徳川綱吉
徳川 綱吉(とくがわ つなよし)は、上野・館林藩初代藩主、江戸幕府の第5代将軍(在職:1680年 - 1709年)。第3代将軍・徳川家光の四男。館林徳川家初代。 生涯3代将軍・徳川家光の四男として正保3年(1646年)1月8日、江戸城に生まれる。幼名は徳松(とくまつ)。 慶安4年(1651年)4月、三兄の長松(のちの徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられる。同月には家光が死去し、8月に長兄の徳川家綱が将軍宣下を受ける。承応2年(1653年)8月に家綱の右大臣昇進にあわせて2人の弟は元服し、偏諱(「綱」の字)を受けて長松は綱重、徳松は「綱吉」とそれぞれ名乗った(「松平右馬頭綱吉」と松平姓を称したとされる[1])。同時に従四位下・左近衛権中将・右馬頭に叙任し、同年正三位叙位[2]。 明暦3年(1657年)、明暦の大火で竹橋の自邸が焼失したため9月に神田へ移る。寛文元年(1661年)閏8月、25万石を与えられ上野館林藩主となる[2]。12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称され、徳川姓を名乗ったと考えられる(館林徳川家の創設)。幕府から家臣が付属されており、誕生後から館林藩主となるまで380人近くが派遣された。寛文10年(1670年)に牧野成貞を館林藩家老3,000石に抜擢する。館林藩主となったが、綱吉は基本的に江戸在住であって家臣の8割も神田の御殿に詰めており、生涯で館林に寄ったことは寛文3年の将軍家綱に随伴した日光詣での帰路のみであった[1]。寛文5年11月19日に綱吉は将軍より鷹狩場に行く許可を得、鴈を将軍に献上した後、石川乗政が将軍の返礼の使者として館林の狩場へ赴いているため、綱吉は鷹狩りのため館林に訪れることがあったと想定される[3]。 延宝8年(1680年)5月、家綱に跡継ぎとなれる男子がなく、その養子になれたであろう三兄の綱重も既に亡くなっていたため、家綱の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同月に家綱が40歳で死去したために内大臣および右近衛大将となり、さらに将軍宣下を受ける。 家綱時代の大老・酒井忠清を廃し、自己の将軍職就任に功労があった堀田正俊を大老とした。その後、忠清は病死するが、酒井家を改易にしたい綱吉は大目付に「墓から掘り起こせ」などと命じて病死かどうかを異常なまでに詮議させたという。しかし証拠は出せず、結局は忠清の弟忠能が言いがかりをつけられて改易されるにとどまった。 綱吉は堀田正俊を懐刀とし、処分が確定していた越後高田藩の継承問題(越後騒動)を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出し、「左様せい様」と陰口された家綱時代に下落した将軍権威の向上に努めた。また、幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらった。荻原重秀もここから登用されている。外様大名からも一部幕閣への登用がみられる。 また、戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した。これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍であった。儒学の影響で歴代将軍の中でも最も尊皇心が厚かった将軍としても知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、また大和国と河内国一帯の御陵を調査の上、修復が必要なものに巨額な資金をかけて計66陵を修復させた。公家たちの所領についてもおおむね綱吉時代に倍増している。 のちに赤穂藩主浅野長矩を大名としては異例の即日切腹に処したのも、朝廷との儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな原因であったようである。綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳洲・山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなり、この時代に儒学が隆盛を極めた。 綱吉の治世の前半は、基本的には善政として天和の治と称えられている。 しかし貞享元年(1684年)、堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は儒学の孝に影響されて、母・桂昌院に従一位という前例のない高位を朝廷より賜るなど、特別な処遇をした。桂昌院とゆかりの深い本庄家・牧野家(小諸藩主)などに特別な計らいがあったともいう。 