荻浜
荻浜(おぎのはま)は、宮城県石巻市にある大字であり、旧牡鹿郡荻浜、旧牡鹿郡荻浜村荻浜に相当する。郵便番号は986-2341[2]。2024年(令和6年)2月時点では住居表示未実施[6]。石巻市の住民基本台帳によると、2023年(令和5年)7月時点での人口は38人、世帯数は16世帯である[1]。また、ここでは、荻浜を擁する地区である荻浜地区(おぎのはまちく)についても解説する。 地理牡鹿半島中部西岸に位置し、北西で侍浜と、東で小積浜と、山を挟んで北東で牡鹿郡女川町野々浜および同町大石原浜と接し、南で石巻湾(荻浜湾)に面する。 域内の一部が土石流危険渓流(土石流危険区域)および急傾斜地崩壊危険個所に指定されている[7]。 主に中生代ジュラ紀の約1.5億年前の地層が北北東 - 南南西の軸をもった摺曲及び断層を繰返し、全体として北部に古い地層が、南部に新しい地層が分布している[8]。 山々河川
方孔石荻浜および桃浦、女川の海岸でのみとれる人工的に穴が開けられたような石を方孔石(ほうこうせき)という。1901年に初めて発見されたが、なぜ穴が開いているのかは未だ解明されていない。震災以後、岸壁整理・防波堤が建設されたため、現在、方孔石をとることは難しくなっている[11]。 小字デジタル庁公表のアドレス・ベース・レジストリによれば、2024年12月現在における、荻浜の小字は以下の通りである[4]。
明治期の小字宮城県各村字調書によると明治17、18年頃の荻浜村の小字は以下の通りである[12]。
歴史字有田浜の丘陵斜面に石槍を出土する縄文時代の荻浜遺跡が存在する[9]。 史料上の地名の初出は正保年間の成立郷帳であるとされる[13]。それには、
と記されている[13]。 江戸時代には狐崎組大肝煎扱いの小さな漁村であったとされ、元禄年間では、村高約20石[注 1]の蔵入地で人口117人、10世帯、封内風土記によると明和年間の家数は26軒、天保郷帳によると天保年間の村高は24石余であったとされる[14][9]。村落の規模は1698年(元禄11年)の牡鹿郡万御改書上によると東西二十九丁四十間[注 2]南北十七丁二十間[注 3] ほどであったとされる[13]。 江戸期には、荻浜・小積浜(小炭浜)の両村民が度々係争を起こしていたことが文書から判明している。1646年(正保3年)の小炭浜茶売の訴状には、
とあり、網場を巡って係争があったとされる[15]。これに対し、遠島大肝入阿立与三郎はこれ以降荻浜の者が小積浜(小炭浜)で網引することを禁止する裁定を下したとされる[15]。この一件以降も1718年(享保3年)の小積浜・荻浜村境出入御尋返答書、1737年(元文2年)の小積浜・荻浜村境ニ付荻浜御百姓御尋返答書、1746年(延享3年)の遠島小積浜・荻浜村境見通之古塚堀崩一件、同年の牡鹿郡荻浜領分いるか漁越境御尋ニ付口上書などの係争文章に徴すれば、両村民の対立が続いていたことがわかる[15]。 明治元年になっても江戸時代の頃と同様に一面荻の生い茂るわずか十八戸の寒村であった[13][9]。しかし、野蒜築港の第一期工事の完成に伴い、1881年(明治14年)に三菱財閥三菱汽船が新しく横浜 - 函館間の定期航路を開通するにあたって、淡路丸や九州丸といった船による精密な調査の末、三面山に囲まれ風波を直接受けることのない平穏な港であり、1万トン以上の大型船が容易に入港できる深水港湾であるという点から、荻浜港が中継地に選ばれた[注 4][16][17]。汽船は荻浜港に寄港し荷客の積み卸しを開始すると同時に石巻町本町と荻浜村の両方に営業事務所を設置した[16]。そして、三菱財閥に対抗するために、1882年(明治15年)に共同運輸会社が設立され、さらに1883年(明治16年)には宮城県令松平正直は東北独自の汽船会社の重要性を訴えて、東北各県からの株式募集により、資本金10万円の「奥羽水陸運輸会社」の本社を仙台の大町に設立、石巻を含む県内10ヶ所に支店をおいた[16]。このため荻浜港は盛況を極めたが、激しい競争のすえ、奥羽水陸運輸会社は経営難で解体した[16]。なお、三菱と共同運輸両汽船会社は農商務卿西郷従道の斡旋により合併し、1885年9月に日本郵船が設立され、横浜 - 荻浜 - 函館間、1週2回の航路が設定された[16]。