近代以前の日本の都市人口統計 (きんだいいぜんのにほんのとしじんこうとうけい)は、西南戦争 前の日本の都市人口 調査および推定人口をまとめたものである。
それぞれ参照。
有史以前
古代・中世
推定人口
日本においては律令国家成立期に戸籍 が作成されたものの、今日までその詳細がほとんど残っていない。よって推定人口は、戸数・人口の記録と伝聞、都市域の面積、支配地域の推定総人口などをもとに研究されてきた。
以下にターシャス・チャンドラー (英語版 ) による16世紀 までの主要都市の推定人口をまとめる。[ 3] ただし後述するように、チャンドラーによる鎌倉 の推定人口は一般の推定よりも過多で、鎌倉時代末の最盛期に6万~10万人とみられる。[ 4] また博多 は鎌倉時代 から室町時代 にかけても数万人規模の都市であったと考えられる。
古代・中世の主要都市推定人口 (Tertius Chandler, 1987年)[ 3]
西暦
飛鳥
平城京
/奈良
平安京
/京都
平泉
博多
鎌倉
山口
鹿児島
千代/
仙台
天王寺
堺
山田
柏崎
本願寺
/大坂
安濃津
府中
(駿府 )
江戸
金沢
622年
50,000~ 60,000
750年
100,000
800年
200,000
900年
200,000
925年
200,000
1000年
175,000
1100年
175,000
1150年
150,000
50,000
9,000
1200年
100,000
175,000
1250年
70,000
200,000
1300年
40,000
200,000
1350年
150,000
1400年
150,000
40,000
21,000
1450年
8,000
150,000
(1471) 50,000
1500年
40,000
30,000
35,000
25,000
35,000~ 36,000
35,000
30,000
30,000
28,000
25,000~ 26,000
25,000
1550年
10,000
100,000
(1570) 17,000
60,000
60,000
(1580) 30,000~ 60,000
1575年
300,000
(1579) 35,000
90,000
75,000
(1583) 100,000
1600年
300,000
50,000
80,000
45,000
(1582) 80,000
[ 注 1] 280,000
100,000
60,000
50,000
近年のその他の研究者による藤原京 、平城京、鎌倉、京都の推定人口は以下の通りである。
藤原京、平城京、鎌倉の推定人口
都市
推定人口
研究者
藤原京
10,000~30,000
岸俊男 (1983年)[ 5]
(京内のみ) 40,000 (京内外計) 50,000~60,000
鬼頭清明(1994年)[ 6]
30,000~50,000
木下正史(2003年)[ 7]
平城京
67,000~100,000
村井康彦 (1973年)[ 8]
74,000~100,000
岸俊男(1983年)[ 5]
62,000~100,000
田中琢(1984年)[ 9]
95,000~174,000 114,494~197,361
鬼頭清明(1988年)[ 6]
50,000~60,000
寺崎保広(2013年)[ 10]
鎌倉
64,100~100,900
石井進, 河野真一郎(1989年)[ 4]
平安京・京都の推定人口変遷
西暦
推定人口
研究者
800年
88,000
井上満郎(1992年)[ 11]
120,000
鬼頭宏(1996年)[ 12]
9世紀
100,000~150,000
村井康彦(1979年)[ 13]
120,000~130,000
井上満郎(1992年)[ 11]
90,000~110,000
山田邦和(1994年)[ 14]
900年
120,000
鬼頭宏(1996年)[ 12]
10~11世紀
170,000~200,000
村井康彦(1982年)[ 15]
150,000~180,000
村井康彦(1990年)[ 16]
1027年
140,000~170,000
桑原雅夫 , 井料美帆(2017年)[ 17]
1150年
120,000
鬼頭宏(1996年)[ 12]
平安時代末期
150,000~180,000
山田邦和(1994年)[ 14]
14世紀初期
80,000~100,000
中島圭一(1992年)[ 18]
14世紀後半~15世紀前半
100,000
高尾一彦, 林屋辰三郎, 松浦玲(1968年)[ 19]
15世紀末
150,000~180,000
高尾一彦, 林屋辰三郎, 松浦玲(1968年)[ 19]
1571年
200,000~300,000
高尾一彦, 林屋辰三郎, 松浦玲(1968年)[ 19]
原田伴彦による室町時代の主要都市の推定人口は以下の通りである。[ 20]
室町時代の主要都市推定人口 (原田伴彦, 1942年)[ 20]
都市
旧国
推定人口
元号
西暦
京都
山城
100,000
明応9年
1500年
天王寺
摂津
35,000
明応8年
1499年
博多
筑前
35,000
天正7年
1579年
柏崎
越後
30,000
長享2年
1488年
堺
和泉
30,000
天文元年
1532年
山田
伊勢
30,000
天文13年
1544年
春日山 (直江津 )
越後
30,000
中世末
1570年代
安濃津
伊勢
25,000
大永2年
1522年
野津
豊後
20,000
天正7年
1579年
坂本
近江
15,000
文亀元年
1501年
桑名
伊勢
15,000
大永6年
1526年
瑞泉寺
越中
15,000
天正以前
1560年以前
石寺
近江
15,000
永禄6年
1563年
府中
駿河
10,000
享禄3年
1530年
山口
周防
10,000
弘治3年
1557年
本願寺
摂津
10,000
永禄5年
1562年
岐阜
美濃
10,000
永禄12年
1569年
蓮沼
越中
10,000
天正12年
1584年
雪ノ湊
阿波
8,500
康安元年
1361年
奈良
大和
8,000
中世中期
14世紀
清洲
尾張
7,500
天正年中
1580年代
尾道
備後
5,000
元応2年
1320年
引間 (浜松 )
遠江
5,000
文明17年
1485年
淀
山城
5,000
延徳2年
1490年
大湊
伊勢
5,000
明応7年
1498年
吉田
甲斐
5,000
天文23年
1554年
府内 (大分 )
豊後
5,000
元亀2年
1571年
蒲江津
豊後
5,000
中世末
16世紀
推定の根拠
藤原京
慶雲元年(704年)に藤原京に住む百姓 1505烟へ布を賜ったとの記述が『続日本紀 』にあるが、岸俊男は藤原京を12条8坊384町と考え、1505烟という数字は在地住民と京内に新たに宅地班給を受けた官人戸数(大宝元年(701年)の五位以上の官人119名、六位以下の官人推定676名)の合計であると仮定し、1家6.2人または1郷戸16.4人(天平5年(733年)の平城京の『右京計帳 』断簡による数字)として、藤原京の人口を1万~3万人と推定した。[ 5]
最近の研究で藤原京は岸俊男が想定したより広いことが指摘されている。鬼頭清明は、宮、市、寺院を除いた藤原京の面積(300坪)を平城京(1132坪)と比較し、後述する平城京の推定人口を14万人とすることで4万人弱、更に藤原京外となった飛鳥故宮の地を含めて、藤原京の総人口を5万~6万人と推定した。
木下正史は慶雲元年の記述は藤原京の拡張に伴う移転補償に相当すると考え、核となる300町の人口を、平城京の推定人口に関する田中琢説[ 9] に従って1万6000人と概算した。また外郭の1505烟の人口を岸俊男説の1万~3万人として合計2万6000~4万6000人、さらに京内の人口を加えて、藤原京の人口を3万~5万人と推定した。[ 7]
平城京・奈良
澤田吾一は、平城京の京城の面積は道路を含めて約20.1 km2 )、道路を除いて約16.3 km2 と見積もり、明治4年(1871年)の金沢 の人口密度(12万3363人/140万平方丈)との比較から、京城の人口を17万5000人、これに2万人以上とみられる郊外の寺院等人口を合算して平城京の人口を20万人と見積もった。[ 21]
この推定人口には異論があり、例えば村井康彦は最盛期でも20万人の1/3から半分程度という推定値を出している。[ 8]
岸俊男は、平城京の面積が藤原京のほぼ3倍であることから総戸数を約4500戸と見積もり、平城京の郷戸平均16.4人から平城京の人口を7万4000~10万人と見積もった。[ 5] 鬼頭宏も725年の平城京の推定人口として岸俊男の下限推定人口(7万4000人)を採用している。[ 12]
田中琢は『日本書紀 』が記載する持統5年(691年)の藤原京の宅地支給基準(上戸1町、中戸半町、下戸1/4町、または成人男性8人以上が大戸、4人以上が中戸、2人以上が下戸)に着目し、1町平均成人男性8人、1成人当たりの平均家族6.7人(『右京計帳』断簡による数字)として、平城京1368町の内の居住地約1150町の人口を6万2000~10万人と試算した。[ 9]
鬼頭清明は、最近の発掘調査による居宅の規模と居住人口から推定人口9万5000~17万4000人、階層構造から推定人口11万4494~19万7361人を導いている。[ 6]
平城京の推定人口構成 (鬼頭清明, 1988)[ 6]
階層
人口
五位以上
1,200
六位以下の長上官
6,000
番上官
30,000
庶民
41,362~112,531
仕丁・衛士等
20,630
奴婢
16,028~27,630
合計
114,494~197,361
寺崎保人は、近年主流となりつつある10万人説を前提として、居住可能な土地内に隈なく人が連続して住んでいるはずはなく、また下級官人の多くは単身赴任して平城京内に住んでいたと考えらることから、平城京の人口を5万~6万人程度と推定している。この内下級官人は1万~2万人で、そのほか役所で雑用にあたる人、官人予備軍といった人数を考えると、都市住民の内多くは何等かの形で役所に関わりを持っており、商人や職人などの庶民がきわめて少ないとしている。[ 10]
平安京遷都以後、奈良は南都と呼ばれるようになり、門前町として栄えた。
『尋尊大僧正記』によると、正長元年(1428年)の大乗院 領・元興寺 領の地口(道路に面した建物の長さ)の総計が937間2尺5寸ある。一方『田楽頭役方御領内元興寺領地口銭帳』によると、大永5年(1525年)の大乗院領・元興寺の地口総計1324間5尺に対して670軒とある。これらの地口表から畠地を除くことにより、大乗院領・元興寺領の家屋数は15世紀に400軒、16世紀に600軒と推定される。これらの院領が奈良の門前地域の1/4を占め、1戸4人と仮定し、更に門前以外の地域人口を加算することにより、14世紀の奈良の人口は7000~8000人、15世紀初頭の奈良の人口は1万人以上と推定される。[ 20] [ 22]
難波宮
神亀3年(726年)に聖武天皇 は後期難波宮を造営し、平城京との複都制 を実施した。ウィリアム・ウェイン・ファリス(William Wayne Farris)は難波の人口を平城京の半分程度の3万5000人と推定している。[ 23]
大宰府
奈良時代の大宰府は東西24坊、南北22条の広さを持ち、平城京の面積の1/4程度の大きさで、九国二嶋を管轄する軍団が置かれた。[ 24] ファリスは奈良時代 の総都市人口を20万人、大宰府の人口を1万5000人と推定している。[ 23]
平安時代に入ると次第に兵制が縮小し、弘仁4年(813年)には大宰府管区全域(九国二嶋)の兵数は律令時代の約半数の9000人に、天長3年(826年)には1920人にまで減らされる。この時大宰府には統領8人、選士400人、衛兵200人が置かれた。その後大宰府は、遣唐使 の廃止と藤原純友の乱 で衰退するが、平安時代 末には再び復興する。1471年の『海東諸国紀 』によると、大宰府は民居2200余戸、正兵500余で、推定人口1万人以上。
長岡京
続日本紀 によると延歴5年(786年)7月に太政官院が完成し、百官が出勤したとある。福山敏男らは平城京の推定人口約20万人の半数が長岡京に移動したとして長岡京の人口を約10万人と推定し、百官の総数推定7000人~8000人の家族や召使などにより構成されたと考えても矛盾はないとしている。[ 25] ただしこれは平城京の推定人口として澤田吾一説の20万人が主流だった頃のものである。
『向日市史 上』では、長岡京の発掘調査において1町内に占める建物群の割合から、人口を約5万人と推定する考え方が紹介されている。[ 26]
平安京
平安時代初期・前期
天長5年(828年)の大政官符によると平安京には580余町あったとされる。阪本敦は、1町32戸、1戸平均20人として、9世紀の初期王朝時代の平安京の人口を37万人とし、遷都直後の初期平安京の人口はこれと同等かそれ以下であろうと推定した。[ 27] また大正4年(1915年)に『京都坊目誌』を完成させた碓井小三郎は、遷都当初の延暦13年(794年)の戸数・人口を8万戸40万人、ほぼ平安京が完成した弘仁9年(818年)の戸数・人口を10万戸50万人と推定している。[ 28]
しかしながらこれらの推定値は一般に過多と考えられており、原田伴彦は澤田吾一の平城京推定人口(20万人)が平安京人口の上限と考えた。[ 20] 社会工学研究所も900年、1100年、1300年、1400年の平安京の推定人口として澤田吾一の平城京推定人口(20万人)を採用している。[ 29] チャンドラーは洛中面積(20 km2 )に当時の長安 の推定人口密度(100 人/km2 )を乗じた値である20万人を、800年頃の平安京の推定人口としている。[ 3]
一方村井康彦は天長5年(828年)の大政官符記載の580余町、1町平均32戸、『三代実録』記載の貞観13年(871年)の1戸当たり平均人口5~6人から、9世紀の平安京の人口の最低値を9万人とし、実際は1戸1家族以上と考えられることから、初期王朝時代の平安京の人口を10万~15万人と推定した。[ 13] これは平安京の総面積が推定人口100万人とされる長安 の1/3程度、かつ実際に市街化された地域はさらにその半分程度であることと矛盾しないとしている。[ 8]
井上満郎は、鎌田元一 の推定する人口増加率を参考に、[ 30] 岸俊男の推定する平城京人口(7万4000人)[ 5] の20%増の8万8000人を初期平安京の人口と推定した。また大政官符の記載する580町とは左京のみの数字であると前後の文章から判断し、初期王朝時代もまだ9条72坊300保1216町の構造を保っていたと考えた。貴族の官位別人数より平安京を内裏80.0町、東西両寺などの特別区42.5町、貴族・官人居住区600町、諸国から上京してきた職人たちが住む諸司厨町41町、一般市民居住区452.5町と概算し、貴族・官人の人口を延暦4年(785年)の貴族の官位分布などから863戸、諸司厨町の1町当たり戸数を22戸、一般市民居住区の1町当たり戸数を32戸、1戸当たり平均人口を6.22人として11万7372人という数字を得た。これに内裏(天皇・皇族や後宮)と東西両寺などの特別区に住む人々や、奴婢を加え、初期王朝時代の平安京の人口を12~13万人と推定した。[ 11]
平安京の居住区分別推定人口構成 (井上満郎, 1992年)[ 11]
居住区分
町数
人口
天皇・皇族居住区 (内裏)
80.0町
?
特別区 (僧侶・神官)
42.5町
?
貴族・官人居住区 (一位~初位)
600.0町
12,273
諸司厨町
41.0町
15,033
一般市民居住区
452.5町
90,066
合計
1216町
117,372
山田邦和は、井上満郎の推定人口(12万~13万人)を参照しつつ、実際は右京は当初から未開発地区が多く、京内に点在した湿地や川、宅地化されない荒地の存在を割り引く必要があり、この歩止まりを一般市民居住区の2~3割程度に仮定することで、9万~11万人、すなわち10万人前後という推定人口を出している。[ 14]
鬼頭宏は、天長5年(828年)の大政官符の町数から推計した戸数(1万5600戸)と『三代実録』記載の貞観13年(871年)の1戸当たり平均人口(6.22~6.58人)[ 31] より、西暦800年及び900年頃の平安京の人口を12万人と推定した。[ 12]
近年の考古学調査により平安京の北西、南西、南東の端では、そもそも整備されたのは条坊制 のための道路だけで、遷都当初から市街地化していなかったことが判明している。また相国寺 境内の遺跡調査から、平安時代前期には平安京北郊への拡大が既に始まっていた可能性が高い。天長5年(828年)の大政官符に登場する580町は左京の町数と考えられ、理論上の608町との差28町は、市街化されていなかった左京の南東端(鴨川 )であると解釈される。[ 32]
平安時代中期・後期
一般には平安時代中期の10世紀頃より平安京の北、東への膨張が始まったと考えられている。慶滋保胤 の『池亭記』には、右京が衰退し、左京の北半分には上級貴族の大邸宅が林立している10世紀末の平安京が描かれており、チャンドラーは10世紀後半より平安京は人口減少局面に入ったとして1000年頃の人口を17万5000人と推定している。[ 3] [ 28] しかしながら考古学的調査では、元々右京は開発困難な湿地帯が未開発のまま残されており、右京の幹線道路沿いに町屋が島状・帯状に立ち並ぶような、田園と町通りが混在した状況が平安遷都当初から続いていたと推定され、むしろ市街は洛外へ膨張していた。やがて鴨川 の東に白河 が造営された。平安時代後期に入ると、南側には鳥羽 に離宮 が造営され、その結果左京南部に初めて市街が形成される。また平安時代中期まで維持・管理が続けられた条坊制は11世紀半ばに終焉する。[ 32]
村井康彦は、『日本略記』にみられる寛弘8年(1011年)と万寿元年(1024年)に起こった火災の記録から、1町当たりの平均戸数を30~70家と推定した。当時の町数を天長5年(828年)の大政官符の町数(580余町)より若干増えた600余町と仮定し、また『三代実録』記載の貞観13年(871年)の1戸当たり平均人口(左京 3.9人, 右京 6.3人)とより、少ない場合で4人×30家×600町=72,000人、大井場合で7人×70家×600町=294,00人、平均して183,000人と算出した上で、王朝時代の平安京の人口を17、18万~20万人[ 15] 、または15万~17、18万人[ 16] と推定した。
一方桑原雅夫, 井料美帆らは、井上満郎の推定方法と山田邦和の修正を参考にして、万寿4年(1027年)の平安京の人口を14万~17万人と推定している。[ 17]
平安京の居住区分別推定人口構成 (桑原雅夫, 井料美帆, 2017年)[ 17]
居住区分
町数
夜間人口密度(人/町)
夜間人口
昼間人口密度(人/町)
昼間人口
備考・仮定
内裏,後院
69
72
4,968
72
4,968
4町貴族街と人口密度同一
4町貴族(含太政大臣,摂政,関白)
16
72
1,152
16
1,152
貴族4人,家族6人/貴族,資人280人/貴族
2町貴族
44
46
2,024
46
2,024
貴族22人,家族6人/貴族;資人は貴族4人が各160人,貴族6人が各90人,貴族2人が各8人,貴族8人が各60人,貴族2人が各40人
1町貴族
230
28
6,440
28
6,440
貴族230人,家族6人/貴族;資人は貴族81人が各25人/貴族,貴族149人が各20人
大内裏(内裏除く),大学寮,奨学院,延命院など
95
5
475
100
9,500
夜間は少数の管理人,警護人のみ(5人/町); 元文献では昼間人口密度50~200人/町のケースまで考察
神泉苑,東西寺,堂,神社など
31
5
155
100
3,100
夜間は少数の管理人,警護人のみ(5人/町); 元文献では昼間人口密度50~200人/町のケースまで考察
諸司厨町
80
360
28,800
500
40,000
夜間人口密度は井上推計の人口密度を流用; 元文献では昼間人口密度360~720人/町のケースまで考察
東市
4
5
20
5,865~7,066
23,462~28,262
夜間は少数の管理人,警護人のみ(5人/町); 昼間は全世帯から1人集中
西市
4
5
20
5
20
人口密度希薄(5人/町)
役人,庶民
500
192~250
96,000~124,800
99~147
49,389~73,389
夜間人口の下位推計:30世帯/町(庶民),2世帯/町(役人),各世帯6人; 夜間人口の上位推計:下位推計の1.3倍
荘園・所領,荒廃地
143
5
715
5
715
人口密度希薄(5人/町)
合計
1,216
116 139
140,769~169,569
116 139
140,769~169,569
平安時代後期になると武士階級が京都に進出し、源氏 は六条堀川と室町 に、平家 は洛東の六波羅 に本拠地を構えた。『平家物語 』によると平家一族の最盛期には六波羅一帯に一族郎党の家屋が5200戸に達した。
『百練抄 』や『玉葉 』、『方丈記 』によると安元3年(1177年)の大火(太郎焼亡 )では京都の1/3に相当する180余町2万家が焼失し、治承2年(1178年)の次郎焼亡 では七条界隈の30数町が焼失した。
坂本敦はこの時焼け残った町数を天長5年(828年)の平安京の町数580余町から400町と推定し、1町当たり55.5家、1家10人として平安末期の平安京の人口を42万2000人と推定した。[ 27] ただしこの推定値は一般には過多と考えられている。
太郎焼亡では大極殿が焼け落ち、以降再建されることはなく、治承4年(1180年)には一時的に福原京 へ遷都される。またその後の養和の飢饉 の影響で、養和2年(1182年)には左京の死体の数が旧暦4月~5月の2ヶ月間で4万2300余を数えたという記述が『方丈記』にある。チャンドラーはこの時期京都の人口が10万人にまで減少したと推定している。[ 3]
鬼頭宏は平安時代を通じてそれほど平安京の人口に変動はなく、初期王朝時代の推定人口(12万人)を平安時代末期の西暦1150年の平安京の人口としている。[ 12]
一方山田邦和は、京都の発掘調査の状況から400年間の人口増加を見込んでおり、少なくとも15万~18万人程度の人口規模を推定している。[ 14]
鎌倉時代
鎌倉時代 の京都の町並みの変遷については資料が限られており衰退の程度には諸説あるが、13世紀中ごろには右京の3/4が田園化していたと考えられる。碓井小三郎は、鎌倉時代の京都の人口を、9万~10万人と推定している。[ 28]
チャンドラーは、元弘3年(1333年)の京都の人口を2万人と推定し、そこから1200年、1250年、1300年の推定人口を10万人、7万人、4万人と補完して求めている。[ 3]
中島圭一は、河野真一郎らによる鎌倉時代の鎌倉の推定人口6万4千~10万人との比較から、14世紀初期の京都の人口を8万~10万人と推定している。[ 18]
室町時代前期
『師守記』によると貞治4年(1367年)に病院建設のための資金1万疋を集めるため、各家から10文を集めたという記述があり、当時京都に暮らす一般庶民は1万戸約5万人と推定される。高尾一彦、林屋辰三郎 、松浦玲 らは公家、武家、寺社の関係者人口をそれぞれ3万~4万人、1万人、1万人と推定し、14世紀後半から15世紀前半の京都の人口を10万人と推定している。[ 19]
また『東寺王代記』によると応安5年(1372年)の火災では382町2万余家が焼失したとある。
応仁の乱~戦国時代前期
応仁の乱に先立つ長禄・寛正の飢饉 では、『碧山日録』によると寛正2年(1461年)の2ヶ月間で京中にて8万2千人の死体が数えられ、鴨川の水流が死体で堰き止められるだったという。
