黒田重政
黒田 重政(くろだ しげまさ)は、江戸時代中期の筑前国福岡藩の世嗣。通称は左京。官位は従四位下・修理大夫。 略歴元文2年9月10日(1737年10月3日)、6代藩主・黒田継高の次男として福岡城内下の館にて誕生した。生母は側室の智海院(横寺氏、のち小寺氏と改める)。側室所生であったが当初より継高正室圭光院の子、世子として扱われ[2]、初抱きは大老黒田美作、蟇目は黒田惣右衛門といずれも一門が務めた。お七夜に左京と命名され、延享4年(1747年)鎧初の儀に際して長賢(ながかた)と改めた。この時、継高より鎧と一の谷兜を譲られている。 寛延元年(1748年)正月15日、9代将軍・徳川家重に初御目見し、11月28日に元服した[3]、松平姓を与えられ[4]、家重より偏諱を受けて重政と改名した。同時に従四位下、修理大夫に叙任する。この時、家重並びに大御所吉宗、世子家治との献上、下賜の贈答があった。この時をはじめ、登城の際には叔父である秋月藩主・黒田長邦が多く伴われ、また名代を務めている。翌寛延2年(1749年)には定府馬廻の高木太左衛門が使者として上洛し、正式に従四位下、修理大夫に叙任された。同年、かねて内約のあった島津継豊の娘・菊姫と婚約した。幼少時より「実に父君の風あり」「英明の器量ましまし」(『黒田新続家譜巻之二十七』)と将来を嘱望されていた。 宝暦5年(1755年)、菊姫と結婚した。宝暦7年(1757年)に帰国を許され、宝暦8年(1758年)1月25日に初のお国入りを果たす。この時、弟・長経と兵法の間で対面している。同年5月には家中諸士の礼を受け、10月江戸に初参勤、世子として将軍家重に拝謁する。これ以降、継高の名代を果たす機会が増え、宝暦10年(1760年)の帰国時には単独で二の丸にて家臣の武術を見、8月には継高に伴われて長崎へ赴き実地を見聞した。このように着々と次期藩主としての地歩を固めていた。 宝暦12年(1762年)6月、浮腫を発し重篤となり、7月14日に父に先立ち26歳で早世した。瑛光院瑞嶽紹鳳と追諡された。弟・長経も翌年に早世し、これによって初代藩主・長政以来の黒田本家の血統は途絶えることとなった。 墓所は福岡市博多区千代、崇福寺。 系譜脚注
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