黒田斉隆
黒田 斉隆(くろだ なりたか)は、江戸時代後期の大名。筑前国福岡藩第9代藩主[1]。はじめ 生涯安永6年(1777年)9月21日、一橋徳川家第2代当主・徳川治済の三男として生まれる[4]。母について、「一橋徳川家記」は側室・岩本氏[4]、『寛政重修諸家譜』では丸山氏としている[2]。幼名は雅之助[4] 。 天明2年(1782年)10月、福岡藩主・黒田治高の末期養子となる[5][2]。同年12月19日、6歳で福岡藩黒田家の家督を相続する[4][2][5]。同3年4月7日、桜田邸へ居を移す[4]。 天明3年(1783年)、重臣たちの献策もあり、藩儒・竹田定良と、儒医・亀井南冥に、藩校を創建することを命じる。天明4年(1784年)、定良が修猷館(東学問稽古所)(現在の福岡県立修猷館高等学校)、南冥が甘棠館(西学問稽古所)を開館している[6]。 寛政2年(1790年)9月15日、実兄・家斉が将軍就任後、はじめて拝謁した[2]。このとき、拝謁の前後は大廊下の休息所にいるよう命じられた[2]。 同年10月25日、元服し、家斉から偏諱を授かり、斉隆と改めた[2]。また、従四位下侍従兼筑前守に叙任された[4][2]。 寛政5年2月28日、はじめて入国の暇を家斉にゆるされたとき、斉隆が常に病患があることを慮り、また初めての旅行であることから、侍医・橘隆庵を同行させた[2]。同年4月、領地福岡に入る[5]。翌年、領内を巡見し、領民の暮らしぶりを見て周り、顕彰をした[6]。 寛政7年(1795年)6月、斉隆が病にかかったことが家斉の耳に入り、再び、隆庵を福岡に送った[2]。 同月23日、福岡城にて死去した[5]。19歳[4]。幕府には同年8月24日死去と届け出た。法名は周山紹礼敬徳院[4]。黒田孝高や長政などと同じく崇福寺(筑前国那珂郡博多)に葬られた[2][7][8]。 同年10月6日、側室・渡辺氏(真妙院)との子・松次郎(のちの斉清)が遺領を継いだ[2][1]。 斉隆の治世中には、黒田家の先祖を祀る事跡があった。天明3年(1783年)に第3代藩主・黒田光之に廃された黒田綱之を祀る幹亮権現社を創立し、同年には初代・長政を祀る黒崎大明神を再興した[6]。また、黒田孝高の父・職隆の墓所が播磨国姫路にて発見され、二百回忌の法要、および墓所の築造が当地にて行われた[6]。 家督の継承について
脚注注釈出典
参考文献
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