応仁元年(1467年)に始まる応仁の乱では、『応仁記』によると上京だけで二条から霊辻、大舎人から室町までの100町、3万余宇が灰燼に帰したとあり、チャンドラーは乱直前の京都の人口を15万人と推定している。[ 3] なお1471年の『海東諸国紀』は京都の戸数を20万6千余と伝えているが、戸数としては多過ぎるため、人口の間違いかもしれない。
碓井小三郎やチャンドラーは応仁の乱が終結した文明9年(1477年)の京都の人口を、4万人と推定する。[ 3] [ 28]
戦国時代 の京都の町並みは、上京 と下京 が室町通 1本で繋がる状態にまで衰退しているが、15世紀後半の京都の人口については、チャンドラーのように4万人と低く見積もる説[ 3] から、高尾一彦らのように20万人近くと高く見積もる説まである。[ 19]
『後慈眼院殿記』によると、明応3年(1494年)の火災では下京30余町1万戸が焼失したという。また明和9年(1500年)には上京が被災し、焼失した家屋は1万5000軒から4万軒と、文献によって数字が異なるが、原田伴彦はこの時期の京都の人口を2万戸10万人と推定する。[ 20] 一方高尾一彦らは15世紀末の京都は、上京6000~7000戸、下京1万~1万数千戸の合計2万戸10万人の商工民人口がおり、これに公家、武士、寺社関係人口と、数万人に及ぶ散所、河原人口を加えれば、上下京の人口は合計15万~18万人に達したと推定している。[ 19]
戦国時代後期~安土桃山時代
天文20年(1551年)に京都を訪れたザビエル は書簡の中で、京都はリスボン よりも大きく、9万6000戸の戸数があると伝えているが、この数字は山城国 全域の戸数と思われる。豊田武は寛永11年(1634年)の京都の人口との比較から、せいぜい5万~6万人と推定している。[ 33]
織田信長 の保護のもと京都は繁栄を取り戻し、元亀2年(1571年)に京都を訪れたイエズス会 の宣教師 ガスパル・ヴィレラ は、かつて京都は30万戸を誇ったが現在は6万戸のみであると『イエズス会日本通信』に記述しており、安土桃山時代 の京都の人口をチャンドラーは30万人、[ 3] 高尾一彦らは控えめに20万人以上と推定している。[ 19]
江戸時代以降の京都の町並みは、豊臣秀吉 により復興されたものである。碓井小三郎は、慶長3年(1598年)の京都の人口を50万人と推定している。[ 28]
多賀城
『日本後紀』によると、延暦17年(798年)に陸奥国府に居住する上級官人は国守、介、大掾、小掾、大目、少目2人(以上国司)、博士、医師、史生5人、守慊仗の16名で、他に国衙徭丁が700人程度いた。平城京の役人(6500人)と推定京内人口(10万人)の比を適用することにより、多賀城の人口は1万人程度と推定される.[ 34]
『日本三代実録 』によると貞観11年旧暦5月26日(西暦869年7月13日)に発生した貞観地震 の津波が多賀城城下に至り、溺死者が1000人に達した。
胆沢
『日本後期』によると延暦21年(802年)に坂上田村麻呂 によって胆沢城 が造営されると、鎮守府 が多賀城より移設され、浪人4000人が配備された。最盛期の弘仁元年(810年)には鎮守軍卒が3800人を数えた。[ 34]
博多
博多は古代より大宰府の外港として栄えた。『石清水文書』によると、仁平元年(1151年)に1600家とあり、推定人口は8000人。[ 20]
その後、鎌倉室町時代における人口の詳細は不明であるが、町は度重なる戦火(文永11年(1274年)の元寇 や元弘3年(1333年)の後醍醐天皇 の綸旨 に対する菊池武時 の挙兵 )を受けながらも、貿易の拠点として栄え続けた。当時鎮西探題 や九州探題 は、室見川 の西側の鷲尾愛宕神社 付近に設置されていたと推測される。『李朝成宗実録』によると15世紀末の博多は李氏朝鮮 の都城のように人家が稠密していた。1471年の『海東諸国紀』によると、博多は少弐氏 と大友氏 に分治されており、それぞれ少弐領が西南の4000余戸、大友領が東北の6000余戸、民居合計1万戸で推定人口5万人。[ 3]
『籌海図編』によると16世紀の博多は数千家の富者がおり、天文19年(1550年)に博多を訪れたザビエルは、博多は1万戸の大都会(推定人口5万人)と伝えている。その後永禄12年(1569年)の大友宗麟 と毛利元就 の戦火 で博多の大半が焼失し、3500戸(推定人口1万7000人)まで戸数が減少するが、[ 3] 『イエズス会日本通信』によると天正7年(1579年)の博多は7000戸以上にまで復興し、推定人口は3万5000人以上。[ 20]
その後博多は天正8年(1580年)には龍造寺隆信 によって、永禄14年(1586年)には島津義久 によってほぼ全焼させられるが、豊臣秀吉 の保護により復興する。
大津・坂本
大津は物資の水上運送で繁栄した。『源平盛衰記 』によると以仁王の挙兵 に対する報復として治承4年(1180年)に平重衡 が三井寺 を焼き討ちにした際、大津の在家2853軒が焼失しており、推定人口1万5000人。[ 20]
坂本は延暦寺 の門前町として栄えた。『後法興院記』によると、文亀元年(1501年)に数千軒焼失とあり、推定人口は1万5000人以上。[ 20]
平泉
『吾妻鏡 』によると鎌倉軍と奥州軍の総勢はそれぞれ28万4千騎、17万騎であったとされるが、これは実数とは認められない。『薩藩旧記雑録 』収録の文治5年(1189年)旧暦8月20日の源頼朝 から島津忠久 への書状には鎌倉方の主力軍が総勢2万人であることが書かれており、『吾妻鏡』の数字は最低でも5倍程度の誇張があると考えられる。[ 35] チャンドラーは、平安時代末の鎌倉の都市人口を10万人とし、軍隊の人口比から平泉の都市人口を5万人と推定した。[ 3] [ 36]
なお古来より『吾妻鏡』や江戸時代の作と考えられる『平泉全盛図』(平泉古図)などをもとに、往年の平泉の人口を京都に匹敵する十数万人とする説が流布しているが[ 37] 、具体的な数字の根拠が示された例がなく, 実際の都市規模はもっと小さかったと考えられる。[ 38]
鎌倉
中世の鎌倉の人口を明記した文献は存在しないが、『鎌倉年代記裏書』によると永仁元年(1293年)の地震で2万3024人が死亡していることから、最低2万3000人の人口が鎌倉にはいたことになる。[ 20] ただし周辺地域を合算した数字である可能性があり、『鎌倉大日記』では打殺さるる者1700余人とある。関東大震災 における死亡率との比較から、呉文炳は10万~15、16万人と推定した。[ 39]
また『吾妻鏡』によると建長4年(1252年)に3万7274口の酒壺が町屋民家に存在したことから、吉田東伍 は鎌倉には1万戸はあったと推定している。石井進はこの記述を武士以外の庶民の人口として5万人と見積もっている。[ 4]
一方鎌倉の僧侶人口に関しては、元亨3年(1323年)の北条貞時 の13年忌に参列した禅宗 の僧侶は、建長寺 388人、円覚寺 350人、寿福寺 260人、浄智寺 224人以下38ヵ寺合計2000人余との記録が残っているが、円覚寺の例で僧侶のほぼ1.7倍に相当する下級僧・役人・従者が禅宗寺院で暮らしていたことから、鎌倉の禅宗寺だけで5400人が暮らしていたと推定される。さらに禅律僧(推定4300人)、浄土宗 、法華宗 などを加え、石井進は鎌倉寺社地の人口を1万5000人と推定している。[ 4]
河野真一郎は、近年の発掘成果による武家屋敷(131.25 ha, 1万7500~2万9000人)と町屋(94.8 ha, 3万1600~5万6900人)の推定面積と、石井進による寺社地の推定人口(1万5000人)から、鎌倉の人口を6万4100~10万0900人と推定している。[ 4]
鎌倉の推定人口構成 (石井進, 河野真一朗, 1989年)[ 4]
地区分
面積
人口
武家屋敷
131.25 ha
17,500~29,000
寺社地
15,000
町屋
94.8 ha
31,600~56,900
合計
64,100~100,900
なおチャンドラーが採用している全盛期の鎌倉の推定人口20万人は、元文献が示されていない旅行ガイドに採用されている数字を引用しており、根拠が希薄である。[ 3] [ 40]
雪ノ湊
『太平記』によると、康安元年(1361年)の康安南海地震 により在家1700余宇が海中に没したとあり、推定人口8500人。[ 20] 雪ノ浦(湊)は『平家物語』にも登場し、土佐、九州への航路の拠点として栄えたとされる。[ 41]
堺
『応永記』、『堺記』によると、応永6年(1399年)の応永の乱 で大内義弘 が堺に籠城した際、1万軒焼失したという。また『二水記』と『尋尊大僧正記』によると、天文元年(1532年)に堺の2/3に当たる4000軒を焼失したとあり、推定戸数6000戸、推定人口3万人。[ 20]
鹿児島
『入来文書』によると鹿児島に本拠地を置いた島津伊久 が応永8年(1401年)に率いた軍勢は3500人であり、推定人口2万1000人。[ 3] [ 42]
柏崎
『梅花無尽蔵』によると、長享2年(1488年)の柏崎の様を5000~6000戸と伝えており、推定人口3万人。[ 20]
伊勢山田
『内宮古良館記』によると、延徳3年(1491年)に1000家焼失、『子良館日記』によると、永正14年(1517年)に5000軒焼失、『厳助往年記』によると天文13年(1544年)に6000軒が炎上したとあり、推定人口は3万人以上。[ 20]
天王寺・大坂本願寺
『尋尊大僧正記』によると明応8年(1499年)の天王寺は7000軒と伝えており、推定人口は3万5000人。[ 20]
『厳助往来記』によると永禄5年(1562年)に本願寺の寺内町2000軒焼失と伝えており、推定人口は1万人以上。[ 20]
天正8年(1580年)に寺内町は焼失し、本願寺が大坂を退去する。その後豊臣秀吉 によって大坂の町の建設が進められ、秀吉の死の直前には北は天満 から、南は天王寺に接する平野町 まで広がる大坂城下町が完成した。
安濃津 (津)
『宗長手記』によると、安濃津は10余年前の津波により荒野となり、大永2年(1522年)には4000~5000軒の家堂塔の跡が残っているのみと記している。よって最盛期の推定人口は2万5000人以上。[ 20]
なおこの津波が明応7年旧暦8月25日(西暦1498年9月20日)の明応の大地震 によるものだとすると、1498年には安濃津は既に廃墟と化していたことになる。ただし『細々要記』によると明応6年旧暦9月2日(西暦1497年7月26日)の津波で数百軒消失とあり、別の原因かも知れない。
桑名
『宗長手記』によると、大永6年(1526年)に5,6町の長さの港に寺々家数千間とあり、仮に3000間として推定人口は1万5000人。[ 20]
府中 (駿河)
『実隆公記』によると享禄3年(1530年)に駿河府中は2000余軒とあり、推定人口1万人以上。[ 20]
山口
天文19年(1550年)に山口を訪れたザビエルは、山口の戸数を1万戸以上、コスメ・デ・トーレス は2万戸と記述しており、推定人口は6万人。[ 3]
大寧寺の変 で町並みは被害を受けており、弘治3年(1557年)に山口を訪れたイエズス会の宣教師は、山口を1万人と伝えている。
近江石寺・安土
『長享年後畿内兵乱記』によると、永禄6年(1563年)に石場寺3000家屋焼失とあり、推定人口1万5000人。[ 20]
『イエズス会日本通信』によると、天正9年(1581年)の安土 城下町は5000~6000人の住民がおり、その後も町は拡大を続けた。
岐阜
『イエズス会日本通信』のルイス・フロイス の書によると、織田信長 入城以来の町の繁栄をバビロン 城の繁栄に喩え、永禄12年(1569年)の人口を1万人と記載している。[ 20]
長崎
長崎 は大村純忠 によって永禄13年(1570年)に開港され、『イエズス会日本通信』によるとガスパル・ビレラはこの頃の長崎の人口を1500人と伝えている。フランシスコ・カリヤンは天正7年(1579年)に400戸以上、ルイス・フロイスは天正18年(1590年)に5000人、アビラ・ヒロン は『日本王国記』の中で文禄3年(1594年)に3000人、ルイス・デ・グスマンは『グスマン東方伝道史』の中で文禄4年(1595年)に8000人、フェルナン・ゲレイロは慶長5年(1600年)に4000~5000人、フランシスコ・カリヤンは慶長16年(1611年)に1万5000人、アビラ・ヒロンは慶長19年(1614年)に2万5000人以上と伝えている。またライエル・ハイスベルツは『日本大王国志』の中で寛永3年(1626年)の長崎のキリシタン人口を4万人と記述している。
春日町・府中 (直江津)
直江津は越後国府が置かれ、今町の湊として知られて来た。上杉謙信 が春日山城 を本拠地とした時、侍屋敷のある春日町、門前町の浜善光寺、港町の直江津(狭義の府中)の三つの中心街が形成され、やがて謙信治世末期には浜善行寺地区が府中に組み込まれた。
『景勝一代略記』によると天正6年(1578年)の御館の乱 の際、旧暦5月16日に春日町3000軒、旧暦6月11日に府中6000軒が焼失したとあり、推定人口は春日町1万5000人、府中3万人。但し原田伴彦は春日町・直江津全体を含めて広義の府中6000軒と解釈し、総人口3万人と推定している。[ 20]
野津
『イエズス会日本通信』によると、天正7年(1579年)に2万人を収容。[ 20]
越中瑞泉寺
『瑞泉寺記録帳』によると、天正9年(1581年)に佐々成政 が焼き討ちする前、寺27、町屋3000余とあり、推定人口1万5000人。[ 20]
蓮池
蓮沼城 は佐々成政の居城として栄え、「蓮沼三千軒」と称された。『 昔日北華録 』によると、天正12年(1584年)に家数2000軒とあり、推定人口1万人。[ 20]
清洲
『駒井日記』によると、文禄3年(1594年)に古くから居住している町屋は約1500軒とあり、天正年間(1580年代)の推定人口は7500人以上。[ 20]
江戸時代
推定人口
江戸時代に入ると各藩において武士 の城下町 ・陣屋町 への定住化が促進され、数千、数万人規模の地方都市が日本全国各地に成立する。また政治の安定化により港町 、宿場町 、門前町 、鉱山町、在郷町 なども発達する。
17世紀 中ごろにはキリシタン 取り締まりの為に寺社毎に戸口をまとめた宗門人別改帳 制度が成立し、各地域毎の人口がより正確に把握されるようになった。しかしながら調査方法が不統一であり、それぞれの奉行所 や藩 に方法が任されたため、武家人口、乳幼児人口や被差別階級、神社仏閣関連人口の扱いが奉行所・藩によって異なっていた。更にこれらの調査結果も幕府が中央で収集しなかったため、各地に過去の人別改帳が散逸してしまい、地域によって調査史料の質・量が異なる結果となってしまっている。特に城下町の人口の半分前後を占めていた武家人口の記録がほとんど現存せず、多くの場合正確な都市人口は不明である。
1609年 (慶長14年)に日本へ漂流したロドリゴ・デ・ビベロ は、京の人口を30万~40万人(本人の目算では80万人以上)、大坂の人口を20万人、江戸の人口を15万人、駿府の人口を12万人、堺の人口を8万人、大多喜 の人口を1万2千人と伝えている。また駿府と京の間で人口3万人、4万人の町を通過したとしており、それぞれ浜松、名古屋 (または清州)のことと思われる。寛永 年間まで京は日本最大の都市であったが、参勤交代 で人口が急増した江戸が代わって日本最大の都市となる。一方、大坂は大坂の陣 で荒廃するものの、元禄 年間に京の人口を追い抜いたと考えられる。江戸時代中頃より江戸、大坂、京は三都 と呼ばれるようになる。江戸時代の人口規模としては、三都のほかに金沢と名古屋は最盛期に武家人口を含めて10万人以上居住していたと考えられる。また駿府と山口は江戸時代初期に限り10万人規模の人口を有していた。
江戸の住区別面積の変遷と諸都市の住区別面積(面積の単位:km2 )[ 43] [ 44] [ 45]
都市名
年代
総面積
公家地
武家地
町人地
寺社地
空地・その他
復元史料
江戸
正保 年間 (1647年 頃)
43.95
34.06 (77.4%)
4.29 (9.8%)
4.50 (10.3%)
1.10 (2.5%)
『正保年間江戸絵図』
寛文 10~13年 (1670年 ~1673年 )
63.42
43.66 (68.9%)
6.75 (10.6%)
7.90 (12.4%)
5.11 (8.1%)
『新板江戸大絵図』 『新板江戸外絵図』
享保 10年 (1725年 )
69.93
46.47 (66.4%)
8.72 (12.5%)
10.74 (15.4%)
4.00 (5.7%)
『分間江戸大絵図』
慶応 元年 (1865年 )
79.8
50.7 (63.5%)
14.2 (17.8%)
10.1 (12.7%)
4.8 (6.0%)
『慶応江戸切絵図』
明治 2年 (1869年 )
56.36
38.65 (68.6%)
8.92 (15.8%)
8.80 (15.6%)
後藤新平 『江戸の自治制』
京 (洛中)
正保 年間 (1647年 頃)
20.87
0.68 (3.3%)
1.05 (5.0%)
8.37 (40.1%)
2.92 (14.0%)
7.85 (37.6%)
『寛永後万治前京都全図』
大坂
明暦 年間 (1655年 頃)
15.05
3.36 (22.3%)
8.68 (57.7%)
1.18 km2 (7.8%)
1.83 (12.2%)
『大坂三郷町絵図』
仙台
正保 年間 (1647年 頃)
10.37
7.56 (72.9%)
1.15 (11.1%)
1.66 (16.0%)
『陸前国仙台城絵図』
名古屋
万治 年間 (1660年 頃)
9.20
5.69 (61.8%)
2.18 (23.7%)
1.14 (12.4%)
0.19 (2.1%)
『名古屋御城下絵図』
金沢
正保 年間 (1647年 頃)
7.46
4.91 (65.8%)
1.58 (21.2%)
0.79 (10.6%)
0.18 (2.4%)
『加賀国金沢之絵図』
和歌山 [ 44]
安政 2年 (1855年 )
5.51
2.48 (45.0%)
1.64 (29.8%)
0.39 (7.0%)
1.00 (18.2%)
『安政二年和歌山城下町図』
熊本 [ 45]
安永 6年 (1777年 )
3.73
2.68 (72.0%)
0.59 (15.9%)
0.36 (9.6%)
0.10 (2.6%)
『熊本城下惣坪数の覚』
津山 (中都市)
正保 年間 (1647年 頃)
1.88
1.24 (66.0%)
0.45 (23.9%)
0.13 (6.9%)
0.06 (3.2%)
『美作国津山城絵図』
日出 (小都市)
正保年間 (1647年頃)
0.29
0.16 (55.2%)
0.11 (37.9%)
0.02 (6.9%)
『豊後国日出城絵図』
以下の表に斎藤誠治による江戸時代の主要都市の計外人口を含めた推定人口の推移を、『日本地誌提要』による明治6年1月1日調の人口と共に示す[ 46] 。これらの推定人口には町続きの人口は加算されていない。広島 、萩 、和歌山、徳島 、高松 及び琉球の首里 なども江戸時代に十分な人口を有していたと推定されるが、人口推移は推定されていない。一方、開港 前の横浜 は半農半漁の郷村であった。
江戸時代の主要都市推定人口[ 46]
主要都市
1650年
1750年
1850年
1873年
江戸時代の都市形態
江戸
430,000
1,220,000
1,150,000
595,905
三都
大坂
220,000
410,000
330,000
271,992
三都
京
430,000
370,000
290,000
238,663
三都
名古屋
87,000
106,000
116,000
125,193
城下町
金沢
114,000
128,000
118,000
109,685
城下町
広島
n.a.
n.a.
n.a.
74,305
城下町
横浜
n.a.
n.a.
n.a.
64,602
漁村(1860年 開港)
和歌山
n.a.
n.a.
n.a.
61,124
城下町
仙台
57,000
60,000
48,000
51,998
城下町
徳島
n.a.
n.a.
n.a.
48,861
城下町
萩
n.a.
n.a.
n.a.
45,318
城下町
首里
n.a.
n.a.
n.a.
44,984
城下町
富山
8,000
17,000
33,000
44,682
城下町
熊本
17,000
29,000
41,000
44,620
城下町
福岡 ・博多
53,000
43,000
32,000
41,635
城下町
兵庫 ・神戸
20,000
25,000
22,000
40,900
港町(1868年 開港)
福井
48,000
43,000
39,000
39,784
城下町
高知
20,000
24,000
28,000
39,757
城下町
堺
69,000
47,000
41,000
38,838
港町
久保田(秋田 )
18,000
22,000
27,000
38,118
城下町
松江
18,000
28,000
36,000
37,808
城下町
新潟
4,000
14,000
27,000
33,152
港町(1869年 開港)
弘前
11,000
31,000
37,000
32,886
城下町
高松
n.a.
n.a.
n.a.
32,736
城下町
岡山
29,000
26,000
20,000
32,372
城下町
加世田
n.a.
n.a.
n.a.
31,595
在郷町
府中(駿府、静岡)
n.a.
n.a.
n.a.
31,555
城下町 (明治8年『共武政表』では37,724人)
長崎
37,000
45,000
31,000
29,656
港町
箱館
0
3,000
10,000
28,825
港町(1859年 開港)
高田 (越後高田)
21,000
16,000
18,000
27,460
城下町
鹿児島
50,000
58,000
42,000
27,240
城下町 (明治8年『共武政表』では89,374人)
松山
23,000
16,000
16,000
26,141
城下町
鶴岡
15,000
18,000
16,000
24,964
城下町
米沢
35,000
32,000
29,000
24,945
城下町 (明治8年『共武政表』では34,911人)
鹿籠(枕崎 、東南方)
n.a.
n.a.
n.a.
24,902
在郷町
姫路
21,000
22,000
24,000
24,521
城下町
彦根
38,000
33,000
29,000
24,368
城下町
長岡
n.a.
n.a.
n.a.
24,067
城下町
高岡 (越中高岡)
12,000
11,000
14,000
23,724
在郷町
山田(伊勢山田)
30,000
23,000
16,000
22,473
門前町
伏見
16,000
33,000
46,000
22,334
宿場・港町
安濃津(津)
12,000
18,000
16,000
22,080
城下町
佐賀
n.a.
n.a.
n.a.
21,660
城下町
盛岡
17,000
27,000
30,000
21,306
城下町 (明治8年『共武政表』では25,457人)
奈良
35,000
35,000
27,000
21,158
門前町
谷山
n.a.
n.a.
n.a.
21,082
在郷町
鳥取
32,000
35,000
35,000
20,782
城下町 (明治8年『共武政表』では37,796人)
若松(会津若松 )
27,000
26,000
25,000
20,588
城下町
久留米
n.a.
n.a.
n.a.
