源義国
源 義国(みなもと の よしくに)は、平安時代後期の河内源氏の武将。源義家の三男[1]。新田・足利両氏の祖であり、足利尊氏と新田義貞は遠孫に当たる。 経歴源頼信-源頼義-源義家と伝領した摂関家領上野国八幡荘を相続した[2]。長兄義宗が早世し、次兄義親が西国で反乱を起こすと、三兄の義忠と共に次期「源氏の棟梁」としての期待を受けた。しかし、乱暴狼藉を行ったことや、時代の趨勢に合わないと義家に判断されて後継者から外されていった。 叔父義光との抗争(常陸合戦)には敗れ、常陸国は従子でもある佐竹氏の初代当主である佐竹昌義(義光の孫)に譲ることになったが、足利荘を成立させるなど、上野国の隣国である下野国にも着実に勢力を築いていった。晩年にも勅勘を被るなど、気性の荒さは改まらず、荒加賀入道と言われた。 生涯
官歴諸司助→兵部丞→式部丞→従五位下・式部大夫→加賀介 生没年義国の生年、没年は諸説があって定かではない。通説では、寛治5年(1091年)生まれ、仁平4年(1154年)出家、久寿2年(1155年)6月26日に死去となっている(尊卑分脈)。しかし1091年の生まれとすると、三兄義忠の永保3年(1083年)より8歳も年下になってしまい、系図上の兄弟の順が崩れる。そのため、須藤聡の論文「平安末期清和源氏義国流の在京活動」(『群馬歴史民俗』16号、1995年)では、1080年から1090年の間とする。 他の生年説は以下の通り。
系譜子孫義国は両毛(上野・下野)源氏の祖で末裔には新田氏・足利氏、およびその支流にあたる堀口氏、山名氏、里見氏、桃井氏、石塔氏、吉良氏、今川氏、細川氏、畠山氏(源姓)、斯波氏、一色氏、世良田氏、戸崎氏、岩松氏、最上氏などがある。 脚注
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