この頃から有名な生類憐みの令をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになった(生類憐れみの令については、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して発布したものであるとされる。なお、一般的に信じられている「過酷な悪法」とする説は、江戸時代史見直しの中で再考されつつある。詳しくは綱吉の#評価を参照のこと)。これらが幕府の財政を悪化させた。勘定吟味役(後の勘定奉行)・荻原重秀の献策による貨幣の改鋳を実施したが、本来改鋳すべき時期をやや逸していたこともあり、また元禄金と元禄銀の品位低下のアンバランス、富裕層による良質の旧貨の退蔵から、かえって経済を混乱させている[4]。 嫡男の徳松が死去した後の将軍後継問題では、綱吉の娘婿(娘・鶴姫の夫)である徳川綱教(紀州徳川家)が候補に上がったが徳川光圀が反対したという説もある。宝永元年(1704年)、6代将軍は甥(兄・綱重の子)で甲府徳川家の綱豊(のちの家宣)に決定する[注釈 1]。綱吉は宝永6年(1709年)1月10日に成人麻疹により死去[5]、享年64(満62歳没)。 死後綱豊改め家宣が将軍になると「生類憐れみの令」はすぐに廃止された[注釈 2]。しかし殺生である鷹狩りは、徳川吉宗(綱教の弟)が8代将軍になった後まで復活することはなかった。 なお吉宗は天和の治を 官歴※日付は旧暦。
評価綱吉の行状については価値の低い史料による報告が誇張されて伝えられている部分もあり、近年では綱吉の政治に対する評価の再検討が行われている。 綱吉は「側近の寵臣以外の意見を軽視し、悪法で民衆を苦しめた」という否定的評価がなされる一方で、元禄4年(1691年)と同5年(1692年)に江戸で綱吉に謁見したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの「非常に英邁な君主であるという印象を受けた」といった評価も受けている(ケンペル著『日本誌』)。ケンペルの綱吉観や両者の交流についてはベアトリス・M. ボダルト・ベイリー『ケンペルと徳川綱吉』(中公新書、1994年 ISBN 4-12-101168-6)に詳しい。 綱吉の治世下は、近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉といった文化人を生んだ元禄期であり、好景気の時代だったことから優れた経済政策を執っていたという評価もある。また、治世の前期と後期の評価を分けて考えるべきだという説もある。前期における幕政刷新の試みはある程度成功しており、享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗も綱吉の定めた天和令をそのまま「武家諸法度」として採用するなど、その施政には綱吉前期の治世を範とした政策が多いと指摘されている。 深井雅海によれば、綱吉はその治世を通して46家の大名を改易もしくは減封し、1297名の旗本・御家人を処罰している[6]。旗本の5人に1人は何らかの処罰を受けたことになるが、処罰の理由として際だって多いのが「勤務不良」(408名)と「故ありて」(315名)である。深井は旗本の大量処罰を「封建官僚機構の整備」と評価している[6]。一方で、処罰された旗本の32パーセントは小姓や近習といった行政官僚ではない役職で、その理由の多くは仔細不明の「故ありて」に該当し、政治的な意図のない恣意的な人事も相当数行われたと考えられる[6]。『徳川実紀』附録巻下には、柳沢吉保が旗本の処罰があまりに厳しいことについて、家康以来の家臣である彼らを「扇子・鼻紙などのごとく」軽々しく扱ってはならない、と諫言したとある[6]。 綱吉の治世の評価が低いことについては、晩年期に頻発した不幸な偶然もいくつかあると指摘されている。具体的には、元禄8年(1695年)頃から始まる奥州の飢饉、元禄11年(1698年)の勅額大火[注釈 3]、元禄16年(1703年)の元禄地震・火事、宝永元年(1704年)前後の浅間山噴火・諸国の洪水、宝永4年(1707年)の宝永地震・富士山噴火、および宝永5年(1708年)の京都大火などである[9]。それらは、現代では治世の評価を左右するものとは考えにくいが、当時はこういった天変地異を「天罰(=主君の徳が無いために起こった)」と捉える風潮が残っていた[9][7]。 新井白石は、元禄8年(1695年)以来始まった貨幣改鋳は、近年の奢侈流行による幕府の出費拡大の穴埋めのために金銀の如き天地から生まれた大宝に混ぜ物をした結果、天災地変を招いたのであって、これよりひどい悪政は前後にその類を見ないと酷評した[7][10][11]。 また、現代においての評価はテレビドラマによるところが大きい。