20,381
城下町
放生津 (新湊 )
4,000
8,000
14,000
18,904
港町
酒田
8,000
14,000
18,000
18,619
港町
新発田
6,000
10,000
12,000
18,312
城下町
桑名
22,000
19,000
16,000
18,064
城下町
大津
22,000
19,000
17,000
17,924
宿場・港町
福山 (備後福山)
16,000
15,000
17,000
17,643
城下町
山形
25,000
23,000
21,000
17,631
城下町
福山(蝦夷福山、松前 )
5,000
7,000
11,000
16,092
城下町
甲府
26,000
24,000
22,000
15,529
城下町
熱田
14,000
13,000
17,000
15,211
門前町
前橋
9,000
12,000
14,000
15,063
城下町
宇都宮
18,000
15,000
12,000
15,061
城下町
郡山(大和郡山 )
13,000
14,000
14,000
14,988
城下町
松本
14,000
14,000
15,000
14,275
城下町
高山 (飛騨高山)
8,000
11,000
13,000
13,081
城下町
小田原
7,000
10,000
13,000
12,710
城下町
敦賀
21,000
15,000
13,000
11,476
陣屋町
高崎
13,000
14,000
14,000
11,285
城下町
青森
8,000
9,000
12,000
10,965
港町
岐阜
9,000
11,000
12,000
10,800
宿場町
大垣
22,000
20,000
18,000
10,158
城下町
魚津
3,000
7,000
11,000
10,098
港町
小松 (加賀小松)
6,000
10,000
9,000
9,970
在郷町
府中(武生 )
8,000
10,000
12,000
9,416
在郷町
大聖寺
6,000
8,000
9,000
9,416
陣屋町
川越
10,000
11,000
13,000
9,357
城下町
能代
5,000
8,000
10,000
9,174
港町
桐生
5,000
6,000
10,000
3,894
在郷町
足利
2,000
6,000
10,000
2,124
陣屋町
人別改などに記載された都市人口
宗門人別改帳による集計結果は、人数改帳などの形で各藩・各奉行所で報告書が作成されており、江戸時代の都市規模を推定する上で重要な史料となる。
江戸時代の江戸の町方・寺社人口、京の町方・寺社人口、大坂三郷 の町方人口については江戸 と三都 の項目にまとめてある。本項目ではその他の地方都市の人口を紹介する。明治6年(1873年)の人口は原則『日本地誌提要』による。また諸大概帳による天保14年(1843年)の街道筋の宿内町人口については、別個項目をたててまとめる。弘前や鹿児島などのように人口統計として城下町に暮らす武家人口が判明しているものもあるが、ほとんどは町方人口しか記録が残っていない。武家人口とその他の人口の比率は城下町によって異なり、仙台、鹿児島などは武家人口の方が多い。
京 (京都, 平安京)
三都 の項を参照。
伏見 (伏水)
伏見には伏見奉行所が置かれていた時期もあり、幕末には4万人以上の人口を有する宿場町として栄えた。天保14年(1843年)の宿内のみの人口は2万4227人(『東海道宿村大概帳』)。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い で市街の大部分が焼失する。
元号
西暦
町方人口
元禄3年
1690年
25,249
元禄13年
1700年
28,743
正徳4年
1714年
30,055
明和年中
1770年頃
27,450
天明年中
1786年頃
33,385
天保年中
1843年頃
40,980
明治6年 (総数)
1873年
22,334
(典拠は『京都の歴史』)
宇治
元号
西暦
町方人口
元禄3年
1690年
5,627
元禄13年
1700年
4,505
正徳5年
1715年
4,101
享保19年
1734年
4,049
延享元年
1744年
3,117
宝暦6年
1756年
2,764
文化10年
1813年
2,088
文化13年
1816年
1,632
明治6年 (総数)
1873年
2,550
(典拠は『宇治市史』)
淀
元号
西暦
町方人口
元禄13年
1700年
3,740
正徳5年
1715年
5,143
天保14年
1843年
2,847
明治6年 (総数)
1873年
5,933
(典拠は『京都の歴史』、『東海道宿村大概帳』)
奈良
元号
西暦
合計
町方
寺社方
寛永8年
1631年
34,985
25,054
9,931
延宝8年
1680年
28,243
元禄11年
1698年
35,369
26,420
8,949
正徳4年
1714年
23,500
享保11年
1726年
22,538
享保14年
1729年
22,146
元文5年
1740年
20,081
延享元年
1744年
19,210
安政4年
1857年
20,661
16,004
4,657
明治6年 (総数)
1873年
21,158
(典拠は『奈良市史』、『奈良県史』、梅村佳代(2003年)[ 47] )
郡山 (大和郡山)
延宝年中(1675年頃)の武家人口は家族を除いて2,757人。町屋家数は延宝7年(1679年)の4693軒から享保8年(1723年)の3850軒、安永6年(1777年)の3837軒と減少しており、延宝年中の郡山の武家を含めた推定総人口は2万5000人。
元号
西暦
町方人口
享保8年
1723年
12,869
享保年中
1725年頃
13,258
寛政4年
1792年
7,718
寛政10年
1798年
7,750
明治6年 (総数)
1873年
14,988
(典拠は『郡山町史』、『奈良県史』)
八尾
大和川 の付け替えの行われた宝永年中の八尾は戸数820余軒、人口3千余人。
元号
西暦
町方人口
明和6年
1769年
2,821
文政6年
1823年
2,251
明治6年 (総数)
1873年
3,471
(典拠は『八尾市史』)
岸和田
明治6年(1873年)を除き岸和田浜町のみの人口で、岸和田本町、岸和田北町、岸和田南町の人口は加算されていない。
元号
西暦
岸和田浜町
宝暦5年
1755年
2,692
文久年
1863年
2,718
明治3年
1870年
3,057
明治6年 (総数)
1873年
8,852
(典拠は『岸和田市史』)
貝塚
元号
西暦
町方人口
元禄9年
1696年
7,110
宝永7年
1710年
7,536
享保6年
1721年
6,807
元文4年
1739年
6,852
延享元年
1744年
6,691
延享2年
1745年
6,747
寛政10年
1798年
5,735
文化2年
1805年
5,811
文化7年
1810年
5,714
天保12年
1841年
4,617
嘉永3年
1850年
4,677
嘉永5年
1852年
4,865
元治元年
1865年
4,075
明治2年
1869年
3,958
明治6年 (総数)
1873年
4,270
(典拠は『貝塚市史』)
堺
元号
西暦
町方人口
南本郷
南端郷
北本郷
北端郷
寛文5年
1663年
69,368
28,916
7,822
19,628
13,002
延宝3年
1675年
61,481
26,226
6,937
17,415
10,903
天和元年
1681年
59,551
25,773
7,080
16,584
10,114
元禄元年
1688年
62,860
江戸初期には、泉摂国境による南北二分に本郷・端郷の区分を加えて、4つの行政区(四辻)に分かれていた。元禄6年(1693年)に本郷と端郷の区分を廃し、南組・北組に再編された。
元号
西暦
町方人口
南組
北組
南北寺庵
同境内借屋下人
南北惣代職事
並垣外妻子下人
新地
北之端
並松
非人
元禄8年
1695年
63,706
34,873
28,655
178
350
元禄16年
1703年
56,997
31,066
24,753
1,009
169
402
宝永元年
1704年
56,046
29,301
24,058
2,525
162
宝永4年
1707年
58,726
29,744
26,293
2,522
167
宝永6年
1709年
55,461
28,467
23,747
2,658
589
享保2年
1717年
51,138
26,244
22,427
2,326
141
366
享保4年
1719年
51,315
26,464
22,412
2,301
138
享保16年
1731年
52,446
延享3年
1746年
47,928
24,620
20,690
2,480
138
312
宝暦6年
1756年
46,662
23,576
20,478
2,451
157
308
安永6年
1777年
45,570
文化10年
1813年
44,496
308
文化13年
1816年
44,796
天保11年
1840年
44,068
弘化4年
1847年
40,616
嘉永元年
1848年
40,977
18,389
18,817
2,257
122
1,069
323
安政6年
1859年
37,153
明治6年 (総数)
1873年
38,838
(典拠は『堺市史』)
大坂
三都 の項を参照。
平野町
ここでいう平野町とは、今日の大阪市 中央区 の船場 の一角の南北平野町のことである。豊臣時代に大坂城下町の一部として、平野郷 からの移住者が中心となって建設されたが、徳川時代に設定された大坂三郷には含まれなかった。天王寺、難波と共に、大坂三郷の郊外型の在郷町として発達した。
元号
西暦
合計
在方
穢多
元号
西暦
合計
在方
穢多
元号
西暦
合計
在方
穢多
元禄元年
1688年
10,851
安永8年
1779年
8,709
8,597
112
天保5年
1834年
7,916
7,695
221
元禄3年
1690年
10,991
天明3年
1783年
8,503
8,385
118
天保7年
1836年
7,901
7,674
227
宝永元年
1704年
9,272
天明4年
1784年
8,249
8,139
110
天保9年
1838年
7,161
6,976
185
宝永3年
1706年
10,686
天明6年
1786年
7,820
7,701
119
天保10年
1839年
7,088
6,904
184
宝永5年
1708年
10,702
10,626
76
天明8年
1788年
7,694
7,578
116
天保12年
1841年
7,217
7,027
190
享保6年
1721年
10,623
10,534
89
寛政元年
1789年
7,487
7,373
114
弘化元年
1844年
7,494
7,289
205
享保11年
1726年
10,711
10,623
88
寛政6年
1794年
7,980
7,866
114
弘化2年
1846年
7,866
7,648
218
享保17年
1732年
10,484
寛政9年
1797年
8,260
8,138
122
嘉永2年
1849年
7,863
延享4年
1747年
9,150
寛政11年
1799年
8,266
8,142
124
嘉永3年
1850年
8,204
7,958
246
寛延元年
1748年
9,251
文化元年
1804年
7,982
7,848
134
嘉永5年
1852年
8,230
7,984
246
宝暦6年
1756年
9,439
9,339
100
文化6年
1809年
7,900
7,741
159
嘉永6年
1853年
8,146
7,894
252
宝暦9年
1759年
9,401
9,298
103
文化11年
1814年
7,833
7,657
176
安政2年
1855年
8,006
宝暦11年
1761年
9,432
9,334
98
文政2年
1819年
7,802
7,621
181
文久2年
1862年
8,352
8,103
249
明和元年
1764年
9,390
9,285
105
文政7年
1824年
7,746
7,545
201
文久3年
1863年
8,201
7,948
253
明和4年
1767年
9,464
9,357
107
文政9年
1826年
7,689
7,476
213
元治元年
1864年
7,899
明和5年
1768年
9,208
天保3年
1832年
7,839
7,621
218
明治6年 (総数)
1873年
6,796
安永3年
1774年
8,936
8,838
98
天保4年
1833年
7,927
7,706
221
(典拠は『新修大阪市史』)
尼崎
元号
西暦
町方人口
寛文9年
1669年
14,890
貞享年中
1685年頃
15,113
享保元年
1716年
16,439
享保19年
1734年
16,494
天明8年
1788年
12,008
天保9年
1838年
9,671
明治6年 (総数)
1873年
12,404
(典拠は『尼崎市史』)
伊丹
享和元年(1801年)の伊丹郷の人口は8237人。天保7年(1836年)の伊丹郷の竈数は2500で推定人口1万人(典拠は『伊丹市史』)。明治6年(1873年)の人口は3508人。
西宮
天保14年(1843年)の宿人別と町奉行支配場の合計は8268人(『山崎通宿村大概帳』)。
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
明和6年
1769年
9,778
寛政11年
1799年
8,504
文政12年
1829年
8,225
明和7年
1770年
9,520
寛政12年
1800年
8,567
天保元年
1830年
8,399
明和8年
1771年
9,489
享和元年
1801年
8,588
天保2年
1831年
8,281
安永元年
1772年
9,266
享和2年
1802年
8,591
天保3年
1832年
8,348
安永2年
1773年
9,141
享和3年
1803年
8,488
天保4年
1833年
8,297
安永3年
1774年
9,297
文化元年
1804年
8,557
天保5年
1834年
8,173
安永4年
1775年
9,255
文化2年
1805年
8,668
天保6年
1835年
8,146
安永5年
1776年
9,317
文化3年
1806年
8,675
天保7年
1836年
8,196
安永6年
1777年
9,326
文化4年
1807年
8,643
天保8年
1837年
7,789
安永7年
1778年
9,364
文化5年
1808年
8,634
天保9年
1838年
7,518
安永8年
1779年
9,404
文化6年
1809年
8,619
天保10年
1839年
7,360
安永9年
1780年
9,380
文化7年
1810年
8,499
天保11年
1840年
7,557
天明元年
1781年
9,363
文化8年
1811年
8,441
天保12年
1841年
7,641
天明2年
1782年
9,217
文化9年
1812年
8,459
天保13年
1842年
7,847
天明3年
1783年
8,955
文化10年
1813年
8,434
天保14年
1843年
8,075
天明4年
1784年
8,419
文化11年
1814年
8,470
弘化元年
1844年
8,129
天明5年
1785年
8,235
文化12年
1815年
8,414
弘化2年
1845年
8,195
天明6年
1786年
8,226
文化13年
1816年
8,430
弘化3年
1846年
8,024
天明7年
1787年
8,142
文化14年
1817年
8,465
弘化4年
1847年
8,006
天明8年
1788年
8,041
文政元年
1818年
8,365
嘉永元年
1848年
8,002
寛政元年
1789年
7,954
文政2年
1819年
8,337
嘉永2年
1849年
7,773
寛政2年
1790年
8,087
文政3年
1820年
8,363
嘉永3年
1850年
7,669
寛政3年
1791年
8,154
文政4年
1821年
8,356
嘉永4年
1851年
7,843
寛政4年
1792年
8,187
文政5年
1822年
8,323
嘉永5年
1852年
7,869
寛政5年
1793年
8,249
文政6年
1823年
8,329
嘉永6年
1853年
7,820
寛政6年
1794年
8,359
文政7年
1824年
8,364
安政元年
1854年
7,616
寛政7年
1795年
8,414
文政8年
1825年
8,279
安政2年
1855年
7,682
寛政8年
1796年
8,496
文政9年
1826年
8,261
安政3年
1856年
7,656
寛政9年
1797年
8,537
文政10年
1827年
8,342
明治6年 (総数)
1858年
8,699
寛政10年
1798年
8,619
文政11年
1828年
8,336
(典拠は西山松之助 (1952年)[ 48] )
兵庫・神戸
慶応3年旧暦12月7日(1868年1月1日)に兵庫津の東に位置する神戸村が幕末五港の一つとなる兵庫港として開港する。後に神戸港 と改名し、明治に入って兵庫港・神戸港から成る神戸区 が成立する。1829年以前の神戸村の人口は、元禄3年(1690年)に1391人、宝暦10年(1760年)に1985人。『日本地誌提要』による明治6年(1873年)の総人口は兵庫67町神戸30町で4万0900人(現住人口か?)、外国人寄留人口は350人。
元号
西暦
兵庫町方
元号
西暦
兵庫町方
元号
西暦
兵庫町方
神戸村
享保年中
1725年頃
19,766
寛政10年
1798年
20,678
天保元年
1830年
20,920
2,637
元文4年
1739年
20,546
寛政11年
1799年
20,880
天保2年
1831年
20,710
宝暦9年
1759年
21,030
寛政12年
1800年
20,853
天保3年
1832年
20,942
2,640
明和6年
1769年
22,774
享和元年
1801年
20,740
天保4年
1833年
20,896
2,666
明和7年
1770年
22,146
享和2年
1802年
20,835
天保5年
1834年
20,626
2,670
明和8年
1771年
22,007
享和3年
1803年
20,741
天保6年
1835年
20,729
安永元年
1772年
21,702
文化元年
1804年
20,590
天保7年
1836年
20,676
安永2年
1773年
22,072
文化2年
1805年
20,642
天保8年
1837年
20,003
2,624
安永3年
1774年
22,133
文化3年
1806年
20,751
天保9年
1838年
19,591
安永4年
1775年
22,031
文化4年
1807年
20,675
天保10年
1839年
19,535
2,541
安永5年
1776年
21,829
文化5年
1808年
20,645
天保11年
1840年
19,847
2,442
安永6年
1777年
21,693
文化6年
1809年
20,517
天保12年
1841年
20,326
安永7年
1778年
21,468
文化7年
1810年
20,431
天保13年
1842年
20,614
安永8年
1779年
21,549
文化8年
1811年
20,375
天保14年
1843年
21,060
安永9年
1780年
21,448
文化9年
1812年
20,355
弘化元年
1844年
22,374
天明元年
1781年
21,552
文化10年
1813年
20,185
弘化2年
1845年
22,311
2,558
天明2年
1782年
21,531
文化11年
1814年
20,251
弘化3年
1846年
22,074
天明3年
1783年
21,412
文化12年
1815年
20,158
弘化4年
1847年
21,966
天明4年
1784年
20,279
文化13年
1816年
20,146
嘉永元年
1848年
21,965
天明5年
1785年
19,906
文化14年
1817年
20,182
嘉永2年
1849年
22,011
天明6年
1786年
19,987
文政元年
1818年
20,215
嘉永3年
1850年
21,861
2,547
天明7年
1787年
19,934
文政2年
1819年
20,401
嘉永4年
1851年
21,362
天明8年
1788年
19,858
文政3年
1820年
20,511
嘉永5年
1852年
21,097
2,522
寛政元年
1789年
19,909
文政4年
1821年
20,590
嘉永6年
1853年
20,960
2,533
寛政2年
1790年
20,162
文政5年
1822年
20,643
安政元年
1854年
20,887
寛政3年
1791年
20,057
文政6年
1823年
20,973
安政2年
1855年
20,998
寛政4年
1792年
20,321
文政7年
1824年
20,961
安政3年
1856年
21,120
寛政5年
1793年
20,467
文政8年
1825年
20,916
安政5年
1858年
2,605
寛政6年
1794年
20,559
文政9年
1826年
20,859
文久元年
1861年
20,061
寛政7年
1795年
20,529
文政10年
1827年
20,935
明治元年 (総数)
1868年
19,556
寛政8年
1796年
20,736
文政11年
1828年
20,998
明治6年 (総数)
1873年
27,476
8,554
寛政9年
1797年
20,681
文政12年
1829年
21,105
(典拠は西山松之助 (1952年)[ 48] 、『神戸市史』)
上野 (伊賀上野)
元号
西暦
町方人口
享保12年
1727年
11,195
寛延・宝暦年中
1750年頃
8,342
享和3年
1803年
8,459
明治5年 (総数)
1872年
12,019
明治6年 (総数)
1873年
12,385
(典拠は『上野市史』)
桑名
延宝7年(1679年)の桑名藩家中人口は9648人であり、武家人口を含む桑名の総人口は約2万2000人と推定される。
元号
西暦
町方人口
延宝7年
1679年
12,520
元禄・宝永年中
1700年頃
13,160
宝永7年
1710年
11,902
寛延3年
1750年
10,857
文政6年
1822年
8,527
天保14年
1843年
8,848
明治6年 (総数)
1873年
18,064
(典拠は『桑名市史』、『東海道宿村大概帳』)
神戸 (鈴鹿 )
天明8年(1788年)の町方人口は2173人(典拠は『角川地名辞典』)。明治6年(1873年)の人口は2694人。
四日市
元号
西暦
町方人口
天和3年
1683年
4,612
享保9年
1724年
5,868
寛政4年
1792年
5,912
享和元年
1801年
6,444
文化8年
1811年
6,293
天保9年
1838年
6,722
天保14年
1843年
7,114
弘化4年
1847年
7,461
慶応4年
1868年
7,225
明治6年 (総数)
1873年
9,722
(典拠は『四日市市史』、『東海道宿村大概帳』)
亀山
元号
西暦
町方人口
寛文9年頃
1669年頃
1,887
寛政7年
1795年
1,743
明治6年 (総数)
1873年
5,245
(典拠は『亀山地方郷土史』)
安濃津 (津)
町支配ではない町続きの戸数は天和元年(1881年)に580軒。藩士戸数は宝暦元年(1751年)に313軒。
元号
西暦
町方人口
寛文5年
1665年
12,205
寛文6年
1666年
12,261
寛文9年
1669年
11,942
貞享2年
1685年
11,190
貞享5年
1688年
11,848
元禄14年
1701年
11,648
宝永元年
1704年
10,752
享保2年
1717年
10,077
享保14年
1727年
11,305
享保16年
1731年
11,262
宝暦9年 (男15歳以上, 女13歳以上)
1759年
7,170
明治6年 (総数)
1873年
22,080
(典拠は『津市史』)
松坂
元号
西暦
町方人口
元禄12年 (8歳以上)
1699年
8,197
安政2年 (8歳以上)
1855年
4,948
明治2年 (8歳以上)
1869年
4,356
明治6年 (総数)
1873年
8,781
(典拠は『松阪市史』、『南紀徳川史』)
宇治・山田
鎌倉時代までには伊勢神宮 の門前町が形成され、室町時代後半には外宮に山田三方 、内宮に宇治六郷という自治組織が成立した。江戸時代度々流行したお蔭参り の参拝者数で驚くべき数字が伝わっているものの信頼性は低い。
元号
西暦
合計
外宮町方
(山田)
内宮町方
(宇治)
その他
寛永12年 (15歳以上)
1635年
23,622
寛永14年
1637年
34,701
30,929
3,592
180
正徳6年
1716年
39,621
明治6年 (総数)
1873年
22,473
(典拠は『宇治山田市史』、『近世山田町方資料』)
鳥羽 (志摩鳥羽)
寛永3年(1850年)の町方屋敷は816軒、安政4年(1857年)の武家屋敷は396軒。寛政6年(1794年)の町方人口は鳥羽町2961人、他所組下女196人、外(欠落)119人を含む。
元号
西暦
町方人口
正徳3年
1713年
4,380
延享2年
1745年
3,873
寛政6年
1794年
3,276
明治6年 (総数)
1873年
4,746
(典拠は『鳥羽市史』)
名古屋
明治初年の調査では名古屋藩の武家人口は約5万人であり、最盛期の総人口は10万人を越えたと推定される。寛文9年(1669年)の人口は寺社門前地を含む。
元号
西暦
町方
本町以西
七間町以東
承応3年
1654年
54,932
29,744
25,188
万治2年
1659年
55,127
30,121
25,006
寛文4年
1664年
54,998
29,769
25,229
寛文9年
1669年
55,849
延宝2年
1674年
56,636
貞亭元年
1684年
54,118
元禄2年
1689年
57,843
元禄5年
1692年
63,734
元禄7年
1694年
55,665
享保6年
1721年
42,135
享保11年
1726年
50,375
享保13年(1728年)、愛知郡 広井村、名古屋村、押切村、栄村、日置村、古渡村、春日井郡 前津小林村、枇杷島村、杉村、大曽根村に拡大していた町続が全て町方支配地となった。宝暦3年(1753年)には町中1753軒に対し、町続5592軒、寺社門前1072軒、合計1万2623軒と、町中戸数と町続戸数がほぼ同数になっている。慶応元年(1865年)の人口は町中3万4300人、寺社門前6743人、町続之分3万2060人、医師等757人、浪人103人を含む。明治4年(1871年)の人口は町中・寺社門前・町続6万9618人、医師・僧尼・祢宜2080人を含む。
元号
西暦
町方人口
寛延3年
1750年
72,583
天保11年
1840年
75,779
慶応元年
1865年
73,963
明治4年
1871年
71,698
明治6年 (総数)
1873年
125,193
(典拠は『名古屋市史』、『名古屋史要』、『新修名古屋市史』)
宮 (熱田)
元禄12年(1699年)の人口1万3999人は、熱田町8734人、三ヶ浦3762人、社人1101人、社人支配町人402人の合計。その後の熱田の人口は、三ヶ浦や神宮支配場人口が加算されていないと思われる。明治4年(1871年)の人口は医師・僧尼・祢宜27人を含む。
元号
西暦
町方人口
元禄12年 (総数)
1699年
13,999
享保6年
1721年
7,892
享保11年
1726年
7,858
天保11年
1840年
11,957
天保14年
1843年
10,342
明治4年
1871年
12,864
明治6年 (総数)
1873年
15,211
(典拠は『新修名古屋市史』、『東海道宿村大概帳』)
犬山
元号
西暦
町方人口
文化元年
1804年
1,971
天保13年頃
1842年頃
3,480
明治6年 (総数)
1873年
6,159
(典拠は『犬山市史』、『犬山市資料』)
一宮
元号
西暦
町方人口
万治2年
1659年
2,935
安政4年
1857年
5,727
安政5年
1858年
5,777
明治4年 (総数)
1871年
6,846
明治6年 (総数)
1873年
7,399
(典拠は『一宮市史』)
津島
元号
西暦
在方人口
(津島五ヶ村)
寛文年中
1665年頃
5,539
寛政~文政年中
1800年頃
5,722
天保年中
1843年頃
7,468
明治6年 (総数)
1873年
7,387
(典拠は『津島町史』)
大浜
元号
西暦
在方人口
貞亭元年
1684年
2,306
正徳元年
1711年
3,603
延享3年
1746年
4,570
宝暦10年
1760年
5,047
宝暦11年
1761年
5,011
明和5年
1768年
5,656
明和7年
1770年
5,554
天保12年
1841年
7,463
明治6年 (総数)
1873年
8,885
(典拠は『碧南市史』)
棚尾
元号
西暦
在方人口
寛保2年
1742年
907
弘化3年
1846年
4,993
嘉永5年
1852年
5,197
文久3年
1863年
5,632
慶応2年
1866年
5,744
(典拠は『碧南市史』)
岡崎
元号
西暦
町方人口
享和元年
1801年
6,137
天保4年
1833年
6,566
天保14年
1843年
6,494
明治6年 (総数)
1873年
12,969
(典拠は『岡崎市史』、『東海道宿村大概帳』)
挙母 (豊田 )
町方戸数は延宝年中(1675年頃)に442戸、寛延2年(1749年)は616戸(典拠は『豊田市史』)。明治6年(1873年)の人口は3352人。
西尾
元号
西暦
町方人口
延享2年
1745年
2,870
安永5年
1776年
3,033
文政6年
1822年
2,825
弘化3年
1846年
3,002
明治6年 (総数)
1873年
7,095
(典拠は『西尾町史』)
吉田 (豊橋 )
元号
西暦
町方人口
正徳2年
1712年
7,219
寛延3年
1750年
5,530
享和2年
1802年
4,897
天保14年
1843年
5,277
明治6年 (総数)
1873年
7,506
(典拠は『豊橋市史』)
浜松
元号
西暦
合計人口
元禄16年
1703年
4,336
天保14年
1843年
5,964
明治6年 (総数)
1873年
11,103
(典拠は『浜松市史』)
横須賀 (遠江横須賀)
寛文年中(1670年頃)の町方人口は2959人(典拠は『横須賀町史』)。明治6年(1873年)の人口は5516人。
府中 (駿府, 静岡)
徳川家康 在城当時は約10万人と伝えられているが、城主が居ない時代は人口約2万人の地方都市となった。慶応4年(1868年)に徳川家達 が静岡藩(同年駿府は静岡 に改名)に封じられると、幕臣の移住とともに人口が増加した。
元号
西暦
町方人口
元禄5年
1692年
