溶け込めるようにという目的があったとされる[81]。エビスオヤと呼ば れる、捕鯨船や漁業で共に働く仲間として擬制的親子関係を築くものや、ワラジヌギバという、ある家を保証人として頼り家族ごと移住するもの、といった形態があった。ただし、現在においては廃れている[81]。 埋蔵文化財
寺社仏閣
交通道路
バス定期航路鉄道域内に鉄道は通っておらず、最寄り駅の一つとして挙げられる女川駅からは約20km離れている。 教育小学校の場合は石巻市立鮎川小学校、中学校の場合は石巻市立牡鹿中学校へ進学する[91] [92]。 教育史安政年間には、岡田良仲が開いた岡田塾という寺子屋が1867年(慶応3年)まで存在しており、30人の男子が学んでいた[93]。 明治5年8月に学制が公布されると、有志より87円の拠出金を集め、遠藤奉助[注 15]の奥座敷を借り、明治6年5月20日に第九十七番鮎川小学校が設置された[94]。教師は守屋豊治[注 16]と岡田武一郎[注 17]の二人で、豊治は読書と習字を、武一郎は算数を教えた[94]。生徒は男子37名と女子3名で、米一升分にあたる三銭を月謝として納めなければならなかった[94]。 1881年(明治14年)になると鮎川小学校が初等科小学校になるが、1887年(明治20年)になると大原小学校の分校となり、1889年(明治22年)に町村制が施行され、鮎川村が成立する伴い、小学簡易科として独立した[94]。 データ以下は、2020年10月に実施された国勢調査による域内の教育に関するデータである[95]。
災害東日本大震災鮎川浜は三方が海に囲まれており、震源地に最も近かったため、東日本大震災の際は最大8.6mを津波(気象庁によると15:25に到達)に襲われ、人的被害は死者8名と行方不明者5名(2012年10月時点)にのぼり、物的被害は全壊312戸と大規模半壊が23戸、半壊等が243戸にのぼった[20][9]。 その他にも、銀行や郵便局といった公共施設、多くの商店等が壊滅的な被害を被り、ライフラインや通信網は破壊され、宮城県道2号石巻鮎川線は土砂崩れや道路の崩壊により、供用ができなくなっていた[9]。また、域内にある観測所によると震度は6弱を記録し、1.2mものの広域地盤沈下が発生した[9]。 被災者らの証言によると、第一波よりか、第二波、第三波がとても強く、底から持ち上げられるような津波であったとされ、多くの建物が流され、建物の残骸なども引き潮の際に海へ流されていったとされる[96]。川に渡された欄干は折れ断ち切られ、外灯は土台のみが残っているような有様で、大潮や高潮になると、一帯は大きな沼のようになったとされる[96]。 以下は2012年12月時点での域内の人的被害の統計である[97]。
火事1943年(昭和18年)11月16日午後10時40分頃に肥料工場の納屋付近から、出火した火が東風に煽られて、家々を焼いた[98]。風下にあった七十七銀行鮎川支店や産業組合倉庫、合同缶詰工場、水産製品検査支所、島屋・和泉屋といった旅館が全焼し、粟野旅館や松川屋が奇跡的に焼け残った[98]。鮎川町では町議10名[注 18]からなる復旧委員会を組織し、町有林一町一反歩を復旧建築資材用に払い下げ、罹災資金特別会計から2,728円を支出して援助にあたった[99]。これを好機と捉えた東北更新会は鮎川町を住みやすい街にしようと更新会の分会を鮎川町に設置し、和泉太三郎を分会長に、阿部萬太郎と鮎川国民学校長であった大場萬吉郎を副分会長に指定した[99]。大森竹次郎が村長であったときから着手していた地先海面の埋立工事が1944年に竣工し、鬼形山の国有林を掘り崩して、地盤が低く度々水害を受けていた罹災地に盛り土をした他、湊川、林下、四ツ小谷の水田十五町歩の着土排水工事も行われた[98]。 人口2021年(令和3年)12月末時点での域内の人口は以下の通りである[1]。
祭り・イベント
舞台となった作品
鮎川大町鮎川大町鮎川大町(あゆかわおおまち、英語: Ayukawa-Ōmachi)は、宮城県石巻市にある町丁であり、旧牡鹿郡牡鹿町字鮎川大町に相当する[50][51]。丁目が存在せず、住所は鮎川大町の後に番地が続く。郵便番号は986-2522。石巻市の住民基本台帳によると、2023年(令和5年)2月時点では、域内に居住者は存在しない。 全域で建築物の建築が制限されているほか、全域が災害危険区域や復興産業集積区域鮎川浜地区に指定されている。 明治初期には北の一部であったが、軒数の増加に伴い鮎川浜の小字として大町が設置され、これがのちに分離され成立した[28]。 関連項目脚注注釈
出典
参考文献牡鹿町誌
論文
書籍
外部リンク
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