1883年には合計118隻の蒸汽船が出入りし、1884年には合計286隻(合計375,265トン)の蒸汽船、合計42隻(合計9,749トン)の西洋型風帆船、合計18隻(合計10,676トン)の日本型五十石以上船が出入りした[18]。当時の日本地図に宮城県唯一の要港として登載され、軍港候補として取り上げられると噂されたこともあったが、1935年に戦艦陸奥が寄港しただけで、陸路交通が不便であるうえに、船舶の大型化が進み荻浜港では停泊するに狭すぎたため、実現はしなかった[17]。 明治22年、23年頃には、荻浜の戸数が170戸から180戸となり、鍵屋、大森、角屋、伏見などの10軒の旅館が並んだ[19]。 1884年の秋に来襲した台風により、野蒜港内湾東側突堤および西側突堤が破壊され、沈床の流出、積石の散乱などにより、野蒜港が潰滅したことや、1887年に上野 - 仙台 - 塩竈間の日本鉄道東北線の開通により、石巻港および荻浜港の荷客取扱量が減少し、郵船経営にも波及した[20][14]。港内の出先機関は引き上げ、東京から移り住んだ旅館は青森などへと去った[21]。そして、1917年(大正6年)5月15日をもって、荻浜港への寄港が廃止され、客船の寄港地としての歴史に幕を下ろした[17]。 荻浜の由来オギの生い茂っていた浜であったため、荻浜と名付けられたとされる[13][14]。 沿革
施設
東日本大震災被害荻浜では、3度にわたり津波が来襲したが、最も大きい波だったのは第3波であったとされる。第3波が襲ってくる前には、海底が見えるほど海水が引き、その後、大きな黒い津波が襲い、石巻市立荻浜中学校や荻浜支所は浸水し[37]、そのほか荻浜郵便局や宮城新昌顕彰碑なども破壊された。 震災時にあった家屋55戸のうち53戸が破壊され、家屋の被害率は96.5%にのぼり、牡鹿半島の集落別でみると大谷川浜・鮫浦・祝浜・鹿立屋敷(100%)、谷川浜(98%)、桃浦(96.8%)についで多かった[38]。 電気・水道が使用できなかったが、プロパンガス使用地域の為、ガスは使用可能であった。電気・水道の復旧には数ヶ月かかった。 家を失い避難していた人が仮設住宅へと転居することで人口流出が発生した[39]。仮設住宅は荻浜地区だけでなく、石巻市全体にあり、荻浜から離れる家族が多くなった[39]。特に、若い家族が市街地近くの仮設住宅に入ったというケースが多かったとされる[39]。仮設住宅には、冷蔵庫、レンジ、電気釜、テレビ、電気ポット、クーラー等が設置されていた[39]。仮設住宅で生活することで光熱費・食費・生活費などを自分で負担する必要があった[39]。 以下は2012年12月時点での域内の人的被害の統計である[40]。
避難
荻浜中学校は、2校舎と体育館からできており、授業に必要な教室を残し、他は避難所の居室・調理室・対策本部として使用された[41]。最初は200人が避難をしていたが、仮設住宅への移転に伴い、徐々に人数が減っていき、2011年7月9日時点では約70人が荻浜中学校で避難をしていたとされる[41]。避難所は年齢や性別、家族などを考慮して使用されており、高齢者は1階図書室を、若い年代の人々は2階教室を居室とした[41]。なお、震災発生当日は雪が降っており、寒かったため避難者らは教室にかかっていた暗幕を数人で巻いて寒さをしのいだ[42]。当初、荻浜中学校に避難者がいないと思われていたためか、被害が発生してから自衛隊が到着するのに約1週間、救援物資が届くのに約2週間を要した[42]。病人が出たため、グランドに卒業式用の紅白の幕で×印を作り、衣類を棒に巻き付けた旗をグランドに出て振り、助けを求めた[42]。食事について、3月11日の夜は煎餅数枚を子供に分けただけで、大人は食べるものがなかった[42]。翌朝、中学校にあった白米を鍋で炊き、小さなおにぎりにしたものと薄めたインスタント味噌汁を少量ずつ分けて食べた。味噌汁は塩蔵わかめを水洗いし、塩抜きせずに入れ、味を調えたものである[42]。2日間おにぎりで過ごした後、民家に残って被害に遭わなかった米と商店に残っていたカレールーやシーチキン、ソーセージ、缶詰などを持ち寄って食事を作っていた。