17,067
正徳5年
1715年
15,527
享保7年
1722年
17,090
宝暦12年
1762年
16,163
天保14年
1843年
14,071
嘉永3年
1850年
15,724
明治6年 (総数)
1873年
31,555
(典拠は『静岡市史』、『東海道駿府城下町』、『東海道宿村大概帳』)
甲府
明治5年の人口は士族684人、卒族515人、僧尼208人、神官46人、平民1万4173人を含む。
元号
西暦
町方合計
下府中
(23町)
上府中
(26町)
寛文10年
1670年
12,772
10,442
2,352
元禄2年
1689年
14,334
元禄10年
1697年
13,539
11,005
2,534
宝永2年
1705年
12,699
10,348
2,351
宝永7年
1710年
13,306
享保9年
1724年
9,290
文化3年
1806年
9,566
7,304
2,262
元治元年
1864年
11,071
9,153
1,918
明治5年 (総数)
1872年
15,626
11,789
3,837
明治6年 (総数)
1873年
15,529
(典拠は『甲府略志』)
三島
元号
西暦
町方人口
延宝8年
1680年
3,814
貞享5年
1688年
4,370
宝暦9年
1759年
4,228
文化8年
1811年
4,232
文化9年
1812年
4,320
天保14年
1843年
4,048
慶応3年
1867年
4,514
明治6年 (総数)
1873年
4,813
(典拠は『三島市誌』)
小田原
元号
西暦
総数
武家(士族)
町方合計
家持
店借
元禄16年
1703年
9,922
寛保3年
1743年
7,355
5,333
2,022
享和3年
1803年
5,573
天保14年
1843年
5,404
安政6年
1859年
5,898
明治5年
1872年
13,306
5,619
7,687
明治6年
1873年
12,710
(典拠は『小田原市史』、『明治小田原町誌』、『神奈川県史』、内田哲夫 『小田原藩の研究』)
浦賀 ・三崎
享保年中(1725年頃)の西浦賀は600軒余、東浦賀は390軒余、三崎町は580軒余。慶応4年(1868年)の西浦賀家数は897軒(寺院4ヶ寺、庵2軒、堂2軒、役人8軒を含む)、東浦賀家数は551軒(寺院8ヶ寺、役人6軒を含む)。明治6年(1873年)の三崎の人口は3417人。
元号
西暦
総人口
西浦賀
東浦賀
合計
町方・僧尼
奉公人等
嘉永4年
1851年
4,185
3,762
423
嘉永5年
1852年
4,285
3,864
421
安政元年
1854年
3,585
3,180
405
安政2年
1855年
3,715
3,314
401
安政3年
1856年
3,697
3,321
376
安政4年
1857年
3,821
3,422
399
安政5年
1858年
3,853
3,460
393
安政6年
1859年
3,778
3,386
392
安政7年
1860年
3,696
3,324
372
文久元年
1861年
3,822
3,448
374
明治元年
1868年
3,838
3,576
262
明治2年
1869年
4,824
4,463
361
明治3年
1870年
6,922
4,638
2,284
明治6年
1873年
6,490
4,110
2,380
(典拠は『新横須賀市史』)
江戸
江戸の人口 の項を参照。
忍 (行田 )
享保6年(1721年)の忍の町方人口は3049人(典拠は『行田市史』)。明治6年(1873年)の成田町、行田町の人口は合算して7224人。
岩槻
元号
西暦
町方人口
宝永6年
1709年
4,186
延享3年
1746年
3,687
安永3年
1774年
3,666
天保14年
1843年
3,378
弘化4年
1847年
3,676
明治6年 (総数)
1873年
5,077
(典拠は『岩槻市史』、『日光御成道宿村大概帳』)
品川
元号
西暦
町方合計
南品川宿
漁師町
北品川宿
歩行新宿
享和2年
1802年
6,120
文政11年
1828年
6,290
2,005
525
1,996
1,764
天保14年
1843年
6,890
2,176
469
2,650
1,595
慶応2年
1866年
7,554
2,293
655
2,513
2,093
明治6年 (総数)
1873年
10,293
(典拠は『品川区史』)
川越
明治2年(1869年)の川越在中家中人口は3885人。
元号
西暦
町方合計
川越十ヵ町
郷分町
元禄11年
1698年
5,946
2,824
3,122
慶応3年
1867年
4,486
明治6年 (総数)
1873年
9,357
(典拠は『川越市史』)
熊谷
元号
西暦
町方人口
寛文12年
1800年
3,276
天保13年
1842年
3,193
天保14年
1843年
3,263
明治2年 (総数)
1869年
5,552
明治4年 (総数)
1871年
4,477
明治6年 (総数)
1873年
4,171
(典拠は『熊谷市史』、『中山道宿村大概帳』)
八王子
元号
西暦
合計
横山・八日市
八王子十三組
元禄15年
1702年
3,448
1,377
2,071
正徳5年
1715年
3,880
享保5年
1720年
3,849
1,417
2,432
元文5年
1740年
1,512
寛保3年
1743年
2,587
延享4年
1747年
2,576
宝暦6年
1756年
3,954
1,408
2,546
宝暦12年
1762年
3,872
天保8年
1837年
5,457
2,323
3,134
天保14年
1843年
6,026
嘉永5年
1852年
6,376
3,037
3,339
文久2年
1862年
7,506
3,045
4,461
明治6年 (総数)
1873年
7,675
(典拠は『八王子市史』、光石知恵子 『江戸時代の八王子の人口』)
神奈川
元号
西暦
町方人口
享保年中
1725年頃
4,817
天保14年
1843年
5,793
慶応3年
1867年
4,279
明治3年 (総数)
1870年
4,631
明治5年 (総数)
1872年
8,891
明治6年 (総数)
1873年
10,660
(典拠は『横浜市史』)
横浜
文禄4年(1595年)の戸数は13戸、天保11年(1840年)の戸数は88戸で推定人口約450人(典拠は『横浜市史』)。神奈川の代替として安政6年旧暦6月2日(1859年7月1日)に開港してから急速に発達し、明治6年(1873年)の人口は6万4602人。
真倉 (館山 )
館山三町、四ヶ浦、四村から成る。
元号
西暦
真倉村
合計
館山三町
四ヶ浦
四村
享保9年
1724年
1,759
847
912
寛政5年
1793年
2,211
670
820
721
天保9年
1838年
3,015
845
1,365
805
明治6年
1873年
2,588
(典拠は『千葉県史料』)
大多喜
ロドリゴ・デ・ビベロの手記によると1609年頃の大多喜の人口は1万2000人。享保年中(1725年頃)の大多喜城下七カ町の町屋屋敷は、柳原町を除いて335軒。寛政5年(1793年)の町屋屋敷は442軒(典拠は『大多喜町史』)。明治6年(1873年)の大多喜駅の人口は2882人(『共武政表』)。
古河
元号
西暦
町方人口
宝暦8年
1758年
5,583
宝暦13年
1763年
5,121
天保14年
1843年
3,865
明治6年 (総数)
1873年
9,343
(典拠は『古河市史』、『日光道中宿村大概帳』)
船橋
元号
西暦
合計
九日市町
五日市町
海神村
寛政5年
1793年
2,120
寛政12年
1800年
5,074
2,381
1,765
928
明治6年 (総数)
1873年
9,494
(典拠は『船橋町誌』)
結城
元号
西暦
町方人口
元禄7年
1694年
4,878
元禄13年
1703年
4,485
宝暦元年
1751年
4,518
宝暦2年
1752年
4,532
宝暦3年
1753年
4,662
宝暦4年
1754年
4,787
宝暦5年
1755年
4,807
宝暦6年
1756年
4,856
宝暦7年
1757年
4,859
宝暦8年
1758年
4,805
宝暦9年
1759年
4,751
宝暦10年
1760年
4,766
宝暦11年
1761年
4,812
宝暦12年
1762年
4,807
宝暦13年
1763年
4,776
明和元年
1764年
4,771
明和2年
1765年
4,814
明和3年
1766年
4,843
明和4年
1767年
4,913
明和5年
1768年
4,796
明和6年
1769年
4,858
明和7年
1770年
4,883
明和8年
1771年
4,905
安永元年
1772年
4,968
安永2年
1773年
4,807
安永3年
1774年
4,770
安永4年
1775年
4,803
安永5年
1776年
4,829
安永6年
1777年
4,784
安永7年
1778年
4,792
安永8年
1779年
4,774
安永9年
1780年
4,760
天明元年
1781年
4,735
天明2年
1782年
4,657
文政6年
1823年
3,247
文政7年
1824年
3,290
天保13年
1842年
3,715
明治6年 (総数)
1873年
5,654
(典拠は『結城市史』)
佐倉
家中人口は安永8年(1779年)に426人、文久3年(1863年)に860人。
元号
西暦
町方人口
寛延4年
1751年
3,046
宝暦5年
1755年
3,111
元治元年
1864年
3,521
明治6年 (総数)
1873年
6,681
(典拠は『佐倉市史』)
飯沼 (本銚子 )
明治6年(1873年)の人口は飯沼(後の本銚子町)と新生、荒野、今宮の3村(後の銚子町)を含む。
元号
西暦
在方人口
享保5年
1720年
5,849
延享4年
1747年
6,291
宝暦2年
1752年
7,409
宝暦5年
1755年
7,193
明治6年 (総数)
1873年
17,688
(典拠は『銚子市史』)
土浦
元号
西暦
町方人口
享保6年
1721年
2,286
元文5年
1740年
2,401
天明6年
1786年
3,988
天保10年
1839年
5,098
天保14年
1843年
4,765
明治元年
1868年
5,759
明治6年 (総数)
1873年
7,788
(典拠は『土浦市史』)
水戸
延宝8年(1680年)の町屋戸数は1777戸、武家戸数は1499戸。
元号
西暦
町方人口
元禄15年
1702年
12,964
享保11年
1726年
10,991
明和5年
1768年
8,385
天明3年
1783年
7,834
寛政6年
1794年
7,364
寛政10年
1798年
7,200
明治6年 (総数)
1873年
19,010
(典拠は『水戸市史』)
那珂湊 (ひたちなか )
元号
西暦
湊村町方
元禄10年
1697年
6,120
正徳3年
1713年
6,931
享保4年
1719年
6,309
宝暦13年
1763年
5,339
明和6年
1769年
4,833
安永3年
1774年
4,817
寛政2年
1790年
4,456
寛政9年
1797年
3,934
享和2年
1802年
4,030
文政年中
1825年頃
4,030
文政10年
1827年
4,559
文政12年
1829年
4,400
天保9年
1838年
4,694
安政元年
1854年
5,734
明治6年 (総数)
1873年
8,254
(典拠は『那珂湊市史』)
大津
明治6年(1873年)の人口は五別所村を含む。
元号
西暦
町方人口
元禄4年
1691年
18,774
元禄12年
1699年
17,810
正徳4年
1714年
17,568
享保4年
1719年
17,481
明和3年
1766年
16,072
天明3年
1783年
14,950
天保14年
1843年
14,892
明治6年 (総数)
1873年
17,924
(典拠は『新修大津市史』、『大津市志』)
坂本
明治6年(1873年)の上坂本村の人口は『共武政表』による。
元号
西暦
合計
上坂本
下坂本
享保17年
1732年
4,543
2,492
2,040
天保5年
1834年
1,608
天保11年
1840年
1,907
明治6年 (総数)
1873年
2,838
(典拠は『新修大津市史』)
膳所
貞享2年(1685年)の膳所は侍屋敷499戸、町屋409戸、寺22戸の合計930戸。元禄14年(1701年)は侍屋敷461戸、町屋502戸、出屋敷180戸、寺23戸の合計1166戸。
元号
西暦
町方人口
貞享2年
1685年
3,092
正徳4年
1714年
3,284
明治6年 (総数)
1873年
6,371
(典拠は『新修大津市史』)
八幡 (近江八幡 )
元号
西暦
町方人口
延宝8年
1680年
7,180
宝永7年
1710年
7,774
享保6年
1721年
7,568
享和3年
1803年
7,501
文政13年
1830年
7,080
天保9年
1839年
6,755
慶応4年
1868年
5,629
明治6年 (総数)
1873年
5,893
(典拠は『滋賀県八幡町史』)
彦根
元禄8年(1695年)の推定武家人口は1万9000人、寺社人口を含む推定総人口は3万6000人。
元号
西暦
町方人口
元禄8年
1695年
15,505
享和年中
1802年頃
15,675
明治2年
1869年
13,162
明治6年 (総数)
1873年
24,368
(典拠は『彦根市史』)
大垣
享保6年(1721年)の社人・僧侶は合計240人。天保8年(1837年)の宿役人、町役人、人足は合計112人。『美濃路宿村大概帳』による宿内の人口は5136人。
元号
西暦
町方人口
享保6年
1721年
5,543
天明5年
1785年
5,343
天保8年
1837年
5,522
天保14年
1843年
5,097
明治6年 (総数)
1873年
10,158
(典拠は『大垣市史』)
岐阜
明治6年(1873年)の人口は今泉村を含む。
元号
西暦
町方人口
明暦年中
1655年頃
5,299
享保6年
1721年
5,884
明治6年 (総数)
1873年
10,800
(典拠は『岐阜市史』)
高山 (飛騨高山)
一之町村、二之町村、三之町村の合計。
元号
西暦
総数
三ヵ町合計
元禄8年
1695年
3,757
正徳5年
1715年
6,942
享保18年
1733年
7,434
延享元年
1744年
7,212
天保13年
1842年
9,237
明治6年
1873年
13,081
11,180
(典拠は『岐阜県史』)
松本
享保10年(1725年)の武家・給人人口は6292人、他に江戸藩邸在府の者1300人、元治元年(1864年)の武家・給人人口は5284人であり、推定総人口は約1万5000人。
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
延宝2年
1674年
8,620
寛政10年
1798年
8,967
天保3年
1832年
9,805
享保5年
1720年
8,206
享和2年
1802年
9,174
天保6年
1835年
9,923
享保7年
1722年
8,273
文化元年
1804年
9,117
天保8年
1837年
9,786
享保8年
1723年
8,073
文化6年
1809年
9,929
天保11年
1840年
9,081
享保10年
1725年
8,206
文化13年
1816年
10,006
天保13年
1842年
9,077
享保17年
1732年
9,578
文化14年
1817年
10,047
弘化2年
1845年
9,535
宝暦5年
1755年
9,173
文政2年
1819年
9,919
嘉永3年
1850年
9,891
安永3年
1774年
8,508
文政7年
1824年
9,990
嘉永7年
1854年
9,800
天明8年
1788年
8,541
文政9年
1826年
9,770
安政2年
1855年
9,052
寛政7年
1795年
8,709
文政11年
1828年
9,892
元治元年
1864年
9,440
寛政8年
1796年
8,774
文政12年
1829年
9,821
明治6年 (総数)
1873年
14,275
(典拠は『松本市史』、『信府統記』)
飯田
明治6年(1873年)の人口は今泉村を含む。
元号
西暦
町方人口
天和2年
1682年
4,082
宝永2年
1705年
4,483
宝暦4年
1754年
5,282
安永10年
1781年
5,830
寛政10年
1798年
5,816
文政10年
1827年
6,145
明治6年 (総数)
1873年
8,944
(典拠は『長野県史 』)
善光寺町 (長野 )
元号
西暦
善光寺領
(総人口)
被官・町年寄・
僧・神官
寺社方
(俗)
八町
三ヵ村
穢多・非人
享保6年
1721年
5,049
享保17年
1732年
5,693
延享元年
1744年
5,562
宝暦12年
1762年
6,285
明和元年
1764年
7,009
405
1,082
4,204
929
85
明和5年
1768年
6,504
安永3年
1774年
6,382
安永9年
1780年
6,574
文化5年
1808年
7,567
388
1,136
5,105
958
67
文化7年
1810年
7,567
文政5年
1822年
7,838
5,289
文政11年
1828年
8,048
天保11年
1840年
7,108
安政5年
1858年
7,639
342
1,242
4,972
1,083
元治元年
1864年
7,725
373
1,149
4,990
1,077
136
明治6年
1873年
6,928
(典拠は『長野県史』、『長野市史』)
松代
寛文11年(1671年)の松代町方は389軒。
元号
西暦
町方人口
明和4年
1767年
2,319
安政7年
1860年
2,786
明治6年 (総数)
1873年
7,976
(典拠は『長野県史』)
上田
元号
西暦
町方人口
寛文3年
1663年
2,610
宝永3年
1706年
3,068
宝永7年
1710年
2,424
享保11年
1726年
2,714
宝暦5年
1755年
2,609
天明5年
1785年
2,180
文政5年
1822年
2,090
弘化2年
1845年
2,257
安政5年
1858年
2,610
明治元年
1868年
2,583
明治6年 (総数)
1873年
6,019
(典拠は『上田市史』、『長野県史』)
小諸
宝暦10年(1725年)の町方人口は3849人(典拠は近松鴻二(1999年)[ 49] )。明治6年(1873年)の人口は6152人。
高崎
天保14年(1843年)の宿内のみの人口は3235人(『中山道宿村大概帳』)。明治2年(1869年)の東京在勤藩士は618人。
元号
西暦
合計
(総数)
藩士
町方人口
その他
貞享4年
1687年
5,734
享保5年
1720年
5,735
明和年中
1770年頃
7,830
天明4年
1784年
6,458
享和元年
1801年
6,516
明治2年
1869年
10,632
2,183
8,306
143
明治6年
1873年
11,285
(典拠は『高崎市史』)
前橋 (厩橋)
文化10年(1813年)から文政6年(1823年)の間は向町外四町が町分を脱退している。天保9年(1838年)の扶持遣候者は1200軒であることより、藩主在城中の推定総人口は1万1000人(町方5000人、武家6000人)。
元号
西暦
合計
町方
寺社
元号
西暦
合計
町方
寺社
寛政元年
1789年
4,388
4,280
108
文政12年
1829年
3,914
寛政2年
1790年
4,308
4,207
101
文政13年
1830年
3,952
寛政3年
1791年
4,386
4,288
98
天保2年
1831年
3,926
寛政4年
1792年
4,429
4,332
97
天保3年
1832年
3,964
3,907
57
寛政7年
1795年
4,395
天保5年
1834年
3,931
寛政8年
1796年
4,404
天保6年
1835年
3,912
3,855
57
寛政9年
1797年
4,489
天保7年
1836年
3,880
3,826
54
寛政10年
1798年
4,613
4,502
111
天保8年
1837年
3,723
3,671
52
文化5年
1808年
4,424
天保10年
1839年
3,675
3,621
54
文化6年
1809年
4,532
4,444
88
天保11年
1840年
3,628
3,581
47
文化7年
1810年
4,518
4,430
88
天保12年
1841年
3,601
文化8年
1811年
4,464
4,376
88
天保13年
1842年
3,709
3,667
42
文化9年
1812年
4,494
4,407
87
天保14年
1843年
3,718
3,680
38
文化10年
1813年
4,422
天保15年
1844年
3,967
3,925
42
3,262
嘉永元年
1848年
4,787
文化11年
1814年
3,325
3,261
64
嘉永2年
1849年
4,975
4,900
75
文化12年
1815年
3,275
3,210
65
嘉永6年
1853年
4,938
文化13年
1816年
3,304
嘉永7年
1854年
5,037
4,980
57
文化14年
1817年
3,317
3,261
56
明治6年 (総数)
1873年
15,063
(典拠は『前橋市史』)
沼田
元号
西暦
町方人口
寛保2年
1742年
3,503
寛延元年
1748年
3,076
明治6年 (総数)
1873年
3,828
(典拠は『沼田市史』)
桐生
元号
西暦
桐生新町
町方
明暦3年
1657年
508
寛文13年
1673年
750
寛保2年
1742年
1,279
宝暦7年
1757年
1,482
寛政3年
1791年
2,256
文政2年
1819年
3,353
安政2年
1855年
4,092
明治6年 (総数)
1873年
3,894
(典拠は『桐生市史』)
館林
元号
西暦
町方人口
延宝2年
1674年
3,739
享保13年
1728年
4,945
文政2年
1819年
3,355
天保7年
1836年
3,259
弘化3年
1846年
3,205
安政6年
1859年
4,161
明治2年
1869年
4,432
明治6年 (総数)
1873年
9,007
(典拠は『桐生市史』)
足利
足利町は、本町、新田上町、新田下町、横町を含む。『日本地誌提要』による明治6年(1873年)の足利の人口は2124人で、足利本町のみの人口と思われる。
元号
西暦
合計
足利町方
学校領
鑁阿寺 領
五箇村
享保19年
1734年
4,438
2,702
231
563
942
安政2年
1855年
5,875
3,373
285
831
1,386
明治4年
1870年
6,766
4,161
826
1,779
(典拠は『足利市史』)
押原 (鹿沼 )
元和8年(1622年)の戸数は、東田町67軒、東内町86軒、西田町47軒、西内町53軒の合計253軒。延宝元年(1675年)は538軒。明治6年(1873年)の人口は『共武政表』による。
元号
西暦
町方合計
押原西町
押原東町
享保10年
1725年
1,491
享保14年
1729年
1,175
延享元年
1744年
1,674
宝暦7年
1757年
1,530
安永5年
1776年
2,412
享和2年
1802年
2,762
1,506
1,256
文化2年
1805年
2,676
文政11年
1828年
2,676
天保9年
1838年
2,851
天保14年
1843年
2,844
嘉永4年
1851年
3,362
明治6年 (総数)
1873年
4,202
(典拠は『栃木県史』、『壬生通宿村大概帳』)
宇都宮
天保14年(1843年)の宿内のみの人口は6457人(『日光道中宿村大概帳』)。
元号
西暦
町方人口
元禄8年
1695年
9,744
明和8年
1771年
8,254
天保7年
1836年
9,569
明治6年 (総数)
1873年
15,061
(典拠は『栃木県史』、『宇都宮史勢概要』)
烏山
元号
西暦
町方人口
元禄16年
1703年
2,322
享保元年
1716年
2,500
享保11年
1726年
2,087
享保16年
1731年
1,784
安永9年
1780年
2,400
安政3年
1856年
1,510
元治元年
1864年
1,533
慶応元年
1865年
1,512
明治6年 (総数)
1873年
2,435
(典拠は『烏山町史』)。
白河
元禄5年(1692年)の城下町の構成は、家中1237軒、寺社315軒。
元号
西暦
町方人口
寛文5年
1665年
7,544
寛文7年
1667年
6,823
元禄7年
1694年
7,424
元禄11年
1698年
6,911
元禄14年
1701年
6,486
元禄15年
1702年
6,521
文政元年
1818年
6,293
文政5年
1822年
8.727
文政6年
1823年
6,458
天保14年
1843年
5,959
明治6年 (総数)
1873年
7,250
(典拠は『白河市史』、『奥州道中宿村大概帳』、『福島県史』)。
平
元号
西暦
合計
家中
町方
寺社門前
正徳元年
1711年
8,279
4,456
3,325
498
享保16年
1731年
2,746
明治6年
1873年
4241
(典拠は『いわき市史』)
小名浜
小名浜は米野、中島、中町、西町の4町を含む。
元号
西暦
町方人口
正徳元年
1711年
6,086
享保16年頃
1731年頃
6,147
明治6年 (総数)
1873年
3,079
(典拠は『いわき市史』)
中村
元号
西暦
合計
城下士
小人座掃
常府歩卒
寺社
諸匠人
商人
天和元年
1681年
15,387
10,857
560
801
3,169
宝永6年
1709年
12,749
5,780
2,821
979
2,361
享保2年
1717年
11,691
5,674
700
2,168
894
2,255
延享3年
1746年
7,243
4,282
653
1,786
798
2,130
宝暦11年
1761年
7,688
3,820
496
1,130
648
1,594
明治6年
1873年
1,890
(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』)
若松 (会津若松)
町屋戸口は寛文6年(1666年)に3256軒、寛文9年(1669年)に3515戸、享保20年(1735年)に3380戸、文化4年(1807年)に3028戸。また侍屋敷は会津騒動 以前には443軒だった。
元号
西暦
町方人口
慶安2年
1649年
22,582
寛文6年
1666年
18,435
延宝5年
1677年
20,832
元禄10年
1697年
20,700
延享3年
1746年
16,700
宝暦元年
1751年
16,078
天明7年
1787年
11,700
天明8年
1788年
11,670
文化9年
1812年
10,610
明治6年 (総数)
1873年
20,588
(典拠は『会津藩家世実紀』、『会津鑑』、『若松市史』、『会津若松市史』、『町名の由来:おらが街のミニ歴史』)
郡山 (岩代郡山)
人口は定有人口で、出稼ぎの下男、下女を除く。
元号
西暦
郡山町 合計
郡山上町
郡山下町
貞享4年
1687年
802
元禄2年
1689年
799
元禄7年
1694年
844
元禄8年
1695年
832
宝永6年
1709年
799
宝永7年
1710年
831
享保4年
1719年
797
享保9年
1724年
778
享保14年
1729年
791
享保15年
1730年
789
享保16年
1731年
785
享保17年
1732年
810
享保18年
1733年
792
享保19年
1734年
783
享保20年
1735年
807
元文元年
135年
816
元文3年
1738年
859
元文5年
1740年
868
延享2年
1745年
884
延享5年
1748年
921
天明2年
1782年
2,656
寛政12年
1800年
1,025
享和元年
1801年
1,710
慶応3年
1867年
5,205
明治3年
1870年
2,614
明治6年 (総数)
1873年
4,782
(典拠は高橋美由紀 『在郷町の歴史人口学』、『郡山市史』)
二本松
元号
西暦
町方人口
宝永2年
1705年
4,543
天明8年
1788年
3,118
明治6年 (総数)
1873年
10,435
(典拠は『二本松市史』)
福島 (岩代福島)
元号
西暦
町方人口
元禄16年
1703年
4,261
延享3年
1746年
3,726
天明8年
1788年
3,360
明治6年 (総数)
1873年
5,813
(典拠は『福島県史』)
仙台
最盛期の仙台の総人口は6万人以上と推定されている。
元号
西暦
合計
町方
寺院方
寺院方出家
寺院方俗
寛文8年
1668年
27,702
18,493
9,209
延宝2年
1674年
29,297
20,073
9,224
貞享3年
1686年
25,055
22,501
2,554
元禄8年
1695年
25,590
22,706
2,884
631
2,253
寛保2年
1742年
26,623
20,374
6,249
863
5,386
明和9年
1772年
23,098
20,479
2,619
2,619
天明6年
1786年
15,617
11,610
4,007
594
3,413
享和2年
1802年
17,798
13,302
4,496
652
3,840
文政8年
1825年
18,444
13,749
4,695
710
3,985
嘉永5年
1852年
15,408
明治2年
1869年
22,411
明治6年 (総数)
1873年
51,998
(典拠は『封内風土記』、『宮城県史』、『岩手県史』、『仙台市史』)
塩竈
元号
西暦
町方人口
宝暦12年
1762年
1,952
安永3年
1774年
1,986
明治6年 (総数)
1873年
3,225
(典拠は『塩竈市史』)
石巻
虻田村の人口は、元禄12年(1699年)に1494人、明和3年(1766年)に1632人、安永2年(1773年)に713人(高屋敷を除く)、明治6年(1873年)に2065人。安永2年(1773年)は、石巻村住吉と湊村の統計を欠く。
元号
西暦
合計
石巻村
門脇村
湊村
元禄12年
1699年
7,334
3,713
1,947
1,674
明和3年
1766年
9,799
4,162
2,708
2,929
安永2年
1773年
5,796
2,969
2,827
明治6年 (総数)
1873年
10,325
5,121
2,605
2,599
(典拠は『石巻市史』)
花巻
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
天和3年
1683年
4,654
元文3年
1738年
6,364
宝暦12年
1762年
4,987
天明4年
1784年
4,517
貞享元年
1684年
4,611
