黒田治之
黒田 治之(くろだ はるゆき)は、筑前国福岡藩の第7代藩主[2]。第8代将軍・徳川吉宗の孫であり、第11代将軍・徳川家斉や、福岡藩第9代藩主・黒田斉隆の叔父にあたる。 生涯宝暦2年(1753年)12月1日、御三卿・一橋徳川家の初代当主・徳川宗尹の五男[3][4]として、江戸城内の一橋邸にて生まれた[5][2]。母は細田時義の娘由加[4]。幼名は隼之助[4][2]。 宝暦13年(1763年)11月23日、11歳のとき、福岡藩主・黒田継高の養嗣子となり[5][4]、高満を名乗る[2]。同日、松平を称する[4]。明和元年(1764年)2月16日、桜田の藩邸に移った[5][2]。 明和2年(1765年)12月15日、従兄で10代将軍の徳川家治に御目見した[2][4]。同3年(1766年)7月18日、元服し、家治の偏諱を受けて治之に改名、従四位下侍従、式部大輔に叙任する[4][5][2]。 明和6年(1769年)12月10日、継高の隠居により家督を相続、同年12月13日、筑前守となる[4][5][2]。 明和7年(1770年)4月、初めて福岡に入った[5][2]。明和8年(1771年)2月から4月にかけて国内を巡見した[5]。また、亀井南冥を抜擢した。 明和8年(1771年)8月9日、許婚者だったお屋世(黒田重政の娘)が11歳で世を去った[6][4][7]。これにより黒田本家において、藩祖・黒田孝高、初代・黒田長政以来の血筋は途絶えることとなった。 安永元年(1772年)12月20日、側室・鈴木氏との間に男子が誕生し、養父・継高により隼三郎と名付けられた[8][4]。 安永3年(1774年)、越後国高田城城主・榊原政永の娘・おかめ(亀姫、瑶津院)と婚約した(黒田長政の二女が榊原忠次に嫁いでいた縁による)[9][4][7]。 安永6年(1777年)9月25日、子・隼三郎が6歳で死去した[10]。 天明元年(1781年)8月21日、死去した[2]。30歳[4][2][7]。典山紹靖鳳陽院[4]。崇福寺に葬られた[11]。 幕府へは、同年秋に病にかかり、京極高文の弟・高幸(黒田治高)を養子とし、同年11月21日(『寛政重修諸家譜』では11月20日[4])に死去したと届け出た[2]。 天明4年(1784年)、治之の遺言により学問所が設置されている。 許嫁・お屋世明和8年(1771年)8月9日、11歳のとき死去[6]。同月17日、祥雲寺に葬られ、眞如院月峯妙輝と追号された[6]。また、遺髪は高野山正智院と崇福寺におさめられた[6]。 子・隼三郎安永6年(1777年)9月25日、6歳で死去した[10]。同月27日、遺体は崇福寺に送られた[10]。眞常院玉峯宗琇と追号された[10]。遺髪は高野山にもおさめられた[12]。 系譜脚注
参考文献
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