綱吉がドラマに登場するのは基本的に『忠臣蔵』関連か『水戸黄門』関連のドラマのどちらかであることが多いためである。 『忠臣蔵』(赤穂事件)では大抵の場合、高家・吉良義央が浅野長矩へ悪態を見せる姿が描かれる。その結果、長矩にのみ切腹を命じて義央の罪を問わなかった綱吉には義央の悪態に加担したかのような否定的イメージが付きまとってしまう。このことも、綱吉の評価を実際以上に低めていると言える。 綱吉のもう一つの不運は、「水戸黄門」徳川光圀の存在である。光圀には生類憐れみの令に抗議して犬の毛皮を送ったという逸話を中心に綱吉に直言したという記録がいくつかあるため、『水戸黄門』の物語中では悪役を割り当てられてしまっている。また、光圀が『大日本史』を編纂し、綱吉が自ら『易経』を講じるなど、類似した方向性を持っていたことから、水戸黄門ファンの中には、黄門を持ち上げるためにことさらに綱吉をけなすという風潮もある[12]。 綱吉再評価に関する文献として、代表的で入手が容易なものとして、塚本学『徳川綱吉』(吉川弘文館、1998年)、山室恭子『黄門さまと犬公方』(文春新書、1998年 ISBN 4-16-660010-9)が挙げられる。また、2004年12月28日にフジテレビ系列で放送されたドラマ『徳川綱吉 イヌと呼ばれた男』も、この再評価に連なる系列のものである。 綱吉と能家康以来、代々の将軍は能を愛好してきたが、綱吉はその中でも「能狂」[13]と言われるほどの執着を示した。綱吉の能狂の特徴として、能楽研究者の表章は以下の5点を挙げる[13]。
まず1については、将軍就任後間もない延宝9年(1681年)2月、桂昌院のために催した能で、自ら「船弁慶」「猩々」を舞うなど、早い時期から見られる傾向である。これは年を追うごとに頻度を増し、江戸城内のみならず、寵臣邸や寺社へ赴く際には、儒学の講義に続いて綱吉が能を舞うことが常であり[注釈 4]、元禄10年(1687年)には71番の能、150番以上の舞囃子を舞っている。諸大名や公家もまた、追従としてその拙い能を所望せねばならなかった[13]。 2についても、将軍就任当初から小姓に能を舞わせるなどしていたが、後には側近ばかりか大大名にもこれを強制した。貞享3年(1686年)4月、徳川綱教・前田綱紀・徳川光友・徳川綱豊・徳川光貞・徳川光圀・徳川綱誠・徳川綱條による能が催されているのがその好例であるが、この場合も彼らは直前になって綱吉の命を受け、慌てて稽古をせねばならなかった。綱吉が宝生流を好んだため、諸大名も宝生流を取り立てたことが、現在まで加賀などで宝生流が盛んな一因となった[13]。 3の例となるのは、宝生大夫による「道成寺」の小鼓を打つことを命じられた小鼓観世家当主・観世新九郎が、流派が違うことを理由にこれを拒否したことに対し、天和3年(1683年)2月に新九郎父子を追放、翌3月、宝生座に移籍させ姓まで宝生に変えさせて呼び戻した一件である。他にも館林時代のお抱え役者の登用、さらに貞享3年には喜多流三世・喜多七太夫宗能を追放し、喜多座を解体するという「能界を震撼させる大事件」を起こしている(翌年赦免)[13]。 4については、『徳川実紀』にも批判する文章が載せられている。士分に取り立てられた役者は、特に貞享以後はこのために新設された廊下番のポストにつけられて表向き能役者を廃業し、綱吉が城中で私的に催す能に出演させられた。当初は五座以外の役者を士分としていたが、次第に諸座の大夫・家元クラスがその対象となっていった。これを断ればやはり追放が待っており、当主・後継者を奪われた各家は大きく混乱した。特に大夫を2度にわたって取り立てられた喜多座では、分家の権左衛門家が断絶を余儀無くされている。登用された役者たちは、三世喜多七太夫宗能改め中条直景のように900石取りにまで出世するものもいたが、五世喜多七太夫恒能のように綱吉の男色の相手を断り切腹させられるなど、多くは過酷な運命をたどることとなった[13]。 5であるが、綱吉は日頃演じられない珍しい曲を観ることを好み、廃絶されていた古曲を積極的に復曲させて上演させた。それまで長く演じられなかったにもかかわらず、綱吉の時代に復活した曲は実に41番にも及ぶ。もっともこれも、6日ほど前に急に命じられ、慌てて間に合わせたものがほとんどであったが、そのうち20番は現在まで各流派で演じられており、中には「雨月」「大原御幸」「蝉丸」など現在でも高く評価されている曲が含まれている。同様の傾向のあった家宣による復曲と合わせ、「怪我の功名」ながら、これは後世に残る業績となっている[13]。 その他
室と子女
偏諱を受けた人物(※凡例:[ ]内は初名、( )内の「世子」は藩主になる予定であったが継ぐ前に亡くなった人物を、それぞれ示す。)
関連作品在任中に赤穂事件が起きたことから、忠臣蔵やその関連作品にたびたび登場する。 小説
映画
テレビドラマ
漫画脚注注釈
出典
参考文献
外部リンク |