鷹司 輔信(たかつかさ すけのぶ)は、江戸時代前期から中期にかけての公家・茶人。号は有隣軒。
来歴
関白・鷹司房輔の三男[1]として生まれる。母は家女房。壮年から若干の眼疾を患っていたと言われており、そのためか生涯無位無官ですごした。茶を慈胤法親王に学んだ。自筆の和歌懐紙をはじめ、自作の茶碗や茶杓が複数現存するほか、釜などの好みの茶道具なども残っている。晩年は剃髪し洛東頂妙寺内の蓮乗院に住した。[2]
寛保元年(1741年)10月3日に死去。享年は74[3]など諸説ある。特にほとんどの史料で享年62歳と記されているが、逆算すると生年は延宝8年(1680年)。だが長女八重姫の生年が元禄2年(1689年)、もしくは元禄3年(1690年)なので享年62歳という記述は誤記の可能性が高い。
茶人として知られ、土肥自在軒らとも交流があった[4]。
系譜
脚注
- ^ 「光台一覧巻三」には兼煕の兄と記述されている。
- ^ 山口吉郎兵衛『茶人 鷹司輔信』リーチ、昭和38年版、12-13頁より引用
- ^ 『通兄公記』寛保元年十月九日条
- ^ 『朝日日本歴史人物事典』