徳川治国
徳川 治国(とくがわ はるくに)は、江戸時代中期の御三卿・一橋徳川家の世子。 略歴安永5年(1776年)5月11日、徳川治済の次男として誕生[1]。母は丸山氏[1]。幼名は力之助[1]。天明元年(1781年)5月18日、兄・豊千代(のち11代将軍・徳川家斉)が10代将軍・徳川家治の養子となったため、同年7月18日、治国が一橋徳川家の世子となる[1][2]。 天明6年(1786年)5月15日に元服し、将軍・家治から偏諱を受けて治国と名乗り、刑部卿に任じられる[1][3]。 天明7年(1787年)3月9日、従三位左近衛権中将に叙任される[3]。同年4月15日、兄・家斉が将軍となった[2]。寛政3年(1791年)12月15日、二条治孝の娘・隆子を正室とした[1][3]。 寛政5年(1793年)4月8日、18歳で死去した[1][3]。法号は敬宗院[4][3]。 同年8月23日、長男・斉朝が誕生した[4]。母は隆子[4]。斉朝は、はじめ伯父・一橋斉敦の養子、のち、徳川宗睦の養子となり[4]、尾張藩藩主を継いだ[5]。 寛政11年(1799年)1月27日、弟・斉敦が一橋家を継いだ[4]。 脚注
参考文献 |