喜連川昭氏
喜連川 昭氏(きつれがわ あきうじ、寛永19年(1642年)10月24日 - 正徳3年(1713年)11月12日)は、江戸時代前期〜中期の大名[2]。下野国喜連川藩の第4代藩主[2][3]。梅千代、左馬頭、左兵衛督[4]。 生涯寛永19年(1642年)10月24日、第3代藩主・尊信の長男として生まれた[2][4]。足利義昭で絶えた足利氏宗家(将軍家)を継承する者として、その1字をとって昭氏と名乗った[要出典]。 正保4年(1647年)、藩の主導権をめぐって喜連川騒動が起こった。慶安元年(1648年)、父・尊信の隠居により7歳で跡を継ぐ[4]。慶安3年(1650年)、徳川家光の命により、榊原忠次[5]が後見人となった[6]。正徳3年(1713年)11月12日に死去した[2][4]。享年72[2][4]。孝山恭公令徳院[4]。 男児がいたが、早世し、養嗣子にした弟の氏信も早世したため、婿養子の氏春が跡を継いだ[4]。
系譜正室 養子 脚注参考文献
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