徳川治行
徳川 治行(とくがわ はるゆき)は、江戸時代中期の大名。美濃国高須藩5代藩主。後に尾張徳川家世子となる。官位は従三位・左近衛中将、参議。 生涯高須藩4代藩主・松平義敏の長男として誕生。母は陸奥国守山藩主・松平頼寛の娘。 明和8年(1771年)6月13日、義敏の死去により家督を相続する。高須藩時代の名乗りは松平 義柄(まつだいら よしえ)。安永3年(1774年)8月15日、10代将軍・徳川家治に御目見する。同年12月18日、従四位下・侍従・摂津守に叙任する。 安永6年(1777年)1月25日、2人の息子(治休・治興)に先立たれていた本家の尾張藩主・徳川宗睦の養嗣子となり、将軍・家治の偏諱を受けて徳川治行と改名、従三位・左中将に昇進し、後に参議に任官した(代わって弟の松平義裕が高須藩主を継いだ)。しかし、寛政5年(1793年)8月晦日、養父・宗睦に先立ち死亡した。同年9月5日、死亡が公表された。法名は憲聡院殿。号は源白世子。 尾張藩嫡子には、一橋家から斉朝(第11代将軍徳川家斉の甥)が迎えられた。 系譜子女は1男1女。 |