元文4年
1739年
6,365
宝暦13年
1763年
4,035
天明5年
1785年
4,565
元禄3年
1690年
4,842
元文5年
1740年
6,268
明和元年
1764年
4,079
天明6年
1786年
4,548
元禄4年
1691年
4,821
寛保元年
1741年
6,193
明和2年
1765年
4,091
天明7年
1787年
4,585
元禄6年
1693年
5,025
寛保2年
1742年
5,881
明和4年
1767年
4,353
天明8年
1788年
4,568
元禄7年
1694年
5,339
寛保3年
1743年
4,757
明和5年
1768年
4,216
寛政元年
1789年
4,598
元禄8年
1695年
5,417
延享2年
1745年
4,894
明和6年
1769年
4,126
寛政2年
1790年
4,586
元禄9年
1696年
4,960
延享3年
1746年
4,890
明和7年
1770年
4,119
寛政3年
1791年
4,595
元禄12年
1699年
5,188
延享4年
1747年
4,780
明和8年
1771年
4,126
寛政4年
1792年
5,406
元禄13年
1700年
5,187
寛延2年
1749年
4,592
安永元年
1772年
4,152
寛政5年
1793年
5,422
元禄14年
1701年
5,278
寛延3年
1750年
4,547
安永2年
1773年
4,138
寛政6年
1794年
5,383
正徳元年
1711年
5,199
宝暦元年
1751年
4,438
安永3年
1774年
4,637
寛政7年
1795年
5,399
正徳2年
1712年
5,261
宝暦2年
1752年
4,513
安永4年
1775年
4,539
寛政8年
1796年
5,376
正徳3年
1713年
5,399
宝暦3年
1753年
4,544
安永5年
1776年
4,538
寛政10年
1798年
5,393
享保3年
1718年
4,974
宝暦5年
1755年
4,563
安永6年
1777年
4,548
享和3年
1803年
5,431
享保5年
1720年
5,055
宝暦6年
1756年
4,753
安永7年
1778年
4,523
天保10年
1839年
5,415
享保12年
1727年
4,866
宝暦7年
1757年
4,453
安永8年
1779年
4,552
天保11年
1840年
5,401
享保18年
1733年
4,857
宝暦8年
1758年
3,691
安永9年
1780年
4,544
明治6年 (総数)
1873年
4,426
享保19年
1734年
4,928
宝暦9年
1759年
3,751
天明元年
1781年
4,550
元文元年
1736年
4,921
宝暦10年
1760年
3,811
天明2年
1782年
4,561
元文2年
1737年
4,327
宝暦11年
1761年
3,863
天明3年
1783年
4,569
(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』)
盛岡
武家人口は盛岡藩全体で2万8000人以上で推移しており、武家・寺社人口を含めた盛岡城下町の最盛期の人口は約4万人以上と推定される。
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
天和3年
1683年
12,324
享保5年
1720年
15,362
宝暦8年
1758年
13,498
天明2年
1782年
16,240
貞享元年
1684年
12,272
享保12年
1727年
16,008
宝暦9年
1759年
14,411
天明3年
1783年
16,258
貞享2年
1685年
12,988
享保18年
1733年
15,368
宝暦10年
1760年
14,661
天明4年
1784年
16,206
貞享4年
1687年
13,167
享保19年
1734年
20,597
宝暦11年
1761年
14,371
天明5年
1785年
16,308
元禄2年
1689年
13,293
元文元年
1736年
16,423
宝暦12年
1762年
12,759
天明6年
1786年
16,289
元禄3年
1690年
13,132
元文2年
1737年
18,059
宝暦13年
1763年
15,133
天明7年
1787年
16,330
元禄4年
1691年
13,200
元文3年
1738年
16,101
明和元年
1764年
15,374
天明8年
1788年
16,292
元禄5年
1692年
13,691
元文4年
1739年
16,125
明和2年
1765年
15,392
寛政元年
1789年
16,338
元禄6年
1693年
13,662
元文5年
1740年
16,191
明和4年
1767年
15,744
寛政2年
1790年
16,416
元禄7年
1694年
14,628
寛保元年
1741年
15,992
明和5年
1768年
15,338
寛政3年
1791年
16,436
元禄8年
1695年
13,678
寛保2年
1742年
16,244
明和6年
1769年
15,258
寛政4年
1792年
17,963
元禄9年
1696年
13,689
寛保3年
1743年
16,234
明和7年
1770年
15,372
寛政5年
1793年
17,987
元禄11年
1698年
13,736
延享2年
1745年
15,907
明和8年
1771年
15,415
寛政6年
1794年
17,886
元禄12年
1699年
14,266
延享3年
1746年
15,897
安永元年
1772年
15,421
寛政7年
1795年
17,917
元禄13年
1700年
14,209
延享4年
1747年
15,967
安永2年
1773年
15,438
寛政8年
1796年
17,887
元禄14年
1701年
14,120
寛延2年
1749年
14,154
安永3年
1774年
16,326
寛政10年
1798年
17,941
宝永元年
1704年
13,676
寛延3年
1750年
15,726
安永4年
1775年
16,237
享和3年
1803年
18,024
宝永2年
1705年
13,857
宝暦元年
1751年
15,838
安永5年
1776年
16,243
天保10年
1839年
17,995
宝永3年
1706年
13,905
宝暦2年
1752年
16,221
安永6年
1777年
16,248
天保11年
1840年
17,966
正徳元年
1711年
15,218
宝暦3年
1753年
16,444
安永7年
1778年
16,226
明治6年 (総数)
1873年
21,306
正徳2年
1712年
14,820
宝暦5年
1755年
16,909
安永8年
1779年
16,253
正徳3年
1713年
15,225
宝暦6年
1756年
15,887
安永9年
1780年
16,238
享保3年
1718年
15,228
宝暦7年
1757年
15,787
天明元年
1781年
16,251
(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』)
郡山 (陸中郡山, 紫波 )
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
天和3年
1683年
2,167
元文3年
1738年
2,507
宝暦12年
1762年
2,317
天明4年
1784年
2,213
貞享元年
1684年
2,113
元文4年
1739年
2,516
宝暦13年
1763年
2,118
天明5年
1785年
2,231
元禄3年
1690年
2,110
元文5年
1740年
2,458
明和元年
1764年
2,167
天明6年
1786年
2,219
元禄4年
1691年
2,073
寛保元年
1741年
2,461
明和2年
1765年
2,157
天明7年
1787年
2,236
元禄6年
1693年
2,161
寛保2年
1742年
2,447
明和4年
1767年
2,275
天明8年
1788年
2,220
元禄7年
1694年
2,234
寛保3年
1743年
2,442
明和5年
1768年
2,129
寛政元年
1789年
2,235
元禄8年
1695年
2,169
延享2年
1745年
2,436
明和6年
1769年
2,169
寛政2年
1790年
2,229
元禄9年
1696年
2,116
延享3年
1746年
2,436
明和7年
1770年
2,173
寛政3年
1791年
2,235
元禄12年
1699年
2,240
延享4年
1747年
2,424
明和8年
1771年
2,157
寛政4年
1792年
2,640
元禄13年
1700年
2,226
寛延2年
1749年
2,361
安永元年
1772年
2,151
寛政5年
1793年
2,648
元禄14年
1701年
2,231
寛延3年
1750年
2,396
安永2年
1773年
2,132
寛政6年
1794年
2,616
正徳元年
1711年
2,164
宝暦元年
1751年
2,394
安永3年
1774年
2,289
寛政7年
1795年
2,627
正徳2年
1712年
2,189
宝暦2年
1752年
2,404
安永4年
1775年
2,252
寛政8年
1796年
2,610
正徳3年
1713年
2,223
宝暦3年
1753年
2,415
安永5年
1776年
2,243
寛政10年
1798年
2,623
享保3年
1718年
2,158
宝暦5年
1755年
2,438
安永6年
1777年
2,245
享和3年
1803年
2,652
享保5年
1720年
2,272
宝暦6年
1756年
2,520
安永7年
1778年
2,227
天保10年
1839年
2,632
享保12年
1727年
2,332
宝暦7年
1757年
2,334
安永8年
1779年
2,254
天保11年
1840年
2,623
享保18年
1733年
2,386
宝暦8年
1758年
1,992
安永9年
1780年
2,248
明治6年 (総数)
1873年
2,522
享保19年
1734年
2,386
宝暦9年
1759年
2,029
天明元年
1781年
2,252
元文元年
1736年
2,446
宝暦10年
1760年
2,026
天明2年
1782年
2,249
元文2年
1737年
2,659
宝暦11年
1761年
2,007
天明3年
1783年
2,255
(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』)
青森
元号
西暦
町方人口
享保12年
1727年
6,381
延享元年
1744年
5,904
寛延3年
1750年
5,163
明和元年
1764年
8,950
安永2年
1773年
9,039
安永3年
1774年
9,031
寛政11年
1799年
6,137
文化2年
1805年
6,491
天保14年
1843年
6,033
嘉永5年
1852年
7,779
明治6年 (総数)
1873年
10,965
(典拠は『青森市沿革史』,『青森市史』)
弘前
武士階級(家中)を含めた弘前の総人口が記録として残っている。
元号
西暦
合計
(総数)
家中
町方
寺社等
元禄3年
1690年
15,890
元禄7年
1694年
17,362
正徳5年頃
1715年頃
13,788
明和元年/2年
1764年/1765年
31,200
14,600
16,600
天明元年
1781年
33,821
16,974
16,847
寛政年中
1795年頃
24,521
12,923
10,814
784
寛政12年
1800年
26,730
文化元年
1804年
14,505
文化7年頃
1810年頃
25,426
14,928
10,498
天保5年
1834年
21,048
天保7年
1836年
35,488
20,480
14,535
473
天保8年
1837年
36,036
21,004
14,540
492
嘉永6年
1853年
37,517
23,431
14,086
安政5年
1858年
14,850
安政6年
1859年
38,595
23,964
14,631
慶応2年
1866年
38,848
21,926
16,061
861
明治3年
1869年
39,568
明治6年
1873年
32,886
(典拠は『弘前市史』、『津軽史事典』)
八戸
寛延2年(1749年)の家中人口は2833人。天明4年(1784年)の家中人口は3015人。
元号
西暦
町方人口
寛延2年
1749年
4,075
天明4年
1784年
4,122
明治6年 (総数)
1873年
9,518
(典拠は『八戸市史』)
三戸
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
天和3年
1683年
1,491
元文3年
1738年
1,746
宝暦12年
1762年
1,825
天明4年
1784年
2,022
貞享元年
1684年
1,454
元文4年
1739年
1,745
宝暦13年
1763年
1,451
天明5年
1785年
2,036
元禄3年
1690年
1,474
元文5年
1740年
1,643
明和元年
1764年
1,459
天明6年
1786年
2,018
元禄4年
1691年
1,480
寛保元年
1741年
1,632
明和2年
1765年
1,453
天明7年
1787年
2,031
元禄6年
1693年
1,491
寛保2年
1742年
1,639
明和4年
1767年
1,519
天明8年
1788年
2,014
元禄7年
1694年
1,485
寛保3年
1743年
1,636
明和5年
1768年
1,864
寛政元年
1789年
2,037
元禄8年
1695年
1,517
延享2年
1745年
1,656
明和6年
1769年
1,876
寛政2年
1790年
2,029
元禄9年
1696年
1,566
延享3年
1746年
1,660
明和7年
1770年
1,891
寛政3年
1791年
2,034
元禄12年
1699年
1,676
延享4年
1747年
1,671
明和8年
1771年
1,911
寛政4年
1792年
2,439
元禄13年
1700年
1,652
寛延2年
1749年
1,597
安永元年
1772年
1,917
寛政5年
1793年
2,446
元禄14年
1701年
1,650
寛延3年
1750年
1,595
安永2年
1773年
1,957
寛政6年
1794年
2,426
正徳元年
1711年
1,654
宝暦元年
1751年
1,568
安永3年
1774年
2,035
寛政7年
1795年
2,435
正徳2年
1712年
1,652
宝暦2年
1752年
1,632
安永4年
1775年
2,016
寛政8年
1796年
2,420
正徳3年
1713年
1,702
宝暦3年
1753年
1,646
安永5年
1776年
2,023
寛政10年
1798年
2,443
享保3年
1718年
1,629
宝暦5年
1755年
1,632
安永6年
1777年
2,031
享和3年
1803年
2,469
享保5年
1720年
1,671
宝暦6年
1756年
1,557
安永7年
1778年
2,043
天保10年
1839年
2,423
享保12年
1727年
1,760
宝暦7年
1757年
1,396
安永8年
1779年
2,071
天保11年
1840年
2,412
享保18年
1733年
1,673
宝暦8年
1758年
1,348
安永9年
1780年
2,062
明治6年 (総数)
1873年
2,986
享保19年
1734年
1,705
宝暦9年
1759年
1,369
天明元年
1781年
2,067
元文元年
1736年
1,771
宝暦10年
1760年
1,432
天明2年
1782年
2,067
元文2年
1737年
1,708
宝暦11年
1761年
1,398
天明3年
1783年
2,071
(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』)
米沢
武家人口は、元禄5年(1692年)に3万1173人(武家を含めた推定総人口は約4万人)、元禄14年(1701年)に2万9960人、安永5年(1776年)に2万4061人、天保11年(1840年)に2万5608人、文久2年(1862年)に3万2036人。
元号
西暦
町方人口
文禄4年
1595年
6,027
元禄5年
1692年
12,129
元禄6年
1693年
12,078
元禄14年
1701年
11,481
安永5年
1776年
16,099
天保11年
1840年
6,667
天保12年
1841年
6,678
天保13年
1842年
6,696
天保14年
1843年
6,717
天保15年
1844年
6,728
弘化2年
1845年
6,761
弘化3年
1846年
6,773
弘化4年
1847年
6,802
嘉永元年
1848年
6,840
嘉永2年
1849年
6,809
嘉永3年
1850年
6,920
嘉永4年
1851年
6,962
嘉永5年
1852年
6,972
嘉永6年
1853年
6,947
嘉永7年
1854年
6,973
安政2年
1855年
6,998
安政3年
1856年
6,871
安政4年
1857年
6,896
安政5年
1858年
6,881
安政6年
1859年
6,888
万延元年
1860年
6,969
文久元年
1861年
6,979
文久2年
1862年
6,943
明治6年 (総数)
1873年
24,945
(典拠は『山形県史』、吉田義信 『置賜民衆生活史』)
山形
最上騒動 の時期の元和8年の町方人口は『義俊家中並寺社方在町分限帳』により、合計の不一致は原文ママ。正保元年(1644年)の城下町の戸数は町方・寺社方2411軒、家中597軒であり、家中1戸当たり7人と仮定すると推定総人口は1万8160人。
元号
西暦
合計
町方
寺社方
元和8年
1622年
19,796
16,055
3,641
正保元年
1644年
13,981
12,092
1,889
元禄10年
1697年
13,507
13,032
475
元文3年
1738年
17,508
延享3年
1746年
12,586
宝暦3年
1753年
15,214
明治6年 (総数)
1873年
17,631
(典拠は『山形の歴史』、『山形市史』、『山形県史』)
新庄
宝永6年(1709年)の町方人口は3439人、家中人口は1,525人(内江戸詰めは50人)(典拠は『最上郡史』)。明治6年(1873年)の人口は8361人。
鶴岡
明和7年(1770年)の庄内藩 家中1万0676人中、鶴ヶ岡城 城下に9206人、酒田の亀ヶ崎城城下に892人、江戸に578人、それぞれ在住した。
元号
西暦
合計
(総数)
家中・給人
町方
寛文7年
1667年
7,837
天和2年
1682年
8,497
元禄7年
1694年
10,197
元禄13年
1700年
10,951
享保10年
1725年
8,102
明和7年
1770年
17,705
9,206
8,499
天保11年
1840年
8,406
明治6年
1873年
24,964
(典拠は『鶴岡市史』)
酒田
元号
西暦
町方人口
慶長17年
1612年
2,182
元和8年
1622年
4,105
天和3年
1683年
12,604
享保10年
1725年
14,580
享保12年
1727年
10,193
明和7年
1770年
14,845
明治6年 (総数)
1873年
18,619
(典拠は『酒田市史』、『鶴岡市史』)
本荘
慶長末(1615年頃)の本荘城下町は武家屋敷約850軒(陪臣50軒、士100軒、足軽小人700軒)、町屋敷約600軒、寺社約20軒、合計約1470軒。元禄6年(1693年)の本荘城下町は武家2363人(給人中小姓721人、歩行並322人、諸奉公人1320人)、町方4560人(出戸町3651人、古雪町909人)、寺水呑門前322人、合計7245人。享保2年(1717年)の本荘城下町は武家奉公人520戸、町家699戸、寺社32戸、合計1251戸(以上典拠は『本荘市史』)。明治6年(1873年)の人口は6423人。
横手
享保7年(1722年)の町方戸数は約4500戸[ 49] 。明治6年(1873年)の人口は8169人。
久保田 (秋田)・湊 (土崎港 )
嘉永3年(1850年)の武家人口は3万5621人。内訳は久保田諸給人(1万5662人)、在々給人(1万1784人)、職人足軽等(8175人)。また久保田・湊諸寺院は973人、久保田在々の僧侶・社人等は6369人。久保田分の穢多・乞食は325人。最盛期の城下町人口は久保田・湊を併せ4万人以上と推定される。明治4年(1871年)に久保田から秋田へ改名する。
元号
西暦
町方合計
久保田町方
湊町方
享保15年
1730年
20,833
15,262
5,571
延享4年
1747年
21,313
宝暦年中
1755年頃
5,935
天保15年
1844年
16,387
11,450
4,937
嘉永3年
1850年
16,990
安政2年
1855年
17,636
安政4年
1857年
17,693
安政6年
1859年
18,082
明治6年 (秋田・土崎湊総数)
1873年
46,677
38,118
8,559
(典拠は『秋田沿革史大成』、『綜合郷土研究』、『土崎港町史』、『秋田県史』)
大館
宝永3年(1706年)の大館は武家442軒、町家409軒で、武家を含めた推定総人口は3700人。
元号
西暦
総数
町方
文化8年
1811年
2,142
文政年中
1825年頃
3,700
安政4年
1857年
3,144
安政6年
1859年
2,832
明治5年
1872年
4,882
明治6年
1873年
7,687
(典拠は『大館市史』)
能代
町方戸数は、元禄7年(1694年)に1032軒、宝永元年(1704年)に1093軒、享保15年(1730年)に1249軒、寛保3年(1743年)に1546軒。
元号
西暦
合計
町方
寺社方
文化年中
1810年頃
8,269
7,998
271
文政13年
1830年
7,042
明治6年 (総数)
1873年
9,174
(典拠は『能代市史稿』)
小浜
元号
西暦
合計
(総数)
家中
町方
寛永17年
1640年
9,712
寛文6年
1666年
8,514
延宝元年
1673年
11,167
延宝7年
1679年
9,197
天和3年
1683年
10,491
元禄6年
1693年
11,094
宝永4年
1707年
10,844
享保20年
1735年
10,146
寛保元年
1741年
10,027
寛保2年
1742年
9,933
宝暦4年
1754年
14,430
4,829
9,601
宝暦6年
1756年
9,692
天明8年
1788年
9,448
文化3年
1806年
10,117
文化5年
1808年
10,156
天保4年
1833年
9,394
天保9年
1838年
10,410
安政5年
1858年
9,394
明治6年
1873年
19,271
(典拠は『福井県史』、『小浜市史』、深井甚三 『近世の地方都市と町人』)
敦賀
元号
西暦
町方人口
寛文3年
1663年
15,101
延宝7年
1679年
11,345
天和元年
1681年
13,568
享保11年
1726年
10,600
享保14年
1729年
11,506
天保11年
1840年
8,900
嘉永7年
1854年
12,296
明治6年 (総数)
1873年
11,476
(典拠は『福井県史』、『敦賀市史』、『敦賀郡誌』)
府中 (武生)
元号
西暦
町方合計
本町十八町
町外十二町
延享元年
1744年
9,464
5,866
3,598
天保8年
1837年
9,299
天保9年
1838年
7,316
明治6年 (総数)
1873年
9,416
(典拠は『福井県史』、『武生市史』)
福井
元号
西暦
合計
(総数)
家中
町方
慶長年中
1610年頃
25,331
正徳2年
1712年
21,393
享保2年
1717年
20,813
享保10年
1725年
21,622
寛延3年
1750年
20,533
天明5年
1785年
21,589
寛政4年
1792年
18,364
弘化2年
1845年
20,269
弘化4年
1847年
32,613
12,832
19,781
明治6年
1873年
39,784
(典拠は『福井県史』、深井甚三 『近世の地方都市と町人』)
丸岡
元禄8年頃(1695年頃)の町方人口は2579人(典拠は近松鴻二(1999年)[ 49] )。明治6年(1873年)の人口は4798人。
三国 (坂井 )
元号
西暦
町方人口
享保10年
1725年
5,300
元治元年
1864年
6,437
明治6年 (総数)
1873年
9,044
(典拠は『三国町史』)
大野
元号
西暦
町方人口
宝暦6年
1756年
5,081
安政2年
1855年
6,085
明治6年 (総数)
1873年
9,052
(典拠は『福井県史』)
勝山
元号
西暦
町方人口
元文3年
1738年
3,144
宝暦6年
1756年
3,286
天明3年
1783年
2,999
寛政元年
1789年
2,645
享和元年
1801年
3,020
文化7年
1810年
3,182
文政11年
1828年
3,796
天保2年
1831年
3,723
天保11年
1840年
3,092
嘉永2年
1849年
3,680
安政5年
1858年
4,031
明治6年 (総数)
1873年
6,388
(典拠は『勝山市史』)
大聖寺 (加賀 )
天明6年(1786年)の町方家数は865軒(典拠は田中善男『大聖寺城下町と町人社会』)、文化元年(1804年)の町方人口は3611人(典拠は『加賀市史』)、明治5年(1872年)の総家数は2058軒(典拠は田中善男『大聖寺城下町と町人社会』)。明治6年(1873年)の戸数・人口は2418戸9416人。
小松 (加賀小松)
元号
西暦
町方人口
享保18年
1733年
10,554
天明5年
1785年
8,971
明治6年 (総数)
1873年
9,970
(典拠は『小松市史』)
金沢
金沢藩は武家人口が城下町に集中しており、最盛期の総人口は11万~12万人と推定される。明治4年(1871年)の人口は士族2万6028人、卒2万6888人、平民6万8810人、元神官139人、寺院1032人、御預人466人を含む。
元号
西暦
町方人口
本町
地子町
旧門前町
寛文4年
1664年
55,106
19,845
35,261
寛文7年
1667年
59,101
19,840
39,261
元禄10年
1697年
68,636
18,949
47,057
2,630
宝永7年
1710年
64,987
文化7年
1810年
56,355
天保9年 (15歳以上)
1838年
35,841
安政4年
1857年
58,506
明治2年
1869年
60,789
明治3年
1870年
56,295
明治4年 (総数)
1871年
123,363
明治6年 (総数)
1873年
109,685
(典拠は土屋敦夫(1979年)[ 50] 、『金沢市史』)
宮腰 (金石 )
寛文3年(1663年)の人口は乞食56人、藤内48人を含む。
元号
西暦
町方人口
寛文3年 (15歳以上)
1663年
4,215
安政5年 (15歳以上)
1858年
5,008
元治元年 (15歳以上)
1864年
5,088
明治6年 (総数)
1873年
9,353
(典拠は『金石町誌』)
所口 (七尾 )
所口の戸数・人口は、寛文6年(1666年)に1428軒7473人、安政3年(1856年)に1883軒(典拠は『七尾市史』)。明治6年(1873年)の人口は8216人。
輪島
輪島の戸数・人口は、享保21年(1736年)に614戸、天明2年(1782年)に795戸、安政4年(1857年)に1806戸6175人(典拠は『輪島町史』)。明治6年(1873年)の人口は7106人。
富山
延宝4年(1676年)の町方人口の内訳は、富山本町の7670人と田地方・船橋町の8540人。明治6年(1873年)の人口は新川郡富山(4万0538人)と婦負郡富山町(4144人)の合計。
元号
西暦
総数
家中
町方
寛文元年
1661年
16,000
延宝4年
1676年
23,903
7,693
16,210
延宝・宝永年間
1700年頃
17,600
宝暦11年
1761年
20,000
文化7年
1810年
34,228
6,840
27,388
天保12年
1841年
26,936
明治6年
1873年
44,682
(典拠は『富山市史』、『富山県史』、深井甚三 『近世の地方都市と町人』)
魚津
元号
西暦
町方人口
享保14年 (15歳以上)
1729年
4,690
天明元年 (15歳以上)
1781年
5,573
天保9年
1838年
8,330
明治6年 (総数)
1873年
10,098
(典拠は『魚津市史』)
高岡 (越中高岡)
元号
西暦
町方人口
元禄10年
1699年
13,085
宝永3年
1706年
13,174
元文3年
1738年
10,038
宝暦12年
1761年
10,681
明和8年
1771年
15,582
天明5年
1785年
15,465
文化13年
1816年
12,037
明治6年 (総数)
1873年
23,724
(典拠は『高岡史料』)
放生津 (新湊)
放生津の家数は元禄3年(1690年)に945軒、安永7年(1778年)に1310軒、文政元年(1818年)に1504軒、文政12年(1829年)に1616軒と増え続けた。江戸末期には近隣の町村まで町並みが広がり、明治2年(1869年)に新湊と改名する。
元号
西暦
合計
放生津町方
新町・三日曽根・ 長徳寺村・荒屋村 ・四日曽根村
天保8年
1837年
12,392
8,058
4,334
安政5年
1858年
7,555
明治6年 (総数)
1873年
18,904
(典拠は『新湊市史』)
氷見
元号
西暦
町方人口
天保8年
1837年
6,708
安政5年
1858年
6,119
明治6年 (総数)
1873年
8,175
(典拠は『富山県史』)
村上
町方人口は神社仏閣と神官・僧侶の数を除く。
元号
西暦
町方人口
天和2年
1682年
8,692
元禄16年
1703年
9,223
宝永7年
1710年
8,758
享保3年
1718年
7,786
享保7年
1722年
6,984
延享3年
1746年
6,646
宝暦5年
1755年
6,511
安永8年
1779年
6,244
天明2年
1782年
6,235
寛政3年
1791年
5,866
寛政7年
1795年
6,207
天保9年
1838年
6,219
弘化3年
1846年
6,563
明治2年
1869年
6,630
明治6年 (総数)
1873年
17,647
(典拠は『新潟県史』、『村上市史』、深井甚三 『近世の地方都市と町人』)
新潟
延宝8年(1680年)、元禄10年(1697年)に家数2500戸と伝えられている。江戸時代後期に北前貿易 で発達し、開港五港の1つとして明治元年旧暦11月19日(1869年1月1日)に開港する。
