徳川 家治(とくがわ いえはる)は、江戸幕府の第10代将軍(在任:1760年 - 1786年)である。第9代将軍徳川家重の長男。
生涯
元文2年5月22日、第9代将軍・徳川家重の長男として江戸城西ノ丸にて生まれる。母は梅渓通条の娘・梅渓幸子(至心院)。幼名は竹千代。幼少時よりその聡明さから、第8代将軍であった祖父・吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育った。吉宗は死亡するまで、家治に直接の教育・指導を行った。それは、言語不明瞭だった家重に伝授できなかった帝王学の類を教えるためでもあった。家治は文武に明るかったが、これも吉宗の影響が非常に大きい。寛保元年 (1741年)8月、元服して権大納言に叙任する。宝暦4年(1754年)12月に直仁親王の娘・五十宮と結婚した。
宝暦10年(1760年)5月3日、父の隠居[注釈 1]により徳川宗家の家督を相続し、9月2日には正式に将軍宣下を受けて第10代将軍職を継承し、正二位・内大臣に昇叙する。
父の遺言に従い、田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励んだ。しかし松平武元が死亡すると、田沼を老中に任命し幕政を任せ、次第に自らは将棋などの趣味に没頭することが多くなった。田沼は印旛沼・手賀沼干拓を実施し、蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画する。
安永8年 (1779年) 、世子・徳川家基が18歳で急死したため、天明元年(1781年)に一橋家当主・徳川治済の長男・豊千代(後の第11代将軍・徳川家斉)を養子とした。
天明6年(1786年)8月25日に死去。享年50。(満49歳没)死因は脚気衝心(脚気による心不全)と推定されている[注釈 2][1]。
高貴な人の死は1カ月ほど秘されるのが通例(発葬されたのは9月8日・新暦9月29日)だが、その間に反田沼派の策謀により田沼意次が失脚。また、意次が薦めた医師(日向陶庵・若林敬順)の薬を飲んだ後に家治が危篤に陥ったため、田沼が毒を盛ったのではないかという噂が流れた。
墓所は東京都台東区上野の寛永寺。
評価
幕政は家臣に任せ、趣味に没頭していたが、その趣味の分野では高い能力を示している。そのため、将軍として主体的に権力の行使を行わなかったことについて、ただ単にやる気がなかっただけとする説もある。
一方、「田沼意次を重用した事自体が英断である」として、高く評価する意見もある[注釈 3]。意次が大胆な重商主義政策を推進し得たのも家治の後援あってのことであり、前述の通り家治の死によって田沼は失脚する。暗君という評価は田沼に対する悪評価とワンセットのものであり、その田沼に対する評価が大幅に改められた現在においても、家治に対する評価はまだまだ過去の暗君説を引き継いでいるのが現状である。
人物・逸話
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- 祖父・吉宗から特に寵愛された孫であった[2]。吉宗は家治に期待を寄せ、自ら帝王学や武術などを教え込んだという。さらに家治に付けた小姓などにも自ら養育を施し、後継者体制を万全なものにしたという。
- 学芸の才能に恵まれ、書画を得意としたという。
- 将棋を趣味としていた。七段を允許されている。
- 棋譜が残っており、関西将棋会館にあった将棋博物館のサイトの記述では「周囲が若干緩めて対局している風が棋譜から感じられ、正直実力七段は疑問ではあるが、 非常に筋の良い軽い棋風で現在のアマ高段の力は十分にある」と評価されている[3]。
- 家治は新しい将棋用語を考案し、例えば右上から「いろはにほへとちりぬるを」などと呼んだ。
- 詰将棋を作成する才能に優れ、図式集『御撰象棊攷格』百番を著している。詰将棋作家としても名高いプロ棋士の二上達也は、家治の指将棋については「所詮は旦那芸」と切り捨てているが、詰将棋については「他の追随を許さぬ名作・好作を残している」と絶賛している[4]。
- 七国象棋を好んだ。
- 一方で素行は悪く、対局中に難局の場面で、待ったをして、駒を元に戻したとも伝えられている。
- 将軍の起床は6時となっていたが、50歳近くになった家治は早く目を覚ますことが多くなった。そんな時は座敷の中の音を立てないように、行ったり来たりして、6時になるのをひたすら待っていた。厠に行く時も当番の御納戸役を起こさないように抜き足差し足で廊下を歩いたという[注釈 4]。
- 祖父である吉宗のように名君たらんと、常に意識し、食べ物にして変わったものが出ると「これは先々代様も食べられたものか?」と確認するほどだったという。また将軍としての私生活においては、吉宗以上の質素倹約に努め、大奥の経費を吉宗の頃よりさらに3割削減している。また祖父・吉宗と同じく、よく鷹狩りに出かけていたという。
- ある激しい雨の日、家治は一人の近習が空を見上げ溜息をついているのを目にした。別の者にその訳を聞いたところ、「あの者は貧しく、家が朽ちて雨漏りがしており、今頃親が苦心していることを思っているのでしょう」と答えた。更に家治は幾らあれば直せるのかと聞くと、「100両もあれば直せると思います」と答えた。家治は密かに溜息をついていた近習を呼ぶと「孝を尽くせ」と100両を渡したという。
- 徳川将軍家では例外的に愛妻家であった。御台所・五十宮との間に2女を儲けるも(これ自体が異例)、男子を得る事ができなかった。近臣が側室を薦めてもなかなか選ばず、遂に田沼意次の薦めで側室を選ぶ代わりに田沼も側室をもつことを条件にした。家基の出生後は家基を五十宮のもとで養育させた。また側室2人がそれぞれ男児を産んだ後はお役御免かのように通わなくなった。
- 東インド会社オランダ商館長(カピタン)イサーク・ティチングは家治に謁見した。
- 大樹寺に納められている位牌が、将軍の身長とほぼ同じ高さであるとする説があり、これによると家治の身長は153センチと推測される。しかし、家重の位牌は151センチで実際の身長が156センチであることから、家治の身長はそれよりも高い158センチとする説もある(大樹寺#歴代将軍位牌を参照)。
年譜
- 寛保元年(1741年) - 8月12日:元服し家治を名乗る、従二位権大納言に叙任
- 宝暦10年(1760年)- 2月4日:右近衛大将を兼帯。9月2日:正二位内大臣に昇進、右近衛大将元の如し、併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
- 安永9年(1780年)- 9月4日:右大臣に昇進、右近衛大将元の如し。
- 天明6年(1786年)- 9月8日:死去。9月22日:贈正一位太政大臣。
系譜
偏諱を受けた者
関連作品
- テレビドラマ
脚注
注釈
- ^ 家重自身の健康問題もあったが、言語不明瞭な家重の「口」代わりを務めた大岡忠光の健康悪化によって、家重はこれ以上の政務の継続は困難と判断したとされる。
- ^ 晩年は足のむくみに悩まされていたと伝わる。
- ^ もともと田沼を重用したのは家治の父・家重であり、彼は家治に「田沼はまっとうの者だから、行々心をそえて召使うるように」と遺言していた。ただし田沼を側用人兼老中という、前例の無い大抜擢をしたのは家治である。
- ^ これに非常に良く似た逸話を持っている人物として知られているのが伊達政宗である
出典
外部リンク
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- 家康 1566 - 1605
- 秀忠 1605 - 1623
- 家光 1623 - 1651
- 家綱 1651 - 1680
- 綱吉 1680 - 1709
- 家宣 1709 - 1712
- 家継 1713 - 1716
- 吉宗 1716 - 1745
- 家重 1745 - 1760
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