救援物資がくるまでの約2週間は、3食ほとんどがおにぎりで白米がなくなると玄米を食べたとされる[42]。救援物資が届くようになるとそれを使って朝昼夜食の準備をした[42]。停電のため、日が落ちる前(午後3時から4時)に夜食を済ませる必要があったことから、夜になって空腹になり、カップラーメンを食べる人もいた[43]。救援物資として届く食品類は、カップラーメン、缶詰、レトルト食品などが多く、野菜・肉などは、入るときはまとめて届くが、定期的に入ることはなく、多くは避難している人の親戚などによって届けられた[43]。6月頃から、夕食としてのお弁当が届くようになり、避難者らは朝食以外は調理する必要がなくなった。夕食は基本的に4種類の弁当の繰り返しであった[43]。なお、トイレ・調理室において水道が使用できたが、2011年7月時点では、食事準備をしていた家庭科室の水道は使用できなかったため、調理にはミネラルウォーター、野菜・食器の洗浄は沢水を用いており、一回の食事準備で数回沢水をタンクに汲みに行っていた[44]。衛生について、地震発生から2週間は入浴できず、避難している人で小屋を建て、その中に沸かした湯を入れたタライを置き、体を洗った[44]。その後、ボランティアより入浴施設が贈られ、安定した入浴環境が整った[44]。なお、湯は中学校裏に出ていた沢水をろ過し、避難所で出たゴミや廃材を利用してボイラーで温めたものを使用していた[44]。
高台に位置していたため、避難所に指定されていたが、津波の第3波の来襲により、一階天井まで浸水し、避難所としての機能は果たせなかった[41]。荻浜支所に一時的に避難していた荻浜保育所の児童および保育士らは1.3km離れた荻浜中学校へと避難した[41]。 東日本大震災以前の災害
1933年3月13日の河北新報によると とあり、当地は雪が積もり、物資が不足していたことがうかがえる[45]。
域内では最大3.9mの津波が来襲し、堤防の破壊された口に向かって家屋や石、木材が殺到した[46]。 現在荻浜字家前21に存在していた荻浜郵便局は、現在は窓口業務およびATM業務を停止している[47]。 福島第一原子力発電所事故をうけて、女川原子力発電所における原子力事故を想定した防災対応マニュアルが作成された[48]。なお、荻浜は女川原子力発電所のPAZ(予防的防護措置を準備する区域)に含まれており、事故発生時には、住民は大崎市立鳴子小学校へと避難することが定められている[48]。 教育域内には、小学校および中学校ともに存在していたが、過疎化および少子化により、生徒数が減少し、どちらも平成期に廃校となっている。小学校は、石巻市立荻浜小学校が存在していたが、2014年に休校、2018年に廃校となった[29]。休校前の生徒数は2名であった[29]。中学校の方は石巻市立荻浜中学校が存在していたが、2023年(令和5年)に廃校となり、41年の歴史に幕を閉じた[28]。閉校時の生徒数は3年生2名、2年生1名の計3名であった[28]。 2021年時点で、石巻市立万石浦小学校・石巻市立万石浦中学校の通学区域に萩浜が指定されている[49][50]。 交通道路地区内に一般国道は通っていない。
鉄道域内に鉄道駅は存在しない。最寄駅は東日本旅客鉄道渡波駅が挙げられる。 バス寺社仏閣
人物
荻浜地区荻浜地区(おぎのはまちく)もしくは荻浜地域(おぎのはまちいき)は石巻市荻浜支所の管区内にある地区の名称であり、旧牡鹿郡荻浜村全域に相当する。稲井地区、蛇田地区、渡波地区とともに石巻市本庁地区(旧石巻市域)に属する。漁業が中心産業の地区である[52]。全域で住居表示未実施[6]。 荻浜、折浜、狐崎浜、小積浜、侍浜、竹浜、月浦、福貴浦、牧浜、桃浦の計七浜三浦が荻浜地区に属し、石巻市荻浜支所の管轄である。 人口震災前はおよそ1,000人が暮らしていたが、2024年4月末現在域内に暮らしている人数は422人にまで減少した[1][52]。 2024年(令和6年)4月末時点での荻浜地区内の大字別世帯数および人口は以下の通りである[1]。
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
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