元号
西暦
町方人口
文政元年
1818年
20,800~20,900
天保14年
1843年
24,431
弘化元年
1844年
22,674
弘化2年
1845年
23,579
弘化3年
1846年
23,758
弘化4年
1847年
24,022
嘉永元年
1848年
24,580
嘉永2年
1849年
25,228
嘉永3年
1850年
25,467
嘉永4年
1851年
25,945
嘉永5年
1852年
26,271
明治6年 (総数)
1873年
33,152
(典拠は『新潟市史』、『新潟県史』)
三条
町方人口は穢多・渡守を含む。
元号
西暦
町方人口
天保8年
1837年
4,340
天保14年
1843年
4,302
天保15年
1844年
4,459
安政6年
1859年
5,428
万延元年
1860年
5,359
明治6年 (総数)
1873年
7,689
(典拠は『三条市史』)
村松
元禄年中(1700年)の村松町は藩士340戸、町方208戸(寺社17軒)、合計548戸。宝暦7年(1757年)の村松町は藩士459戸、町方303戸(寺社17軒)、合計762戸。寛政年中(1795年頃)の村松町は藩士581戸、町方349戸(寺社17軒)、合計930戸(典拠は『村松町史』)。明治6年(1873年)の人口は7182人。
新発田
正徳2年(1712年)は町屋1287戸に対して家中1351戸であり、推定総人口は約1万3200人。文政元年(1818年)は町屋1347戸に対して家中1600戸であり、推定総人口は約1万5000人。
元号
西暦
家中
町方
宝永3年
1706年
3,847
享保元年
1716年
6,121
宝暦11年
1761年
4,088
天宝6年
1835年
7,625
嘉永3年
1850年
6,614
明治3年
1870年
10,468
明治6年 (総数)
1873年
18,312
(典拠は『新発田市史』、『新潟県史』)
出雲崎 ・尼瀬
寛永2年(1625年)の尼瀬町方は143軒、万治3年(1660年)の尼瀬町方は212軒、元禄10年(1697年)の出雲崎町方は388軒、元禄14年の尼瀬町方は288軒。町方人口は寺社人口を含む。明治6年(1873年)の人口は、尼瀬町・井ノ鼻村を合算。
元号
西暦
両町合計
出雲崎町方
尼瀬町方
正徳5年
1715年
4,152
安永6年以前
1770年頃
4,409
2,601
1,808
寛政元年
1789年
3,114
天保9年
1838年
4,734
安政4年
1857年
4,893
明治6年
1873年
8,850
(典拠は『出雲崎町史』)
長岡
正徳2年(1712年)は町屋1287戸に対して家中1351戸であり、推定総人口は約1万3200人。文政元年(1818年)は町屋1347戸に対して家中1600戸であり、推定総人口は約1万5000人。
元号
西暦
町方人口
元禄7年
1694年
5,781
明治2年 (総数)
1869年
16,460
明治6年 (総数)
1873年
24,067
(典拠は『長岡市史』)
柏崎
宝永2年(1705年)の町方人口は5758人(典拠は『新潟県史』)、明治6年(1873年)の人口は1万4081人。
直江津
元号
西暦
町方人口
寛保2年
1742年
3,581
寛政元年
1789年
4,353
天保9年
1838年
5,874
明治6年 (総数)
1873年
5,813
(典拠は『越後頸城郡誌稿』)
高田 (越後高田)
元号
西暦
町方人口
天和元年
1681年
21,567
元禄11年
1698年
17,303
元禄12年
1699年
17,264
元禄13年
1700年
17,118
元禄14年
1701年
17,429
元禄15年
1702年
17,523
元禄16年
1703年
16,376
享保7年
1722年
17,000
寛保元年
1741年
15,832
天保9年
1838年
18,383
天保11年
1840年
18,434
天保14年
1843年
17,906
明治2年
1869年
19,060
明治6年 (総数)
1873年
27,460
(典拠は『高田市史』、『中頸城郡志』)
相川
『佐渡風土記』や『古実略記』などには相川の人口は、慶長18年(1613年)に約10万人、慶長・元和年間または寛永2年(1625年)に21万0572人、元和・寛永年間に約20万人、寛永6年(1629年)に20万0500人などと記載されているものの、これらは佐渡国全域の人口としても多過ぎ信用できない。米消費量や戸数の比較から、最盛期の寛永年間の相川の人口は約3万人と推定される。
元号
西暦
合計
(総数)
役人・寺社
町方
天和元年
1681年
8,238
元禄7年
1694年
14,812
2,363
12,049
明治6年
1873年
12,632
(典拠は『新潟県史』、長谷川利平次 『佐渡金銀山史の研究』)
亀山 (亀岡 )
天保14年(1843年)完成の『桑下漫録』によると亀山周辺の町村方戸数は1245軒推定6225人、内城下町分は推定4500人。城下の士族推定3000人(典拠は『亀岡市史』)。明治6年(1873年)の人口は7029人。
篠山
宝暦10年(1760年)の町方人口は2672人(典拠は『丹波多紀郡明細記』)。明治6年(1873年)の人口は5931人。
福知山
慶安2年(1649年)の町方人口は3157人(典拠は『福知山市史』)。明治6年(1873年)の人口は4893人。
田辺 (丹後田辺, 舞鶴 )
天保9年(1838年)の町方人口は6510人(典拠は近松鴻二(1999年)[ 49] )、明治6年(1873年)の人口は9073人。
宮津
明治2年(1869年)の宮津の寺社人口は92人、家中は3,346人、穢多・非人は109人で、総人口は9715人。
元号
西暦
町方人口
享保3年
1718年
7,231
延享元年
1744年
7,193
明治2年
1869年
6,168
明治6年 (総数)
1873年
9,398
(典拠は『丹後宮津志』)
豊岡
天明8年(1789年)の豊岡町町方人口は3497人(典拠は『豊岡市史』)、明治6年(1873年)の人口は4926人。
出石
元号
西暦
町方人口
明和8年
1771年
5,713
天保11年
1840年
4,383
明治6年 (総数)
1873年
6,796
(典拠は『出石町史』、近松鴻二(1999年)[ 49] )
鳥取
武家人口を含めた推定総人口は約3万5000人。
元号
西暦
町方人口
寛延2年
1749年
13,125
文化7年
1810年
10,228
弘化3年
1846年
11,440
明治6年 (総数)
1873年
20,782
(典拠は『新修鳥取市史』)
米子
元号
西暦
町方人口
寛延2年
1749年
5,677
文化7年
1810年
7,540
弘化3年
1846年
7,675
明治2年 (総数)
1869年
11,574
明治6年 (総数)
1873年
10,237
(典拠は『新修鳥取市史』)
倉吉
元号
西暦
町方人口
寛延2年
1749年
2,928
文化7年
1810年
3,699
弘化3年
1846年
4,424
明治6年 (総数)
1873年
4,809
(典拠は『新修鳥取市史』)
松江
明和4年(1767年)の家中人口は、松江藩 の武家人口1万6484人より江戸定詰1325人を除いたもの。
元号
西暦
合計
(総数)
家中
町方
宝暦11年
1761年
28,564
15,019
13,545
宝暦13年
1763年
29,263
15,268
13,995
明和4年
1767年
29,067
15,159
13,908
天明7年
1787年
31,161
15,635
15,526
天保9年
1838年
36,073
15,567
20,506
明治6年
1873年
37,808
(典拠は『松江市誌』、『節山史料』)
杵築(出雲杵築)・今市・平田 (出雲 )
寛延年中(1750年頃)の杵築社中(出雲大社 境内)の家数は175軒、杵築6ヶ村の家臼は1028軒、合計1203軒。同年の今市の家数は合計769軒(典拠は『出雲市史』)。明治6年(1873年)の杵築の人口は7674人、今市の人口は1703人、平田の人口は3125人。
大森 ・銀山
17世紀初めの『銀山日記』によると、慶長の頃より寛永年中にかけて(17世紀初期)大森の人口は20万人、家数2万6000軒余とあるが、これらは石見国全域の人口としても多過ぎ信用できない。17世紀中頃には、鉱山柵内の「銀山町」と、代官所の置かれた陣屋町の「大森町」という2地区からなる鉱山町が形成される。寛政12年(1800年)の大森町の家数は385軒(武家69軒、社家4軒、寺院13軒、町屋299軒)。
元号
西暦
合計
大森町
銀山町
延宝6年
1678年
1,564
元禄5年
1692年
1,871
元禄15年
1702年
2,307
686
1,621
元文5年
1740年
1,467
延享4年
1747年
1,173
文化12年
1815年
1,657
天保9年
1838年
1,242
文久2年
1862年
1,061
明治6年 (総数)
1873年
2,124
1,475
659
(典拠は山陰宗門改帳研究会 『宗門改帳からみる山陰の近世社会 その2』)
浜田
浜田八町町方戸数は享保20年(1735年)に622戸、寛保2年(1742年)に565戸、明和6年(1769年)に569戸、天保7年(1836年)に544戸、嘉永元年(1848年)に597戸(典拠は浜田市誌)。明治6年(1873年)の人口は3943人。
津和野
文化2年(1805年)の津和野藩 家中人口5464人中、江戸在中は272人、廿日市 在中は92人、大坂在中は22人。嘉永4年(1869年)の津和野藩家中人口5296人中、江戸在中は179人、廿日市在中は80人、大坂在中は25人。
元号
西暦
総数
家中
町方
文化2年
1805年
7,618
5,078
2,540
弘化2年
1845年
6,782
4,859
1,923
弘化3年
1846年
6,851
4,902
1,949
嘉永3年
1850年
7,069
5,021
2,048
嘉永4年
1851年
7,050
5,012
2,038
明治6年
1873年
7,088
(典拠は亀井茲建(1932年)[ 51] )
明石
元号
西暦
町方人口
天和3年
1683年
8,415
享保6年
1721年
8,923
明治6年 (総数)
1873年
14,410
(典拠は『兵庫県史』)
姫路
元号
西暦
町方人口
慶安元年
1648年
22,125
慶安2年~寛文7年
1660年頃
22,426
寛文7年
1667年
24,140
天和4年
1684年
21,362
天和2年~宝暦元年
1700年頃
21,526
元禄17年
1704年
22,309
宝永6年
1709年
22,158
享保18年
1733年
22,499
元文5年
1740年
22,256
寛保2年
1742年
20,949
寛延2年
1749年
18,769
宝暦年中
1755年頃
22,390
宝暦10年
1760年
17,034
明和2年
1765年
17,064
明和8年
1771年
16,329
文化6年
1809年
14,725
弘化2年
1845年
13,872
明治6年 (総数)
1873年
24,521
(典拠は『姫陽秘鑑』、三浦俊明 『譜代藩城下町姫路の研究』)
龍野
元号
西暦
町方人口
享保8年
1723年
4,120
天明8年
1788年
4,125
寛政10年
1798年
3,999
天保4年
1833年
3,568
天保13年
1842年
3,383
弘化3年
1846年
3,466
安政3年
1856年
3,475
元治元年
1864年
3,491
明治6年 (総数)
1873年
5,170
(典拠は『龍野市史』)
加里屋 (赤穂 )
元号
西暦
町方人口
宝永3年
1706年
4,744
文政8年
1825年
3,195
天保年中
1840年頃
3,080
明治6年 (総数)
1873年
7,134
(典拠は『赤穂市史』)
津山
享保10年(1725年)編纂の『作州記』によると、寛文年中(1665年頃)の武家人口は1万3321人。元禄の頃の推定人口は約3万人。
元号
西暦
町方人口
寛文年中
1665年頃
14,349
元禄11年
1697年
16,445
元禄12年
1698年
16,579
宝永4年
1707年
11,499
享保11年
1726年
9,991
元文3年
1738年
8,878
宝暦6年
1756年
7,940
明和5年
1768年
7,511
安永7年
1778年
7,281
寛政4年
1792年
6,775
寛政5年
1793年
6,924
文化元年
1804年
6,600
文化13年
1816年
6,861
天保3年
1832年
6,833
天保11年
1840年
6,404
嘉永5年
1852年
7,418
元治元年
1864年
7,881
明治2年
1869年
8,111
明治6年 (総数)
1873年
15,411
(典拠は『岡山県史』)
岡山
宝永4年(1707年)の岡山町中乞食は346人、家中人口は1万0027人(町方・在方帳面記載分1万2170人、他国者431人を加えると2万2628人)、御城女中は70人、寺社方人口は7,932人であり、岡山の推定総人口は約4万5000人。
元号
西暦
合計
町方人口
奉公人等
寛文7年3月
1667年
28,669
寛文7年8月
28,432
寛文8年
1668年
31,850
寛文9年
1669年
28,459
延宝8年
1680年
30,033
天和年中
1682年頃
30,133
宝永4年
1707年
30,635
28,298
2,337
享保2年
1717年
27,950
享保6年
1721年
30,296
享保17年
1732年
27,789
元文3年
1738年
26,349
宝暦3年
1753年
24,556
23,496
1,060
宝暦12年
1762年
24,190
明和3年
1766年
23,512
明和4年
1767年
23,537
明和5年
1768年
24,347
23,574
773
安永元年
1772年
23,096
安永2年
1773年
23,579
22,915
665
安永6年
1777年
23,342
22,728
614
天明3年
1783年
22,811
22,402
409
寛政10年
1798年
21,357
21,218
139
享和2年
1802年
21,212
21,084
128
文化9年
1812年
21,103
21,092
11
天保9年
1838年
20,173
嘉永7年
1854年
20,086
安政5年
1858年
20,101
20,092
9
明治2年
1869年
20,670
明治6年 (総数)
1873年
32,372
(典拠は『岡山市史』、『岡山県史』、金井圓(1953年)[ 52] 、谷口澄夫 『岡山藩政史の研究』)
倉敷
倉敷は天領の「村」として扱われた。
元号
西暦
在方人口
元号
西暦
在方人口
寛文12年
1672年
2,536
寛政4年
1792年
6,897
延宝7年
1679年
2,788
寛政5年
1793年
6,984
延宝8年
1680年
2,746
寛政9年
1797年
6,997
延宝9年
1681年
2,779
文化3年
1806年
7,200
元禄7年
1694年
3,841
文化4年
1807年
7,227
宝永3年
1706年
4,487
文化13年
1816年
7,392
宝永7年
1710年
4,569
文化14年
1817年
7,380
正徳元年
1711年
1,077
文政8年
1825年
7,226
享保11年
1726年
4,816
文政9年
1826年
7,188
享保18年
1733年
5,392
文政13年
1830年
7,124
延享元年
1744年
5,774
天保6年
1835年
7,191
寛延2年
1749年
5,724
天保7年
1836年
7,211
宝暦2年
1752年
5,924
天保9年
1838年
7,987
宝暦4年
1754年
5,850
天保13年
1842年
7,067
宝暦6年
1756年
6,371
弘化2年
1845年
6,788
宝暦12年
1762年
6,617
弘化3年
1846年
6,838
明和元年
1764年
6,696
安政6年
1859年
6,678
明和2年
1765年
6,737
文久2年
1862年
6,477
明和5年
1768年
6,864
元治元年
1864年
6,250
明和7年
1770年
6,910
元治2年
1865年
6,218
安永4年
1775年
6,762
明治3年
1870年
6,446
安永6年
1777年
6,590
明治4年
1871年
6,440
寛政元年
1789年
6,715
明治6年 (総数)
1873年
6,357
(典拠は『倉敷市史』)
松山 (備中松山、高梁 )
元禄7年(1694年)の町方1807軒5603人に対し、武家1974軒推定6048人。
元号
西暦
町方人口
元禄7年
1694年
5,603
延享元年
1744年
3,597
明治6年 (総数)
1873年
5,501
(典拠は『高梁市史』)
福山 (備後福山)
町方人口は寺社を含み、元禄10年、11年頃(1697年、1698年頃)の総人口は2万4786人。
元号
西暦
家中
町方
天和元年
1681年
12,942
元禄10年
1697年
12,989
元禄11年
1698年
11,797
宝永2年
1705年
12,523
安永元年
1772年
12,678
文化7年
1810年
7,900
明治6年 (総数)
1873年
17,643
(典拠は『広島県史』)
鞆町
元号
西暦
町方人口
正徳元年
1711年
7,204
宝暦11年
1761年
5,864
文化年中
1810年頃
4,634
文化13年
1816年
4,794
明治5年 (総数)
1872年
6,003
(典拠は『広島県史』、『福山志料』)
尾道
元号
西暦
町方人口
享保5年
1720年
7,031
享保12年
1727年
6,969
宝暦11年
1761年
8,277
天明6年
1786年
9,331
寛政元年
1789年
8,474
寛政4年
1792年
9,751
文化12年
1815年
9,488
明治6年 (総数)
1873年
9,722
(典拠は『広島県史』)
三原
元号
西暦
町方合計
東町
東地方
西町
西地方
茅町
寺院
寛文11年
1671年
4,139
1,848
2,291
元禄16年
1703年
6,609
正徳2年
1712年
1,890
179
70
正徳5年
1715年
7,104
延享3年 (合計は東西町分のみ)
1746年
4,127
146
宝暦11年 (合計は東西町分のみ)
1761年
4,265
1,706
58
安永元年
1772年
6,067
1,685
118
2,000
1,875
249
140
安永2年
1773年
5,723
1,636
109
1,903
1,723
219
133
安永3年
1774年
1,965
1,431
219
安永9年
1780年
1,722
103
天明5年
1785年
1,916
寛政元年
1789年
1,782
寛政3年
1791年
1,947
享和2年
1802年
1,887
文化6年
1809年
2,052
144
文化12年
1815年
158
104
文政2年
1819年
6,378
2,031
2,112
2,235
文政4年
1821年
2,090
文政10年
1827年
2,110
天保4年
1833年
2,035
天保9年
1838年
4,044
2,326
天保10年
1839年
1,944
143
131
天保12年
1841年
6,353
1,902
1,851
2,326
弘化2年
1845年
2,076
嘉永4年
1851年
1,939
文久3年
1863年
2,060
明治6年 (総数)年
1873年
8,565
(典拠は『三原市史』)
御手洗 (大長村 )
大長村は、御手洗・大長・沖友の三地区からなる。明治6年(1873年)の人口は御手洗港のみ。
元号
西暦
大長村 合計
御手洗 町方
宝永5年
1708年
638
寛保2年
1742年
929
寛延元年
1748年
957
宝暦5年
1755年
1,032
明和5年
1768年
1,543
537
天明3年
1783年
2,523
1,190
享和元年
1801年
2,982
1,570
文政2年
1819年
3,418
嘉永6年
1853年
4,047
明治6年 (総数)
1873年
1,553
(典拠は『広島県史』)
広島
正徳5年(1715年)の町組3958軒、新開組893軒、革組77軒に対して侍屋敷609軒、歩行以下拝領家354軒、小人多長屋等1万1690坪とあり、武家人口を含めた推定総人口は約6万8000人。幕末の推定総人口は約7万~8万人。
元号
西暦
合計
町組
新開地
僧侶
革田・
定非人
寛文3年
1663年
37,212
36,142
1,070
延宝5年
1677年
38,491
31,205
6,201
1,085
正徳5年
1715年
48,351
37,155
10,855
341
延享2年
1745年
33,411
延享3年
1746年
33,191
宝暦10年
1760年
27,987
明和5年
1768年
28,693
安永6年
1777年
27,577
天明5年
1785年
27,230
寛政4年
1792年
48,790
27,695
21,095
寛政10年
1798年
29,116
寛政11年
1799年
29,211
寛政12年
1800年
29,247
文化6年
1809年
29,574
文化7年
1810年
29,631
文化12年
1815年
29,536
文化13年
1816年
28,940
文政5年
1822年
50,092
24,776
23,884
1,432
明治6年 (総数)
1873年
74,305
(典拠は『芸備国郡志』、『新修広島市史』、『広島県史』)
宮島 (安芸宮島、厳島 )
元号
西暦
町方人口
正徳5年
1715年
3,590
延享3年
1746年
3,728
寛政6年
1794年
3,513
文政2年
1819年
3,734
明治2年
1869年
3,712
明治6年 (総数)
1873年
3,594
(典拠は『広島県史』)
竹原下市
元号
西暦
町方人口
享保17年
1732年
4,697
宝暦6年
1756年
4,913
明和4年
1767年
4,614
安永2年
1773年
4,332
天明6年
1786年
4,541
寛政8年
1796年
5,108
享和4年
1804年
4,695
文化7年
1810年
5,148
文政年中
1825年頃
5,172
天保5年
1834年
5,930
嘉永2年
1849年
5,951
慶応2年
1866年
5,772
明治4年
1871年
5,659
明治6年 (総数)
1873年
6,103
(典拠は『広島県史』)
山口
複数の宣教師 の記録により山口は室町時代から安土桃山時代にかけて5万~9万人前後の人口を有していたと推定されているが、江戸時代に入ると萩に城下町が移り、都市規模が大幅に縮小する。寛政4年(1791年)の山口町は町屋敷1685軒に対し侍屋敷数3軒、天保年中(1840年頃)の武家屋敷は185軒(諸士51軒、足軽以下88軒、陪臣46軒)で、推定総人口は6500人。文久3年(1863年)以降再び山口藩の藩庁が置かれる。
元号
西暦
町方人口
寛文7年
1667年
5,300
寛政2年
1790年
5,409
寛政3年
1791年
5,402
寛政4年
1792年
5,337
文政6年
1823年
5,268
文政7年
1824年
5,146
文政8年
1825年
5,311
文政9年
1826年
5,257
天保2年
1831年
5,341
天保3年
1832年
5,220
天保4年
1833年
5,187
天保5年
1834年
5,110
天保6年
1835年
5,176
天保年中
1840年頃
5,710
安政2年
1855年
5,784
安政3年
1856年
5,879
安政4年
1857年
5,908
安政5年
1858年
5,913
文久元年
1861年
5,983
文久2年
1862年
5,952
慶応3年
1867年
5,825
慶応4年
1868年
5,963
明治2年
1869年
6,160
明治6年 (総数)
1873年
9,279
(典拠は『山口県近世史研究要覧』、石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』)
三田尻 (防府 )
三田尻・宮市両町の町方人口。寛政4年(1791年)の三田尻・宮市両町は町屋敷497軒に対し侍屋敷数313軒、天保年中(1840年頃)の武家屋敷は6軒(諸士2軒、陪臣4軒)。
元号
西暦
町方・寺社方 合計
町方
寺社方
旅人
寛政2年
1790年
3,739
3,516
223
224
寛政3年
1791年
3,709
3,478
231
253
寛政4年
1792年
3,778
3,553
225
213
文政6年
1823年
3,586
3,360
226
154
文政7年
1824年
3,551
3,330
221
135
文政8年
1825年
3,651
3,455
196
6
文政9年
1826年
3,590
3,429
161
2
天保2年
1831年
3,589
3,332
257
天保3年
1832年
3,603
3,370
233
天保4年
1833年
3,574
3,340
234
天保5年
1834年
3,725
3,464
261
天保6年
1835年
3,494
3,229
265
天保年中
1840年頃
2,995
安政2年
1855年
3,181
2,966
215
安政3年
1856年
3,167
2,949
218
安政4年
1857年
3,205
2,998
207
安政5年
1858年
3,354
3,096
258
文久元年
1861年
3,254
3,030
224
文久2年
1862年
3,264
3,038
226
文久3年
1863年
3,264
3,037
227
元治元年
1864年
3,181
2,966
215
慶応3年
1867年
3,093
2,900
193
慶応4年
1868年
3,264
3,065
199
明治2年
1869年
3,420
3,202
218
明治6年 (総数)
1873年
4,442
(典拠は『山口県近世史研究要覧』、石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』)
岩国
享保11年(1726年)の町方人口は、錦見町(2969人)、横山の川原町(136人)、川西町(461人)を合わせて3566人(典拠は『岩国市史』)。明治6年(1873年)の岩国の人口は1万1684人(錦見、横山、川原、および武家地区の岩国町の合計)。
萩
元禄7年(1694年)の萩町屋敷3199軒1万3284人、浜崎町屋敷492軒802人に対し侍屋敷1324軒。享保2年(1717年)の萩町屋敷3090軒、浜崎町屋敷490軒合計1万6424人に対し侍屋敷1390軒。宝暦元年(1751年)の萩町方竈数3660軒に対し、18世紀半ばの屋敷方の把握する屋敷数は、諸士中抱居候936ヶ所、足軽以下抱居候269ヶ所、寺社屋敷112ヶ所、御用屋敷45ヶ所。寛政4年(1792年)の萩町屋敷2129軒1万1107人、浜崎町屋敷396軒923人に対し侍屋敷1251軒。明治6年(1873年)の『日本地誌提要』による人口4万5318人は椿郷東分村、椿郷西分村、山田村などの郊外を含んでいると考えられ、萩本町と浜崎から成る萩デルタ地帯の人口は3万0092人(『共武政表』)。
元号
西暦
萩町寺社方・ 浜崎町町方合計
萩・浜崎 町方合計
萩町方
浜崎町方
萩寺社方
萩旅人
万治元年
1658年
8,278
寛文3年
1663年
9,110
8,710
400
元禄7年
1694年
14,086
13,284
802
享保2年
1717年
16,424
延宝3年
1746年
13,177
宝暦6年
1756年
13,114
天明6年
1786年
12,392
寛政2年
1790年
1,702
寛政3年
1791年
12,609
10,848
1,761
869
寛政4年
1792年
12,891
11,107
1,784
923
文政6年
1823年
1,930
文政7年
1824年
13,087
11,183
1,904
963
文政8年
1825年
12,936
11,046
1,890
834
文政9年
1826年
13,839
12,946
10,923
2,023
893
850
天保2年
1831年
2,171
865
天保3年
1832年
13,481
11,316
2,165
654
天保4年
1833年
14,245
13,391
11,196
2,195
854
667
天保5年
1834年
13,727
11,555
2,172
726
天保6年
1835年
13,236
11,051
2,185
724
安政2年
1855年
14,278
13,202
10,832
2,370
1,076
651
安政3年
1856年
14,322
13,231
10,801
2,430
1,091
669
安政4年
1857年
14,330
13,236
10,788
2,448
1,094
703
安政5年
1858年
14,534
13,417
10,972
2,445
1,117
712
文久元年
1861年
13,778
12,718
10,318
2,400
1,060
684
文久2年
1862年
13,441
12,372
10,024
2,348
1,069
695
元治元年
1864年
9,811
87
525
慶応3年
1867年
12,713
11,795
9,397
2,398
918
553
慶応4年
1868年
12,561
11,666
9,270
2,396
895
600
明治2年
1869年
12,699
11,827
9,429
2,398
872
639
明治6年 (総数)
1873年
45,318
(典拠は『山口県史』、『萩市誌』、石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』)
赤間関 (下関 )
ケンペル の『日本誌 』によると元禄4年(1691年)の戸口は400~500軒、長久保赤水 の『長崎行役日記』によると明和4年(1767年)の戸口は数千軒。江戸時代の赤間関の人口は長府(後の豊浦)藩領の赤間関12町のみであり、萩(長州)藩領の今浦・新地、清末藩領の竹崎・伊崎を除く。また天保9年の人口は阿弥陀寺町分の人口を欠く。
元号
西暦
町方人口
元禄7年
1694年
5,229
寛政4年
1792年
8,299
天保9年
1838年
6,644
明治6年 (総数)
1873年
18,500
(典拠は『下關二千年史』、『下関市史』、『天保九年赤間関人別帳』)
和歌山
享保13年(1728年)の数字は、和歌山藩の総人口(33万6119人)が元禄12年(1699年)と同一であり、元禄13年(1700年)の誤記である可能性が高い。武家人口を含めた推定総人口は約7万~8万人。宝暦3年(1753年)の町湊家数は4940軒。弘化3年(1846年)の竈数は7910。
元号
西暦
若山町中
元禄12年 (8歳以上)
1699年
42,314
享保13年 (全年齢?)
