足利国朝
足利 国朝(あしかが くにとも)は、安土桃山時代の武士。右兵衛督(『喜連川判鑑』)[1](『寛政重修諸家譜』では左兵衛督[2])。 『喜連川判鑑』では男性の関東公方家当主としては唯一、花押の記載がない[1]。 生涯元亀3年(1572年)、足利頼純(頼淳)の嫡男として誕生する。母は佐野晴綱(大炊介)の娘[2]。童名は乙若丸[1][2]。 天正18年(1580年)、豊臣秀吉は関東を平定すると、名家の足利氏が断絶することを惜しみ、足利頼純に対して下野国喜連川の地に400貫の領地を与えた[3]。さらに翌年3月7日、秀吉は義氏の娘・足利氏姫(氏女)と、足利頼純の子の国朝の結婚を命じている[4]。 しかし、古河公方の跡取り娘と小弓公方を創始した離反者の孫という対立公方家間の政略結婚であったため、双方の家臣は自分たちが真の足利氏後継と考えていた[要出典]。そのため、国朝は秀吉から下野国喜連川の地に400貫の所領を与えられたが、氏姫たちは古河の鴻巣館で暮らし、のちの喜連川藩立藩の際にも喜連川には足を踏み入れなかったという。 文禄2年(1593年)2月1日、文禄の役に従軍して肥前国名護屋に赴く途上の安芸国海田で、病のために22歳で死去した。法常院殿球山良公(『喜連川判鑑』)[1](『寛政重修諸家譜』では就山成公法常院[2])。喜連川の璉光院に葬られた[2]。 秀吉の命により、氏姫を国朝の弟・頼氏の妻とした[5]。氏姫と頼氏の間に、義親が生まれている[5]。 諱について諱の「国」(旧字体:國)、「朝」の両字は祖先にあたる河内源氏の人物が[6]使用したものに由来するとされる[要出典]。佐藤博信氏は、足利家国からの偏諱としている[7]。 脚注
参考文献
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