御所御所(ごしょ)とは、主に天皇など特に位の高い貴人の邸宅、またはその人を指す、歴史上の称号のひとつ。そのいくつかは現代にも名称を残している。 概要邸宅としての御所は天皇またはそれに次ぐ特に位の高い貴人の通常の住まいを指し、単に「御所」と称される場合は「在位中の天皇の平常時の住居」を指す。また天皇の御所は皇宮と称され、都城や城に建てられたものは宮城(きゅうじょう)とも称される。江戸城跡の宮城は太平洋戦争後に皇居と改められ、現在は御所とほぼ同義で用いられている。太上天皇又は上皇(退位した天皇)の御所は仙洞御所、皇太后・太皇太后(崩御した先代の天皇の皇后)の御所は大宮御所、皇太子(東宮)の御所は東宮御所と称される。現在は皇室施設に御所の呼称が多いが、将軍を始めとする武家の棟梁の邸宅にも地名や特徴などを冠して「◯◯御所」と呼ばれることが多かった。 人物の称号(御所号)としての御所は皇族、大臣、将軍、その直系または傍系の子弟・子孫のことを指す場合もある。特に大臣家以上の公卿の子弟に対しては御室御所と敬称する習慣もあり、御所号は皇室のみならず、公家・武家の高位者にも広く用いられた。さらには、皇族・摂家の子弟が門跡となった寺院にも御所号が贈られることもあった。なお、歴史的な表現の方法として、親王または隠居した御所は大御所と呼ばれ特に武家政権が台頭してからは前将軍を指すようになった[1]。 邸宅としての御所現在の御所
皇居の吹上御苑にある天皇徳仁・皇后雅子・愛子内親王の現住居[2]。正式名称は「御所」である[3]。「吹上大宮御所」(昭和天皇・香淳皇后の住居)と区別するために「新御所(吹上新御所)」とも通称される[4][5]。2019年(令和元年)5月1日から2020年(令和2年)3月30日までは、上皇明仁・上皇后美智子の住居として「吹上仙洞御所」と称されていた[6][7]。 当邸宅は、当時の天皇明仁・皇后美智子・清子内親王の新居として建築されたものであり、1991年(平成3年)10月22日に起工[8]、1993年(平成5年)5月18日に落成し[9]、同年12月から使用された[10]。総建築費は約56億円[11]。2020年(令和2年)3月31日、上皇明仁・上皇后美智子が仙洞仮御所(高輪皇族邸)に転居し、当邸宅は「旧吹上仙洞御所」となったが[12]、2021年(令和3年)9月に今上天皇一家が赤坂御所から当邸宅に移転したため、再び「御所」となった[13]。 御所は、昭和天皇・香淳皇后が住んでいた吹上御所(現・吹上大宮御所)が主にプライベート空間だけであったのに対して、外国からの来賓などを迎えることができる「接遇部分」を備えている点が特徴である[14]。設計した内井昭蔵は「全体の印象は、明るさ、新鮮さを感じられるようにして、日本建築の精神と伝統を反映しながら、現代の生活空間の中の日本の美の独自性を求めた意匠としている」と書き残している[14]。 建物は地上2階、地下1階の鉄筋コンクリート造りで、屋根は銅板葺き[15]、外国賓客らをもてなす「接遇部分」(630平方メートル)、天皇一家の「私室部分」(970平方メートル)、側近らが業務を行う「事務部分」(1480平方メートル)に分かれ、廊下などを含めた延べ床面積は5290平方メートルである[16]。中庭を囲むように「御車寄」「接遇部分」「私室部分」「事務部分」があり[17]、ほとんどの部屋が庭や中庭に面する造りとなっている[14]。 御車寄(みくるまよせ)は御所の入り口であり、玄関に繋がる。玄関の床は鹿児島県の沖永良部産の大理石でできている[11]。接遇部分には、「小広間」「広間」「御進講室・応接室」「食堂」「皇族休所」「休所」「御静養室」「予備室」など計11室が設けられている[17][18]。 私室部分には、天皇一家の食堂や「寝室」「居間」「書斎」「研究室」「着替え室」「理髪室」「医療室」「サンルーム」「和室」など17室があり、2階に天皇の「ご身位に伴う部屋」として、三種の神器のうち天叢雲剣の形代と八尺瓊勾玉を保管する「剣璽の間」・急な公務をするための「執務室」の2室がある[14][11]。 事務部分には、侍従や女官、侍医の部屋、天皇一家の食事を作る調理室など32室がある[11]。各棟は廊下で通じている。地下には巨大な倉庫があり、各国からの贈り物や思い出の品々が積まれている[14]。 2020年(令和2年)6月から2021年(令和3年)6月まで、改修工事が行われ、老朽化した給排水管や電気設備の取り換え、内装のリフォームなどが行われたが、部屋の配置などは建設当初のまま引き継がれた。工事費用は、約8億7000万円[16]。
その他の御所
歴史上の御所皇室の御所
武家の御所
御所号摂家や将軍家とその一門、公卿、寺社に許された御所の称号を御所号という。また、公方号とも。御所号は主に朝廷や幕府がそれぞれ家柄や格式によって寺社・公家・大名家に許すものであり、尊称としては最高級に位する。朝廷が授与する御所号は、主に皇族や摂家の子女が門跡となった寺社に対して授与するものが主であり、その他、公卿もその家人より御所、あるいは御所様(ごしょさま)、上様などと尊称されることが事実上許されていた[19]。 一方、武家政権において室町幕府および江戸幕府の一門または臣下のうち、朝廷において堂上公家の身分、殿上人の家が各地方の武家秩序の中で御所として尊称された[20]。室町時代、主に足利将軍家の当主および連枝、鎌倉公方家の一門、あるいは鎮守府将軍として南朝方の有力公家大名であった北畠氏とその一門が御所号を称した。15代将軍・足利義昭については、武家御所と称され、またかつての庇護者である織田信長と対立してよりは「悪しき御所」とも称された。江戸時代には鎌倉公方家の末裔である足利国朝が江戸幕府に帰参する折、御所号を許され、国朝に始まる喜連川氏が御所号を免許された。この御所号に次ぐ敬称が屋形号である。 摂家の御所号源氏の御所号足利氏の御所号
足利氏一門の御所号
北畠氏の御所号
北畠氏一門の御所号
脚注
参照文献
関連項目 |