1728年
57,005
弘化3年 (8歳以上)
1846年
25,469
明治6年 (総数)
1873年
61,124
(典拠は『南紀徳川史』、『和歌山県史』、『和歌山市史』)
田辺 (紀伊田辺)
江戸時代の田辺の人口統計は、特に記載がないものも全て8歳以上対象と推定される。延享3年(1746年)の城下町は756軒で、家中27軒、与力36軒、足軽60人、寺14ヵ寺を含む。
元号
西暦
合計
田辺城下
江川
水主
寛文7年
1667年
4,049
2,516
1,483
50
享保10年
1725年
3,534
2,720
814
延享3年 (8歳以上)
1746年
3,084
2,413
671
寛政12年
1800年
3,177
享和元年
1801年
3,230
文政3年 (8歳以上)
1820年
3,644
天保9年 (8歳以上)
1838年
3,786
明治元年
1868年
3,258
明治6年 (総数)
1873年
7,485
(典拠は『田辺市史』、『和歌山県史』)
洲本
宝暦年中(1755年頃)の町方人口は4171人(典拠は近松鴻二(1999年)[ 49] )。明治6年(1873年)の人口は7267人。
徳島
元号
西暦
町方人口
寛文10年
1670年
18,826
貞享2年
1685年
20,590
明治6年 (総数)
1873年
48,861
(典拠は『阿波藩民政資料』、『阿波誌』)
高松
元号
西暦
合計
(総数)
家中
町方合計
町中
東浜・西浜
・西通町・
田町・松島
寛永19年
1642年
12,943
寛文7年
1667年
24,243
19,726
4,517
天保9年
1838年
30,195
5,273
24,922
明治6年
1873年
32,736
(典拠は『高松市史』)
丸亀
寛文末年の丸亀町の人口は5158人、三浦の人口は2027人。
元号
西暦
合計
(総数)
家中
町・三浦
合計
寛文末年
1670年頃
7,185
貞享4年
1687年
8,567
天保9年
1838年
8,457
安政5年
1858年
8,749
文久2年
1862年
15,610
7,002
8,608
明治6年
1873年
13,875
(典拠は『香川県史』、『新編丸亀市史』)
今治
元号
西暦
町方人口
寛永13年
1636年
3,892
延宝8年
1680年
3,702
享保6年
1722年
4,800
天保9年
1838年
6,032
天保13年
1842年
5,046
明治6年 (総数)
1873年
12,000
(典拠は『愛媛県史』、『新今治市誌』)
松山 (伊予松山)
元号
西暦
町方人口
元禄4年
1691年
16,604
寛政元年
1789年
11,528
文政3年
1820年
11,598
明治6年 (総数)
1873年
26,141
(典拠は『愛媛県史』)
宇和島
武家人口は4300~4900人、幕末には5400~6300人の範囲で推移し、武家を含めた人口は9000~1万2000人(幕末)。
元号
西暦
合計
町方
町方寺中 ・山伏
元号
西暦
合計
町方
町方寺中 ・山伏
元禄3年
1690年
4,850
4,397
453
寛政4年
1792年
3,663
3,311
352
元禄4年
1691年
4,728
4,254
474
寛政5年
1793年
3,741
3,358
383
宝暦11年
1761年
3,802
3,407
395
寛政6年
1794年
3,869
3,464
405
宝暦12年
1762年
3,877
3,473
404
寛政7年
1795年
3,820
3,403
417
明和8年
1771年
4,016
3,614
402
寛政8年
1796年
3,899
3,447
452
安永元年
1772年
4,045
3,636
409
寛政9年
1797年
3,909
3,462
447
安永2年
1773年
3,978
3,579
399
寛政10年
1798年
3,909
3,447
462
安永3年
1774年
3,794
3,372
422
寛政11年
1799年
3,882
3,425
457
安永4年
1775年
3,842
3,431
411
寛政12年
1800年
3,879
3,435
444
安永5年
1776年
3,873
3,464
409
享和元年
1801年
3,906
3,447
459
安永6年
1777年
3,832
3,443
389
享和2年
1802年
3,882
3,424
458
安永7年
1778年
3,873
3,490
383
享和3年
1803年
3,888
3,428
460
安永8年
1779年
3,912
3,532
380
文化元年
1804年
3,839
3,385
454
安永9年
1780年
3,846
3,466
380
嘉永2年
1849年
5,195
4,726
469
天明元年
1781年
3,863
3,499
364
嘉永6年
1853年
5,307
4,833
474
天明2年
1782年
3,836
3,458
378
安政6年
1859年
5,548
5,060
488
天明3年
1783年
3,831
3,449
382
万延元年
1860年
5,581
5,083
498
天明4年
1784年
3,809
3,430
379
文久元年
1861年
5,570
5,070
500
天明5年
1785年
3,699
3,342
357
文久2年
1862年
5,610
5,104
506
天明6年
1786年
3,678
3,319
359
文久3年
1863年
5,465
4,957
508
天明7年
1787年
3,656
3,287
369
元治元年
1864年
5,435
4,923
512
天明8年
1788年
3,631
3,278
353
慶応元年
1865年
5,516
4,982
534
寛政元年
1789年
3,620
3,296
324
慶応2年
1866年
5,624
5,073
551
寛政2年
1790年
3,637
3,295
342
慶応3年
1867年
5,676
5,119
557
寛政3年
1791年
3,693
3,342
351
明治6年 (総数)
1873年
12,209
(典拠は安澤秀一(1980年)[ 53] 。)
高知
家中は侍、郷士、諸奉公人を含む。
元号
西暦
合計
(総数)
家中
町方
寛文5年
1665年
17,054
宝暦12年
1762年
21,351
5,693
14,658
文政2年
1819年
13,985
文政12年
1829年
14,442
天保14年
1843年
15,292
弘化元年
1844年
15,680
弘化2年
1845年
15,846
嘉永6年
1852年
15,895
明治6年
1873年
39,757
(典拠は『高知藩財政史』、『高知市史』)
福岡・博多
福岡藩のもと、那珂川 を挟んで城下町の福岡町と町人町の博多町が整備された。
元号
西暦
博多町方
福岡町方
寛文9年
1669年
17,948
寛文10年
1670年
18,340
寛文11年
1671年
18,608
寛文12年
1672年
18,691
寛文13年
1673年
19,228
元禄3年
1690年
19,468
15,009
宝永7年
1710年
18,777
享保3年
1718年
17,842
13,675
元文2年
1737年
13,469
延享3年
1746年
15,293
延享5年
1748年
15,363
寛延3年
1750年
15,448
宝暦2年
1752年
15,548
宝暦4年
1754年
15,341
文化3年
1806年
7,470
文化9年
1812年
14,619
明治6年 (総数)
1873年
20,985
20,650
(典拠は『福岡県史』)
久留米
宝永3年(1706年)の武家人口は1万2250人、諸寺僧俗人口は268人であり、推定総人口は約2万人。
元号
西暦
町方人口
元禄12年
1699年
8,764
宝永3年
1706年
8,888
安永9年
1780年
7,631
文政5年
1822年
8,632
安政5年
1858年
11,208
明治6年 (総数)
1873年
20,381
(典拠は『久留米市史』)
柳川
柳川藩の武家人口は、宝暦2年(1752年)に1万1918人、文化14年(1817年)に1万5133人、元治元年(1864年)に1万5623人。
元号
西暦
町方・寺社方人口
宝暦2年
1752年
6,643
文化7年
1810年
5,485
文化14年
1817年
7,577
天保11年
1840年
6,595
弘化3年
1846年
6,634
嘉永5年
1852年
6,714
安政5年
1858年
6,805
元治元年
1864年
6,377
明治6年 (総数)
1873年
8,865
(典拠は『福岡県史』)
小倉
宝永5年(1708年)の東西町人口は侍屋敷、組屋舗、寺社町家の人口を含むと思われる。弘化3年(1846年)の家中人口は3099人で、寺社を含む推定総人口は1万4000人。
元号
西暦
町方合計
小倉東町
小倉西町
宝永5年 (総数)
1708年
18,065
13,565
4,500
延享元年
1744年
9,621
文化13年
1816年
9,575
文政8年
1825年
7,443
4,688
2,755
天保9年
1838年
7,700
弘化3年
1846年
10,391
6,777
3,614
慶応2年
1866年
8,931
明治6年 (総数)
1873年
7,459
(典拠は『福岡県史』)
中津
元号
西暦
町方合計
享保6年
1722年
5,166
安政5年
1858年
4,156
慶応3年
1867年
4,186
明治6年 (総数)
1873年
11,538
(典拠は『中津市史』)
杵築 (豊後杵築)
宝暦11年(1761年)の町方280軒1220人、寛政元年(1789年)の町方310軒1127人、天保9年(1838年)の町方480軒1688人に対し、家中屋敷数はどの時期も100余軒。
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
元号
西暦
町方人口
享保6年
1721年
1,293
文化11年
1814年
1,436
天保10年
1839年
1,659
享保16年
1731年
1,280
文化12年
1816年
1,458
天保11年
1840年
1,663
宝暦11年
1761年
1,220
文化14年
1817年
1,494
天保12年
1841年
1,650
天明6年
1786年
1,153
文政元年
1818年
1,513
天保13年
1842年
1,643
寛政元年
1789年
1,127
文政2年
1819年
1,538
天保14年
1843年
1,681
寛政7年
1795年
1,206
文政3年
1820年
1,563
弘化元年
1844年
1,671
寛政8年
1796年
1,210
文政4年
1821年
1,574
弘化2年
1845年
1,694
寛政9年
1797年
1,186
文政5年
1822年
1,587
弘化3年
1846年
1,716
寛政10年
1798年
1,238
文政6年
1823年
1,609
弘化4年
1847年
1,724
寛政11年
1799年
1,243
文政7年
1824年
1,614
嘉永元年
1848年
1,698
寛政12年
1800年
1,263
文政8年
1825年
1,640
嘉永2年
1849年
1,724
享和元年
1801年
1,274
文政9年
1826年
1,704
嘉永3年
1850年
1,698
享和2年
1802年
1,292
文政10年
1827年
1,714
嘉永4年
1851年
1,725
享和3年
1803年
1,301
文政11年
1828年
1,742
嘉永5年
1852年
1,745
文化元年
1804年
1,290
文政12年
1829年
1,753
嘉永6年
1853年
1,722
文化2年
1805年
1,291
天保元年
1830年
1,714
安政元年
1854年
1,719
文化3年
1806年
1,354
天保2年
1831年
1,721
安政2年
1855年
1,723
文化4年
1807年
1,350
天保3年
1832年
1,723
安政3年
1856年
1,714
文化5年
1808年
1,387
天保4年
1833年
1,718
安政4年
1857年
1,738
文化6年
1809年
1,413
天保5年
1834年
1,700
安政5年
1858年
1,724
文化7年
1810年
1,430
天保6年
1835年
1,710
万延元年
1860年
1,722
文化8年
1811年
1,437
天保7年
1836年
1,719
文久元年
1861年
1,729
文化9年
1812年
1,439
天保8年
1837年
1,690
明治6年 (総数)
1873年
4,416
文化10年
1813年
1,440
天保9年
1838年
1,688
(典拠は『大分県史』)
府内 (大分)
僧山伏社人と牢人を含む。武家人口は宝永元年(1704年)に1840人、正徳2年(1712年)に1998人(内、山里200人)
元号
西暦
町組合計
城下四町
西三カ村
東五カ村
僧山伏社人・
牢人合計
宝永4年
1707年
3,486
正徳2年
1712年
14,096
5,501
4,733
3,404
368
延享3年
1746年
3,856
安永9年
1780年
12,132
3,931
4,431
3,556
214
寛政10年
1798年
11,621
3,613
3,591
4,219
198
文化2年
1805年
11,458
3,535
4,089
3,620
214
文化8年
1811年
11,544
嘉永5年
1852年
11,093
明治元年
1868年
11,478
3,377
4,085
4,016
明治6年 (総数)
1873年
6,821
(典拠は『大分県史』、『大分市史』)
臼杵
元号
西暦
町方人口
寛文10年
1670年
2,380
元禄9年
1696年
2,273
元禄16年
1703年
2,373
宝暦2年
1752年
1.878
文化14年
1817年
2,517
明治6年 (総数)
1873年
10,738
(典拠は『臼杵市史』)
佐賀
元号
西暦
合計
(総数)
城下
町屋
貞享4年
1687年
31,450
13,451
17,999
安政元年
1854年
20,084
6,373
13,711
明治6年
1873年
21,660
(典拠は城島正祥(1973年)[ 54] )
島原
元号
西暦
町方人口
寛永15年
1638年
4,851
延宝3年
1675年
6,347
文政6年
1823年
4,436
明治6年 (総数)
1873年
18,682
(典拠は『島原の歴史』)
長崎
江戸時代を通じて出島 で対オランダ貿易が行われた。幕末五港 として開港する。なお元禄9年(1696年)の長崎町方人口を6万4523人とする引用が多いが、おそらく内町の人口(1万1597人)を誤って2度加算した結果であり、実際の人口は5万2926人(元文献は『長崎根元記』)と思われる。
元号
西暦
長崎奉行
管轄地合計
市中人口
(内町・外町)
郷三ヵ村
元和2年
1616年
24,693
万治2年
1659年
40,700
寛文9年
1669年
40,588
寛文12年
1672年
40,025
天和元年
1681年
52,702
元禄2年
1689年
56,336
51,359
4,977
元禄7年
1694年
53,522
元禄9年
1696年
52,926
元禄16年
1703年
50,148
元禄17年
1704年
50,122
正徳5年
1715年
41,553
明和8年
1771年
29,897
安永元年
1772年
30,006
天明8年
1788年
32,364
寛政元年
1789年
31,893
寛政13年
1801年
10,292
文政5年
1822年
29,681
天保9年
1838年
40,019
27,166
12,853
天保12年
1841年
29,962
嘉永6年
1853年
27,343
安政元年
1854年
27,339
安政2年
1855年
27,376
安政3年
1856年
27,381
明治6年 (長崎町総数)
1873年
29,656
旅人の人数は文化14年(1817年)6月に1654人、天保12年(1841年)正月に921人。天明4年(1784年)7月24日の唐人屋敷全焼時に滞在していた唐人は892人。来航外国人延人数は以下の通りである。
元号
西暦
合計
唐人
和蘭人
延人数
船舶
延人数
船舶
延宝7年
1679年
3,379
2,965
(32艘)
414
(4艘)
延宝8年
1680年
2,899
2,483
(31艘)
416
(4艘)
(典拠は『長崎県史』、若松正志(1992年)[ 55] )
大村
文久2年(1862年)の大村城下の給人戸数は2569軒、町方戸数は671軒(典拠は『大村市史』)。明治6年(1873年)の人口は9284人。
唐津
元号
西暦
町方人口
元禄5年
1692年
3,972
寛政元年
1789年
2,807
寛政11年
1799年
2,958
文政元年
1818年
3,000
天保4年
1833年
2,957
天保9年
1838年
3,039
明治3年
1870年
3,246
明治6年 (総数)
1873年
7,987
(典拠は『佐賀県史』)
平戸
寛政4年(1792年)の町方人口は2678人(典拠は近松鴻二(1999年)[ 49] )。明治6年(1873年)の人口は1万0558人。
福江 ・富江 (福江島 )
文政4年(1821年)の福江掛分町方人口は647人。慶応4年(1868年)の富江掛分人口は7216人、内富江村は687人(以上典拠は『長崎県史』)。明治6年(1873年)の旧富江掛分人口は8669人、内富江港は4097人(『共武政表』)。明治6年(1873年)の旧福江掛分人口は1万7787人。
熊本
天保元年(1830年)の武家人口を含めた推定総人口は約6万人。
元号
西暦
町方人口
慶長16年 (家中を含む)
1611年
12,841
延宝・天和年中
1680年頃
24,735
享保19年
1734年
19,939
延享元年
1744年
19,740
寛延3年
1750年
19,331
宝暦4年
1754年
20,881
宝暦6年
1756年
19,459
宝暦12年
1762年
19,781
明和5年
1768年
20,049
安永3年
1774年
19,019
安永9年
1780年
18,296
天明6年
1786年
16,736
寛政4年
1792年
18,864
寛政10年
1798年
18,470
文化元年
1804年
18,358
文化7年
1810年
18,263
文化9年
1812年
16,491
文化13年
1816年
19,504
文政5年
1822年
19,096
文政11年
1828年
19,054
天保元年
1830年
21,300
天保5年
1834年
18,829
天保11年
1840年
19,388
弘化3年
1846年
20,001
安政5年
1858年
22,637
明治6年 (総数)
1873年
44,620
(典拠は『熊本市誌』、『新熊本市史』、鎌田浩『熊本藩の法と政治』)
八代
文化元年(1804年)の城下町屋14箇町の町方戸数は1414軒(典拠は『八代市史』)、安政5年||(1858年)の町方人口は4819人(典拠は鎌田浩『熊本藩の法と政治』)、明治6年(1873年)の人口は9021人。
人吉
延享3年(1746年)の町方人口は3202人(典拠は『人吉市史』)、明治6年(1873年)の人口は3740人。
延岡
元号
西暦
延岡七町 町方
延享4年
1747年頃
2,438
文政11年
1828年
2,436
弘化4年
1847年
2,447
安政6年
1859年
2,345
万延元年
1860年
2,393
文久元年
1861年
2,411
文久3年
1863年
2,384
元治元年
1864年
2,368
慶応元年
1865年
2,314
慶応2年
1866年
2,306
明治6年 (総数)
1873年
6,861
(典拠は八木敏夫 『譜代藩の研究』)
都城
寛永13年(1636年)の都城郷の人口は1万5968人(荘内郷を含む)。明治4年(1871年)の都城郷は、士族5386人、卒族238人、平民7296人で合計1万2920人、荘内郷は、士族5307人、平民6367人で合計1万1674人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[ 56] )。明治6年(1873年)の都城駅の人口は7390人。
飫肥
元号
西暦
町方人口
文政11年
1828年
1,894
天保5年 (総数?)
1834年
6,676
明治2年
1869年
768
明治6年 (総数)
1873年
2,746
(典拠は近松鴻二(1999年)[ 49] 、『宮崎県史』)
加治木
寛永13年(1636年)の加治木郷の人口は1万1038人。明治4年(1871年)の国分郷は、士族3686人、卒族375人、平民5325人で合計9386人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[ 56] )。
国分 (大隅国分, 国府)
寛永13年(1636年)の国分郷の人口は9186人。明治4年(1871年)の国分郷は、士族4538人、卒族129人、旧神官28人、平民1万2441人で合計1万7144人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[ 56] )。
鹿児島
以下の数字は武家人口を含む鹿児島(城下町及び近在)全域の人口であり、実際の城下町の人口は最盛期で諸士・家来人口と三町の町方人口を含む5万~6万人程度と推定される。明治4年の人口は士族2万6992人、卒族2571人、平民5万5872人を含む。明治6年(1873年)の鹿児島郡(鹿児島及び吉田郷)の人口は8万9374人(『共武政表』)。
元号
西暦
総数[ 注 2]
諸士
諸士家来等
出家
三町
横井野町
荒田浜
在郷
穢多・慶賀
貞享元年
1684年
49,096
10,001
享保年中
1725年頃
6,408
明和9年
1772年
59,816
15,176
27,725
318
5,737
104
123
10,382
89
寛政12年
1800年
61,497
15,728
28,113
289
5,185
115
98
11,954
115
文政9年
1826年
72,455
16,794
35,774
315
4,941
153
88
14,285
105
嘉永5年
1852年
76,998
18,171
39,922
303
4,040
129
66
14,281
86
明治4年
1871年
85,435
明治6年 (城下のみ)
1873年
27,240
(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[ 56] 、『鹿児島県史』)
谷山
寛永13年(1636年)の谷山郷の人口は5417人。明治4年(1871年)の谷山郷は、士族3422人、卒族1301人、平民1万6364人で合計2万1087人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[ 56] )。
揖宿 (指宿 )
寛永13年(1636年)の揖宿郷の人口は6244人。明治4年(1871年)の揖宿郷は、士族1074人、平民1万0514人で合計1万1588人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[ 56] )。
鹿籠 (枕崎, 東南方)
寛永13年(1636年)の泊郷の人口は668人、秋目郷の人口は1228人。明治4年(1871年)の南方郷の人口は士族4952人、平民7203人で合計1万2155人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[ 56] )。明治6年(1873年)の鹿籠の人口は2万4902人。
加世田
寛永13年(1636年)の加世田郷の人口は6787人。明治4年(1871年)の加世田郷は、士族5783人、卒族31人、平民2万5781人で合計3万1595人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[ 56] )。
川内 (薩摩川内 )
寛永13年(1636年)の隅之城郷の人口は2693人。明治4年(1871年)の隅之城郷は、士族2018人、卒族75人、平民4049人で合計6142人、水引郷は、士族4267人、卒族56人、平民6399人で合計8307人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[ 56] )。川内の人口は隅之城郷と水引郷を合わせて1万4449人。
宮之城
寛永13年(1636年)の宮之城郷の人口は4483人。明治4年(1871年)の宮之城郷は、士族545人、卒族1982人、平民5050人で合計8608人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[ 56] )。
出水
寛永13年(1636年)の出水郷の人口は1万3981人。明治4年(1871年)の加世田郷は、士族5806人、卒族30人、平民1万2755人で合計1万8591人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[ 56] )。
阿久根
寛永13年(1636年)の阿久根郷の人口は4401人。明治4年(1871年)の阿久根郷は、士族1268人、卒族54人、平民9496人で合計1万0910人(典拠は尾口義男 (1998年, 2000年)[ 56] )。
勝本
享保6年(1722年)の町方人口は4828人(典拠は『壹岐郷土史』)。明治6年(1873年)の人口は4857人。
府中 (厳原 )
以下の府中の人口は武家を含む総人口。
元号
西暦
総数
元号
西暦
総数
延宝5年
1677年
13,737
元禄9年
1696年
15,902
延宝7年
1679年
14,316
元禄10年
1697年
16,019
延宝8年
1680年
14,772
元禄11年
1698年
16,093
天和元年
1681年
15,060
元禄12年
1699年
16,138
天和2年
1682年
15,279
元禄13年
1700年
16,047
天和3年
1683年
15,251
元禄14年
1701年
15,935
貞享元年
1684年
15,021
元禄15年
1702年
15,447
貞享2年
1685年
14,912
元禄16年
1703年
15,127
貞享3年
1686年
14,978
宝永元年
1704年
14,926
貞享4年
1687年
14,961
宝永2年
1705年
14,695
元禄元年
1688年
14,927
宝永3年
1706年
14,580
元禄2年
1689年
14,855
宝永4年
1707年
14,019
元禄3年
1690年
14,682
宝永5年
1708年
13,261
元禄4年
1691年
14,877
宝永6年
1709年
12,515
元禄5年
1692年
15,041
宝永7年
1710年
12,091
元禄6年
1693年
15,289
正徳元年
1711年
11,936
元禄7年
1694年
15,320
正徳2年
1712年
11,839
元禄8年
1695年
15,566
元号
西暦
総数
武家
町方
寺社方
漁戸
安永元年
1772年
3,000
明治2年
1869年
9,231
6,150
2,684
156
241
明治6年
1873年
8,806
(典拠は高橋梵仙 『日本人口史之研究』、『新対馬島誌』、『長崎県史』)
箱館 (函館)
天明6年(1786年)の箱館村は450弱戸2500余人。嘉永3年(1850年)の人口は諸士・徒士・足軽637人、町々8682人、寺・社家161人を含む。江戸時代後期には蝦夷地への本州からの移住の増加により人口が増え、幕末には五港の一つとして安政6年旧暦6月2日(1859年7月1日)に開港する。明治2年に箱館から函館に改名する。『日本地誌提要』による明治6年の函館の人口は2万8825人。
元号
西暦
現住人口
本籍人口
享和元年
1801年
2,595
享保3年
1803年
2,886
文化元年
1804年
2,937
文化2年
1805年
3,084
文化3年
1806年
3,121
文化4年
1807年
3,122
文化5年
1808年
3,125
文化6年
1809年
3,205
文化7年
1810年
3,246
文化8年
1811年
3,304
文化9年
1812年
3,356
文化10年
1813年
3,372
文化11年
1814年
3,457
文化13年
1816年
3,566
文政元年
1818年
3,968
文政2年
1819年
4,162
文政3年
1820年
4,367
天保12年
1841年
7,181
嘉永3年
1850年
9,480
嘉永6年
1853年
9,419
安政3年
1856年
9,790
安政4年
1857年
10,179
元治元年
1864年
15,669
12,206
慶応元年
1865年
17,109
13,524
慶応2年
1866年
17,785
13,924
慶応3年
1867年
18,609
14,660
明治元年
1868年
14,633
明治2年
1869年
15,030
明治3年
1870年
15,836
明治4年
1871年
15,045
明治5年
1872年
25,403
19,533
明治6年
1873年
25,082
19,678
(典拠は『函館市史』)
福山 (蝦夷福山、松前 )
『日本地誌提要』による明治6年(1873年)の人口は1万6092人。
元号
西暦
現住人口
本籍人口
備考
元禄14年
1701年
5,000
家中寺社共
宝永4年
1707年
4,079
享保元年
1716年
3,775
家中寺社共
享保2年
1717年
3,775
延享2年
1745年
4,833
家中寺社共
宝暦2年
1752年
4,947
宝暦4年
1754年
5,058
宝暦10年
1760年
5,456
家中寺社共
明和元年
1764年
5,542
明和2年
1765年
5,526
明和7年
1770年
5,883
安永6年
1777年
6,004
家中寺社共 (諸士1526人、 町方4308人、寺社方170人)
天明7年
1787年
6,385
家中寺社共
寛政9年
1797年
6,020
文化3年
1806年
8,119
家中寺社共
文化4年
1807年
7,081
寺社を除く
文化5年
1808年
7,084
寺社を除く
文化6年
1809年
7,107
寺社を除く
文化7年
1810年
7,223
寺社を除く
文化8年
1811年
7,254
寺社を除く
文化9年
1812年
7,232
寺社を除く
文化10年
1813年
7,276
寺社を除く
文化11年
1814年
7,276
寺社を除く
文化12年
1815年
7,276
寺社を除く
文化14年
1817年
7,276
寺社を除く
文政元年
1818年
7,276
寺社を除く
文政5年
1822年
8,935
家中含み寺社領を除く
文政11年
1828年
7,586
家中含み寺社領を除く
文政12年
1829年
8,016
家中含み寺社領を除く
天保4年
1833年
8,292
家中含み寺社領を除く
10,795
家中寺社共
嘉永3年
1850年
14,133
家中寺社共
安政6年
1859年
11,831
万延元年
1860年
11,979
文久元年
1861年
12,108
文久2年
1862年
12,255
明治元年
1868年
17,722
16,883
明治2年
1869年
17,396
16,868
明治3年
1870年
17,030
16,343
明治4年
1871年
16,154
15,415
明治5年
1872年
15,839
15,082
明治6年
1873年
17,280
16,754
(典拠は『松前町史』、関根達人(2010年)[ 57] )
江差 (江刺)
宝暦8年(1758年)の江差村は家数600軒余、問屋13~14軒。天明6年(1786年)の江差村は1000余戸3500人余、五勝手村は100余戸350人余。寛永3年(1850年)の江差村は1569戸(典拠は『北海道史』)。明治6年(1873年)の江差の人口は9158人。
