鳥羽離宮鳥羽離宮(とばりきゅう)は、12世紀から14世紀頃まで代々の上皇により使用されていた院御所。 場所は、京都市南区上鳥羽、伏見区下鳥羽・竹田・中島の付近で、朱雀大路の延長線上にあった。範囲は東西約1.7 km、南北約1.1 kmと推定されているが、西辺部が現鴨川の流路となっていることから明らかではない[1]。 概要鳥羽は、平安京の南約3キロメートルに位置し、鴨川と桂川の合流地点で、山陽道も通る交通の要衝であった。平安京造営時に朱雀大路を延長した鳥羽作道も作られ、鳥羽は平安京の外港としての機能を持った。また、貴族達が狩猟や遊興を行う風光明媚な地としても有名であった。このため古くから、鳥羽には貴族達の別邸が建ち並び、市が立つなど、都市として発達していた[2]。 11世紀、院の近臣である藤原季綱が鳥羽の別邸を白河上皇に献上した[3]。白河上皇は大規模な拡張工事を行った。後の南殿である。さらに東殿を建設し、邸内に自らの墓所として三重の塔を中心とした安楽寿院を造営する。12世紀の鳥羽上皇の代には泉殿をはじめとして増設が繰り返された。鳥羽上皇も安楽寿院に本御塔と新御塔の2つの塔を造営し、本御塔を自らの墓所と定めた。新御塔は美福門院の墓所を予定していたが、近衛天皇が葬られた。これらの造営、作事には各地の受領に任ぜられた院の近臣達が分担してあたっている。このように、院政期には鳥羽は経済、物流の拠点としてだけではなく、政治の中心地ともなった。 また、治承三年の政変の際に平清盛の命令によって後白河法皇が幽閉され、院政を停止されたことでも知られている。南北朝時代の戦火によって、多くの建物が焼失し、その後急速に荒廃していった。 鳥羽離宮は、南殿・泉殿・北殿・馬場殿・東殿・田中殿などからなる。 それぞれの御所には、御堂が付属していた。 なお、天台宗の高僧であった覚猷は、鳥羽離宮の証金剛院に住んだことから、鳥羽僧正と称された。 文化財安楽寿院の木造阿弥陀如来坐像などが国の重要文化財に指定されているほか(安楽寿院を参照)、1977年から1991年までの発掘調査で発見された出土品計324点が「鳥羽離宮金剛心院跡出土品」として京都市指定有形文化財に指定されている[4][5]。 遺構
脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク
座標: 北緯34度56分59.9秒 東経135度44分37.8秒 / 北緯34.949972度 東経135.743833度 |
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