首里・那覇・久米・泊
琉球国では王府の置かれた首里三平等、那覇四町、久米村、泊村に人口が集中し、諸士身分も集中して居住した。またこれらの地域に居住する百姓(平民)を「町百姓 」と呼び、他地域に暮らす「田舎百姓」と区別した。
元号
時憲暦
西暦
総数
首里三平等
那覇四町
久米村
泊村
寺院方・ 御城女姓家 ・出家
合計
諸士
百姓
出家
合計
諸士
百姓
合計
諸士
百姓
合計
諸士
百姓
合計
諸士
百姓
合計
諸士
百姓
出家
承応3年
順治11年
1654年
13,689
3,594
10,095
8,455
2,322
6,133
3,442
761
2,681
995
305
690
797
206
591
元禄4年
康熙30年
1691年
24,032
6,381
17,651
16,210
4,492
11,718
5,280
1,094
4,186
1,632
558
1,074
910
237
673
享保14年
雍正7年
1729年
33,245
14,453
18,614
178
20,861
9,612
11,249
7,819
2,794
5,025
2,838
1,507
1,331
1,305
469
836
422
71
173
178
明治6年
1873年
75,231
44,984
14,610
9,800
5,837
(典拠は崎浜秀明 『沖縄旧法制史料集成』、『名護市史』)
主要街道の宿場町
以下『近世交通史料集』収録の諸大概帳による天保14年(1843年)の主要街道の宿場町人口をまとめる。
一般には江戸日本橋 から京三条大橋 までを海側で結ぶ街道を東海道と呼ぶが、幕府公式の『東海道宿村大概帳』では、江戸日本橋から大坂高麗橋 までを結ぶ街道を東海道としてまとめている。この場合、大津宿と伏見宿を結ぶ大津街道 、京から伏見宿経由で大坂までを結ぶ大坂街道 が東海道に組み込まれる。統計は『東海道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
品川宿
武蔵
6,890
1,561
1
2
93
舞坂宿
遠江
2,475
541
2
1
28
川崎宿
武蔵
2,433
541
2
0
72
新居宿
遠江
3,474
797
3
0
26
神奈川宿
武蔵
5,793
1,341
2
0
58
白須賀宿
遠江
2,704
613
1
1
27
程ヶ谷宿
武蔵
2,928
558
1
3
67
二川宿
遠江
1,468
328
1
1
38
戸塚宿
相模
2,906
613
2
3
75
吉田宿 (豊橋)
三河
5,277
1,293
2
1
65
藤沢宿
相模
4,089
919
1
1
45
御油宿
三河
1,298
316
4
0
62
平塚宿
相模
2,114
443
1
1
54
赤坂宿
三河
1,304
349
3
1
62
大磯宿
相模
3,056
676
3
0
66
藤川宿
三河
1,231
302
1
1
36
小田原宿
相模
5,404
1,542
4
4
95
岡崎宿
三河
6,494
1,565
3
3
112
箱根宿
相模
844
197
6
1
36
池鯉鮒宿
三河
1,620
292
1
1
35
三島宿
伊豆
4,048
1,025
2
3
74
鳴海宿
尾張
3,643
847
1
2
68
沼津宿
駿河
5,346
1,234
3
1
55
宮宿 (熱田)
尾張
10,342
2,924
2
1
248
原宿
駿河
1,939
398
1
1
25
桑名宿
伊勢
8,848
2,544
2
4
120
吉原宿 (富士 )
駿河
2,832
653
2
3
60
四日市宿
伊勢
7,114
1,811
2
1
98
蒲原宿
駿河
2,480
509
1
3
42
石薬師宿
伊勢
991
241
3
0
15
由比宿
駿河
713
160
1
1
32
庄野宿
伊勢
855
211
1
1
15
興津宿
駿河
1,668
316
2
2
34
亀山宿
伊勢
1,549
567
1
1
21
江尻宿 (清水 )
駿河
6,498
1,340
2
3
50
関宿
伊勢
1,942
632
2
2
42
府中宿 (静岡)
駿河
14,071
3,673
2
2
43
坂下宿
伊勢
564
153
3
1
48
鞠子宿
駿河
795
211
1
2
24
土山宿
近江
1,505
351
2
0
44
岡部宿
駿河
5,322
487
2
2
27
水口宿
近江
2,692
692
1
1
41
藤枝宿
駿河
4,425
1,061
2
0
37
石部宿
近江
1,606
458
2
0
32
島田宿
駿河
6,727
1,461
3
0
48
草津宿
近江
2,351
586
2
2
72
金谷宿
遠江
4,271
1,004
3
1
51
大津宿
近江
14,892
3,650
2
1
71
日坂宿
遠江
750
168
1
1
33
伏見宿
山城
24,227
6,245
4
2
39
掛川宿
遠江
3,443
960
2
0
30
淀宿
山城
2,847
836
0
0
16
袋井宿
遠江
843
195
3
0
50
枚方宿
河内
1,549
378
1
0
69
見付宿
遠江
3,935
1,029
2
1
56
守口宿
河内
764
177
1
0
27
浜松宿
遠江
5,946
1,622
6
0
94
江戸日本橋から京三条大橋までを山側で結ぶ街道で、草津宿から大津宿までは東海道と合流する。統計は『中山道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
板橋宿
武蔵
2,448
573
1
3
54
藪原宿
信濃
1,493
266
1
1
10
蕨宿
武蔵
2,223
430
2
1
23
宮ノ越宿
信濃
585
137
1
1
21
浦和宿
武蔵
1,230
273
1
3
15
福島宿
信濃
972
158
1
1
14
大宮宿
武蔵
1,508
319
1
9
25
上松宿
信濃
2,482
362
1
1
35
上尾宿
武蔵
793
182
1
3
41
須原宿
信濃
748
104
1
1
24
桶川宿
武蔵
1,444
347
1
2
36
野尻宿
信濃
986
108
1
1
19
鴻巣宿
武蔵
2,274
566
1
1
58
三留野宿
信濃
594
77
1
1
32
熊谷宿
武蔵
3,263
1,705
2
1
19
妻籠宿
信濃
418
83
1
1
31
深谷宿
武蔵
1,928
524
1
4
80
馬籠宿
信濃
717
69
1
1
18
本庄宿
武蔵
4,554
1,212
2
2
70
落合宿
美濃
370
75
1
1
14
新町宿
上野
1,437
407
2
1
43
中津川宿
美濃
928
228
1
1
29
倉賀野宿
上野
2,032
297
1
2
32
大井宿
美濃
466
110
1
1
41
高崎宿
上野
3,235
837
0
0
15
大湫宿
美濃
338
66
1
1
30
板鼻宿
上野
1,422
312
1
1
54
細久手宿
美濃
256
65
1
1
24
安中宿
上野
348
64
1
2
17
御嶽宿
美濃
600
66
1
1
28
松井田宿
上野
1,009
252
2
2
14
伏見宿
美濃
485
82
1
1
29
坂本宿
上野
732
162
2
2
40
太田宿
美濃
505
118
1
1
20
軽井沢宿
信濃
451
119
1
4
21
鵜沼宿
美濃
246
68
1
1
25
沓掛宿
信濃
502
166
1
3
17
加納宿
美濃
2,728
805
1
1
35
追分宿
信濃
712
103
1
2
35
河渡宿
美濃
272
64
1
0
24
小田井宿
信濃
319
107
1
1
5
美江寺宿
美濃
582
136
1
0
11
岩村田宿
信濃
1,637
350
0
0
8
赤坂宿
美濃
1,129
292
1
1
17
塩名田宿
信濃
574
116
2
1
7
垂井宿
美濃
1,719
315
1
1
27
八幡宿
信濃
719
143
1
4
3
関ヶ原宿
美濃
1,389
269
1
1
33
望月宿
信濃
360
82
1
1
9
今須宿
美濃
1,784
464
1
2
13
芦田宿
信濃
326
80
1
2
6
柏原宿
近江
1,468
344
1
1
22
長久保宿
信濃
721
187
1
1
43
醒井宿
近江
539
138
1
1
11
和田宿
信濃
522
126
1
2
28
番場宿
近江
808
178
1
1
10
下諏訪宿
信濃
1,345
315
1
1
40
鳥居本宿
近江
1,448
293
1
2
35
塩尻宿
信濃
794
166
1
1
75
高宮宿
近江
3,560
835
1
2
23
洗馬宿
信濃
661
163
1
1
29
愛知川宿
近江
929
199
1
1
28
本山宿
信濃
592
117
1
1
34
武佐宿
近江
537
183
1
1
23
贄川宿
信濃
545
124
1
1
25
守山宿
近江
1,700
415
2
1
30
奈良井宿
信濃
2,155
409
1
1
5
江戸日本橋から中山道下諏訪宿までを結ぶ街道。統計は『甲州道中宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。横山宿 の人口は、八日市宿、八王子十三ヶ宿を含む。甲府宿 の人口は、甲府城下町全体ではなく、柳町(905人)外九ヶ町(城屋町、和田平町、下一条町、上一条町、金ノ手町、工町、八日町、方羽町、西青沼町、3018人)の合計。
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
内藤新宿
武蔵
2,377
698
1
0
24
猿橋宿
甲斐
542
138
1
2
10
下高井戸宿
武蔵
890
183
1
0
3
駒橋宿
甲斐
267
85
0
0
4
上高井戸宿
武蔵
787
168
1
0
2
大月宿
甲斐
273
92
1
2
2
国領宿
武蔵
308
61
0
0
1
下花咲宿
甲斐
373
77
1
2
22
下布田宿
武蔵
429
95
0
0
3
上花咲宿
甲斐
304
71
1
2
13
上布田宿
武蔵
314
68
0
0
1
下初狩宿
甲斐
616
156
2
2
12
下石原宿
武蔵
448
91
0
0
0
中初狩宿
甲斐
459
108
1
1
25
上石原宿
武蔵
411
73
0
0
4
白野宿
甲斐
318
84
1
1
4
府中宿
武蔵
2,762
430
1
2
29
阿弥陀海道宿
甲斐
272
65
1
1
4
日野宿
武蔵
1,556
423
1
1
20
黒野田宿
甲斐
334
79
1
1
14
横山宿 (八王子)
武蔵
6,026
1,548
2
3
34
駒飼宿
甲斐
274
64
1
1
6
駒木野宿
武蔵
355
73
1
1
12
鶴瀬宿
甲斐
242
58
1
2
4
小仏宿
武蔵
252
58
0
0
11
勝沼宿
甲斐
786
192
1
2
23
小原宿
相模
275
61
1
1
7
栗原宿
甲斐
1,057
240
1
1
20
与瀬宿
相模
566
114
1
0
6
石和宿
甲斐
1,143
166
1
2
18
吉野宿
相模
527
104
1
1
3
甲府宿 (十町)
甲斐
3,923
618
1
1
21
関野宿
相模
635
130
1
1
3
韮崎宿
甲斐
1,142
237
1
0
17
上野原宿
甲斐
784
159
1
2
20
台ヶ原宿
甲斐
670
153
1
1
14
鶴川宿
甲斐
295
57
1
2
8
教来石宿
甲斐
684
144
1
1
7
野田尻宿
甲斐
607
118
1
1
9
蔦木宿
信濃
508
105
1
0
15
犬目宿
甲斐
255
56
2
0
15
金沢宿
信濃
622
161
1
0
17
下鳥沢宿
甲斐
699
144
1
2
11
上諏訪宿
信濃
973
232
1
0
14
上鳥沢宿
甲斐
650
151
1
2
13
江戸日本橋から日光坊中 までを結ぶ街道。統計は『日光道中宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。徳次郎宿 の人口は、下徳次郎宿、中徳次郎宿、上徳次郎宿、門前村、田中村、西根村の徳次郎六郷を含む。
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
千住宿
武蔵
9,956
2,370
1
1
55
小山宿
下野
1,392
423
1
2
74
草加宿
武蔵
3,619
723
1
1
67
新田宿
下野
244
59
1
1
11
越ヶ谷宿
武蔵
4,603
1,005
1
4
52
小金井宿
下野
767
165
1
1
43
粕壁宿
武蔵
3,701
773
1
1
45
石橋宿
下野
414
79
1
1
30
杉戸宿
武蔵
1,663
365
1
2
46
雀宮宿
下野
268
72
1
1
38
幸手宿
武蔵
3,937
962
1
0
27
宇都宮宿
下野
6,457
1,219
2
1
42
栗橋宿
武蔵
1,741
404
1
1
25
徳次郎宿 (六郷)
下野
653
168
3
4
72
中田宿
下総
403
69
1
1
6
大沢宿
下野
278
43
1
1
41
古河宿
下総
3,865
1,105
1
1
31
今市宿
下野
1,122
236
1
1
21
野木宿
下野
527
126
1
1
25
鉢石宿
下野
985
227
2
0
19
間々田宿
下野
947
165
1
1
50
江戸日本橋から陸奥白河宿 までを結ぶ街道。江戸日本橋から宇都宮宿までは、日光街道と共通である。統計は『奥州道中宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
白沢宿
下野
369
71
1
1
13
氏家宿
下野
879
235
1
1
35
喜連川宿
下野
1,198
290
1
1
29
佐久山宿
下野
473
121
1
1
27
大田原宿
下野
1,428
245
2
1
42
鍋掛宿
下野
346
68
1
1
23
越堀宿
下野
569
113
1
1
11
芦野宿
下野
350
168
1
1
25
白坂宿
陸奥
289
71
1
1
27
白河宿 (白河)
陸奥
5,959
1,285
1
2
35
見付宿と御油宿を結ぶ東海道の脇往還 を姫街道 と呼ぶ。一方浜松宿から北上し、気賀宿 で姫街道と合流し、御油宿までを結ぶ東海道の脇往還を本坂街道と呼ぶ。統計は『本坂通宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
気賀宿
遠江
466
111
1
0
8
三ヶ日宿
遠江
467
93
1
0
4
嵩山宿
三河
580
130
1
0
0
東海道の七里の渡し の陸側の迂回路として、宮宿と桑名宿とを結ぶ脇往還。佐屋宿 から桑名宿までは川船による三里の渡し で結ばれていた。統計は『佐屋路宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
岩塚宿
尾張
1,038
212
1
0
7
万場宿
尾張
672
160
1
0
10
神守宿
尾張
812
184
1
0
12
佐屋宿
尾張
1,260
290
2
2
31
東海道宮宿と中山道垂井宿とを結ぶ脇往還。統計は『美濃路宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。名古屋宿 の人口は、名古屋城下町全体ではなく、伝馬町・宮町・駿河町・富沢町の四町のみ。
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
名古屋宿 (四町)
尾張
4,188
1,157
0
0
0
清須宿
尾張
2,545
521
1
3
21
稲葉宿
尾張
1,572
336
1
1
8
萩原宿
尾張
1,002
236
1
1
17
起宿
尾張
4,094
887
1
1
22
墨俣宿
美濃
1,317
338
1
1
10
大垣宿
美濃
5,136
903
1
1
11
西国街道 とは京東寺 から下関までを結ぶ街道だが、特に京から西宮宿 を結ぶ区間を山崎通と呼ぶ。統計は『山崎通宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
山崎宿
山城
1,412
261
1
1
8
芥川宿
摂津
1,150
253
1
0
33
郡山宿
摂津
469
110
1
0
29
瀬川宿
摂津
690
141
2
0
11
昆陽宿
摂津
913
174
1
0
7
西宮宿
摂津
8,268
1,785
1
1
64
江戸日本橋から北1里の中山道本郷追分と日光街道幸手宿とを岩槻経由で結ぶ、日光街道の脇往還。岩槻街道とも呼ばれる。統計は『日光御成道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
岩淵宿
武蔵
1,251
229
1
1
3
川口宿
武蔵
1,406
295
1
1
10
鳩ヶ谷宿
武蔵
906
217
1
1
16
大門宿
武蔵
896
180
1
1
6
岩槻宿
武蔵
3,378
778
1
1
10
日光街道小山宿から北1里の喜沢追分と今市宿とを鹿沼経由で結ぶ、日光街道の脇往還。統計は『壬生通宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
飯塚宿
下野
310
65
2
1
11
壬生宿
下野
1,870
429
1
1
10
楡木宿
下野
511
128
1
2
15
奈佐原宿
下野
330
63
1
0
22
鹿沼宿
下野
2,844
751
1
1
21
文挟宿
下野
156
30
1
2
14
板橋宿
下野
222
42
1
2
25
中山道倉賀野宿から日光坊中までを結ぶ脇往還。楡木宿で日光壬生街道と合流する。統計は『例幣使道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもの。
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
玉村宿
上野
1,032
270
1
0
36
五料宿
上野
541
161
0
0
2
柴宿
上野
805
219
1
0
17
木崎宿
上野
917
147
1
0
34
太田宿
上野
1,496
406
1
1
10
八木宿
下野
542
96
1
0
19
梁田宿
下野
431
105
2
0
32
天明宿
下野
4,149
1,095
1
0
8
犬伏宿
下野
2,757
728
2
0
44
富田宿
下野
848
248
1
0
28
栃木宿
下野
3,999
1,030
1
0
7
合戦場宿
下野
444
105
1
1
25
金崎宿
下野
380
86
1
0
12
水戸街道と佐倉街道は、それぞれ日光街道千住宿から水戸宿まで、千住宿から佐倉城 までを結ぶ、日光街道の脇往還である。千住宿の隣の水戸街道新宿 でさらに佐倉街道が分岐する。佐倉街道は成田街道とも呼ばれた。統計は『水戸佐倉道宿村大概帳』による天保14年(1843年)のもので、大概帳に詳細な記載が残っているのは分岐点の新宿と、新宿の隣の宿である八幡宿 (佐倉街道)と松戸宿 (水戸街道)のみである。
宿場町
旧国
人口
家数
本 陣
脇 本 陣
旅 籠 屋
新宿
武蔵
956
174
0
0
4
八幡宿
下総
582
106
0
0
8
松戸宿
下総
1,886
436
1
1
28
明治初期
元正院地誌課の塚本明毅 らによって編纂され、明治7年(1874年)12月に刊行された『日本地誌提要』には代表的な都市(名邑)について明治6年(1873年)1月1日調の人口が記載されている。一方陸軍参謀部編によって徴発物件の一覧として編纂され、明治8年(1875年)11月に刊行された『明治八年 共武政表』には、明治5年(1872年)から明治8年(1875年)までの調査結果が、連担接続した輻輳地の本籍人口とともに記載されている。
日本地誌提要記載の名邑の明治6年1月1日調人口 (人口上位150都市)
順位
名邑
旧国
人口
順位
名邑
旧国
人口
順位
名邑
旧国
人口
1
東京
武蔵
595,905
51
小浜
若狭
19,271
101
今泉・岐阜
美濃
10,800
2
大坂
摂津
271,992
52
水戸
常陸
19,010
102
臼杵
豊後
10,738
3
京都
山城
238,663
53
新湊
越中
18,904
103
沼津
駿河
10,684
4
名古屋
尾張
125,193
54
島原
肥前
18,682
104
神奈川
武蔵
10,660
5
金沢
加賀
109,685
55
酒田
羽後
18,619
105
平戸
肥前
10,558
6
広島
安芸
74,305
56
出水
薩摩
18,591
106
二本松
岩代
10,435
7
横浜
武蔵
64,602
57
赤間関
長門
18,500
107
石巻
陸前
10,325
8
和歌山
紀伊
61,124
58
新発田
越後
18,312
108
品川
武蔵
10,293
9
仙台
陸前
51,998
59
桑名
伊勢
18,064
109
米子
伯耆
10,237
10
徳島
阿波
48,861
60
五別所・大津
近江
17,924
110
大垣
美濃
10,158
11
萩
長門
45,318
61
福江
肥前
17,787
111
魚津
越中
10,098
12
首里
琉球
44,984
62
銚子
下総
17,688
112
小松
加賀
9,970
13
富山
越中
44,682
63
村上
越後
17,647
113
久米
琉球
9,800
14
熊本
肥後
44,620
64
福山
備後
17,643
114
四日市
伊勢
9,722
15
神戸・兵庫
摂津
40,900
65
山形
羽前
17,631
114
尾道
備後
9,722
16
福井
越前
39,784
66
国府
大隅
17,144
116
八戸
陸奥
9,518
17
高知
土佐
39,757
67
天王寺
摂津
16,560
117
船橋
下総
9,494
18
堺
和泉
38,838
68
福山
渡島
16,092
118
武生
越前
9,416
19
秋田
羽後
38,118
69
甲府
甲斐
15,529
118
大聖寺
加賀
9,416
20
松江
出雲
37,808
70
津山
美作
15,411
120
宮津
丹後
9,398
21
新潟
越後
33,152
71
熱田
尾張
15,211
121
加治木
大隅
9,386
22
弘前
陸奥
32,886
72
前橋
上野
15,063
122
川越
武蔵
9,357
23
高松
讃岐
32,736
73
宇都宮
下野
15,061
123
金石
加賀
9,353
24
岡山
備前
32,372
73
鹿沼
下野
15,061
124
古河
下総
9,343
25
加世田
薩摩
31,595
75
郡山
大和
14,988
125
大村
肥前
9,284
26
静岡
駿河
31,555
76
那覇
琉球
14,610
126
山口
周防
9,279
27
長崎
肥前
29,656
77
川内
薩摩
14,449
127
能代
羽後
9,174
28
箱館
渡島
28,825
78
明石
播磨
14,410
128
江刺
渡島
9,158
29
高田
越後
27,460
79
松本
信濃
14,275
129
新宮
紀伊
9,134
30
鹿児島
薩摩
27,240
80
柏崎
越後
14,081
130
舞鶴
丹後
9,073
31
松山
伊予
26,141
81
丸亀
讃岐
13,875
131
大野
越前
9,052
32
鶴岡
羽前
24,964
82
高山
飛騨
13,081
132
坂井
越前
9,044
33
米沢
羽前
24,945
83
岡崎
三河
12,969
133
八代
肥後
9,021
34
鹿籠
薩摩
24,902
84
小田原
相模
12,710
134
館林
上野
9,007
35
姫路
播磨
24,521
85
相川
佐渡
12,632
135
飯田
信濃
8,944
36
彦根
近江
24,368
86
尼ヶ崎
摂津
12,404
136
大浜
三河
8,885
37
長岡
越後
24,067
87
上野
伊賀
12,385
137
柳河
筑後
8,865
38
高岡
越中
23,724
88
宇和島
伊予
12,209
138
岸和田
和泉
8,852
39
山田
伊勢
22,473
89
今治
伊予
12,000
139
出雲崎
越後
8,850
40
伏水
山城
22,334
90
宮崎
日向
11,929
140
厳原
対馬
8,806
41
津
伊勢
22,080
91
岩国
周防
11,684
141
松坂
伊勢
8,781
42
佐賀
肥前
21,660
92
揖宿
薩摩
11,588
142
西之宮
摂津
8,699
43
盛岡
陸中
21,306
93
中津
豊前
11,538
143
富江
肥前
8,669
44
奈良
大和
21,158
94
敦賀
越前
11,476
144
宮之城
薩摩
8,607
45
谷山
薩摩
21,087
95
深堀
肥前
11,463
145
三原
備後
8,565
46
博多
筑前
20,985
96
千住
武蔵
11,368
146
土崎
羽後
8,559
47
鳥取
因幡
20,782
97
高崎
上野
11,285
147
新庄
羽前
8,361
48
福岡
筑前
20,650
98
浜松
遠江
11,103
148
那珂湊
常陸
8,254
49
若松
岩代
20,588
99
青森
陸奥
10,965
149
七尾
能登
8,216
50
久留米
筑後
20,381
100
阿久根
薩摩
10,918
150
氷見
越中
8,175
明治八年 共武政表記載の邑里(輻輳地)の本籍人口 (人口上位150都市)
順位
邑里
旧国
人口
順位
邑里
旧国
人口
順位
邑里
旧国
人口
1
東京
武蔵
830,917
51
酒田
羽後
18,532
101
能代
羽後
9,318
2
大坂
摂津
271,992
52
山田
伊勢
18,406
102
川越
武蔵
9,276
3
京都
山城
226,134
53
山形
羽前
17,683
103
新宮
紀伊
9,127
4
名古屋
尾張
109,982
54
福山
備後
17,667
104
舞鶴
丹後
9,073
5
金沢
加賀
109,685
55
明石
播磨
16,951
105
大野
越前
9,052
6
鹿児島
薩摩
89,374
56
島原
肥前
16,771
106
坂井
越前
9,044
7
広島
安芸
66,906
57
福山
渡島
16,092
107
八代
肥後
9,021
8
横浜
武蔵
63,064
58
津
伊勢
15,939
108
館林
上野
9,007
9
和歌山
紀伊
61,105
59
大津
近江
15,932
109
土崎港
羽後
8,958
10
仙台
陸前
51,998
60
長岡
越後
15,882
110
山口
周防
8,933
11
徳島
阿波
48,861
61
甲府
甲斐
15,626
111
新発田
越後
8,919
12
熊本
肥後
44,619
62
宇和島
伊予
15,396
112
神奈川
武蔵
8,890
13
富山
越中
40,538
63
熱田
尾張
15,211
113
大浜
三河
8,885
14
福井
越前
39,784
64
前橋
上野
15,063
114
厳原
対馬
8,811
15
鳥取
因幡
37,796
65
宇都宮
下野
15,061
115
松坂
伊勢
8,797
16
静岡
駿河
37,724
66
郡山
大和
14,851
116
松代
信濃
8,790
17
堺
和泉
36,457
67
松本
信濃
14,275
117
富江
肥前
8,694
18
松江
出雲
36,102
68
丸亀
讃岐
13,753
118
飯田
信濃
8,644
19
米沢
羽前
34,911
69
品川
武蔵
13,205
119
西宮
摂津
8,600
20
秋田
羽後
33,142
70
尼崎
摂津
13,170
120
神戸
摂津
8,554
21
弘前
陸奥
33,052
71
高山
飛騨
13,081
121
鞆津
備後
8,495
22
高松
讃岐
32,736
72
岡崎
三河
12,969
122
三原
備後
8,416
23
岡山
備前
32,372
73
小田原
相模
12,639
123
柳川
筑後
8,376
24
新潟
越後
32,043
74
上野
伊賀
12,385
124
七尾
能登
8,216
25
萩
長門
30,092
75
相川
佐渡
12,276
125
氷見
越中
8,175
26
長崎
肥前
29,656
76
今治
伊予
12,177
126
安下荘
周防
8,165
27
高知
土佐
29,539
77
千住
武蔵
12,061
127
船橋
下総
8,117
28
箱館
渡島
28,825
78
岸和田
和泉
11,713
128
横手
羽後
8,086
29
兵庫
摂津
27,476
79
中津
豊前
11,538
129
那珂港
常陸
8,000
30
松山
伊予
26,424
80
敦賀
越前
11,476
130
久賀
周防
7,855
31
盛岡
陸中
25,457
81
気仙沼
陸前
11,377
131
土浦
常陸
7,788
32
高田
越後
25,163
82
浜松
遠江
11,303
131
輪島・輪島崎
能登
7,788
33
彦根
近江
24,368
83
高崎
上野
11,285
133
柏崎
越後
7,746
34
姫路
播磨
24,272
84
岐阜
美濃
10,800
134
延岡
日向
7,691
35
鶴ヶ岡
羽前
24,092
85
青森
陸奥
10,780
135
杵築
出雲
7,674
36
高岡
越中
23,724
86
沼津
駿河
10,684
136
牛深
肥後
7,590
37
佐賀
肥前
21,661
87
四日市
伊勢
10,670
137
三条
越後
7,564
38
伏水
山城
21,338
88
豊橋
三河
10,585
138
大森
武蔵
7,464
39
奈良
大和
21,210
89
米子
伯耆
10,362
139
島田
駿河
7,461
40
下ノ関
長門
21,175
90
大垣
美濃
10,158
140
小倉
豊前
7,459
41
博多
筑前
20,985
91
尾道
備後
10,134
141
一之宮
尾張
7,399
42
久留米
筑後
20,682
92
魚津
越中
10,098
142
白河
磐城
7,391
43
福岡
筑前
20,650
93
小松
加賀
9,970
143
津島
尾張
7,387
44
若松
岩代
20,588
94
八戸
陸奥
9,694
144
都城
日向
7,318
45
銚子
下総
19,857
95
臼杵
豊後
9,419
145
洲本
淡路
7,273
46
津山
美作
19,411
96
武生
越前
9,416
146
田辺
紀伊
7,203
47
小浜
若狭
19,271
96
大聖寺
加賀
9,416
147
村上
越後
7,145
48
水戸
常陸
19,177
98
宮津
丹後
9,398
148
西尾
三河
7,095
49
新湊
越中
18,904
99
金石
加賀
9,353
149
浦賀
相模
7,081
50
桑名
伊勢
18,640
100
古河
下総
9,343
150
赤穂
播磨
7,067
両者で都市人口が異なる場合が多々あるが、年度による違いも然りながら、まだ市制 ・町村制 の制定前で名邑、邑里(輻輳地)の範囲に確固たる規則がなく、統計上の町の範囲が調査によって異なるからである。また地租改正 に反対していた薩摩藩 においては戸籍調査も従来の郷村制で行われており、特に『日本地誌提要』では町の実態とはかけ離れた数字が記載されている。
脚注
注釈
^ チャンドラーは大阪の人口を36万人と推定しているが、これは堺を含む人口である。よってここには堺の推定人口8万人を引いた値を載せた。
^ 身分別人口の合計と総数は一部合致しない。
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外部リンク
日本地誌提要 (広島大学学術リポジトリ)
明治八年共武政表 (近代デジタルライブラリー)