藤原定家自筆本源氏物語藤原定家自筆本源氏物語(ふじわらていかじひつほんげんじものがたり)とは、藤原定家により書写された『源氏物語』の写本のこと。「定家自筆本」などとも呼ばれる。 概要藤原定家はさまざまな古典を書写し、本文を整えたことが知られており、『源氏物語』についても写本を作成したことが定家の日記『明月記』などの記述によって知られる。室町時代半ば以降主流となった青表紙本(この名称自体がこの藤原定家自筆写本に青い色の表紙が付されたとされることに由来するものであるが、現存する写本に付されている葵色の表紙はおそらくは後世になって付された物であると考えられるようになっている[1]。)と呼ばれる本文系統の宗本にあたるものである。河海抄では「定家卿本」、光源氏物語本事では「京極中納言本」と呼ばれている。 定家の子孫は定家の子藤原為家の後、為家の嫡男為氏を祖とする二条家、為氏の弟・為教を祖とする京極家、為氏・為教の異母弟である為相を祖とする冷泉家の3家に分裂し、財政的な面での基盤である領地(荘園)とともに家業である和歌・古典の家であるための基盤である貴重な古写本類も奪い合いになった。冷泉家と近かった京極為兼は定家自筆の『源氏物語』は「定家の子藤原為家の時代に失われた」としているが、冷泉家と対立した二条家の二条為世が『延慶両卿訴陳状』に収められた陳状で述べるところによれば「青表紙源氏物語一部」が存在しており、おそらくは冷泉家の関係者が持っているのだろうとしている。その後中世末期まではばらばらではあるもののそれなりに現存したと見られているが、現在では「花散里」、「行幸」、「柏木」、「早蕨」、「野分」、「若紫」の6帖についてのみ定家自筆とされる写本が現存している。 『明月記』の記事定家の日記である『明月記』には『源氏物語』の書写に関して何カ所かの記事が存在する。
元になった本と書写態度この写本がどのような写本を書写したものであるのかは全く不明である。定家の父藤原俊成の所持本を元にした可能性を指摘されることがあるが、定家は「元々家には証本と呼びうる源氏物語の本があったが建久年間にそれを盗まれた。それ以後嘉禄元年まで定家の証本とすべき完本はなかった。」と述べており、また注釈書に引かれている俊成本の本文とこの定家本の本文は異なっている[2]。 また、元となったただ一つの写本を忠実に写しとったのか、それとも複数の写本を比較したり、何らかの考察を加えて校訂を施したのかについても、かつては定家が選んだただ一つの写本(古伝本系別本)を忠実に写しとったと考えられていたが、『土佐日記』など定家の他の古典の書写に対する態度との比較や自筆本奧入に含まれる本文に対して校勘の跡が見られることなどから現在では仮名遣いなどを中心にある程度の手が加わっているとする見方が有力である。 特徴池田亀鑑は、青表紙本の祖本たるこの定家自筆本の外形的な特徴をより多く維持している写本ほど本文の質についても青表紙本としての本文をよりよく維持しているとして、定家自筆本の特徴として以下のような点を挙げ、それをさまざまな写本について検討した結果、定家自筆本を除けば大島本を最も良質な青表紙本の写本、池田本をそれに次ぐ地位にある写本であるとし、この結果「定家自筆本→大島本→池田本」の順位でそれぞれ校異源氏物語及び源氏物語大成校異編の底本に採用した。
但しこれらの点については
のように当てはまらない事例も存在する。 写本の外形的な性質と本文の質を結び付けることについては、阿部秋生等から「本文の質の善悪の判断は、あくまで本文そのものの質を比較した結果を基にするべきであって、本文の質を比較した結果外形的な特徴が多く共通している写本がより良質の本文を保持しているという結論が出たのならともかくそのような調査も比較検討もなしに写本の外形的な性質と本文の質を結び付けるというのは考察の順序が逆ではないか」といった批判を受けるようになっている[3]。 現存状況現在、藤原定家自らが筆をとったとされる源氏物語の写本として「花散里」、「行幸」、「柏木」、「早蕨」、「野分」、「若紫」の6帖のみが断片的に現存しているが、その多くはさまざまな問題を含んでいるために定家筆としては扱われないこともある。
自筆本奧入定家による源氏物語の注釈書「奥入」は、もともとはこの定家自筆本の各巻の巻末に書き付けられていた注釈を切り取って1冊の独立した注釈書に仕立てたものである。定家自筆の「奥入」が一部現存している(個人蔵、国宝)。この「自筆本奥入」には、奥入の成立の事情をそのまま反映した形で各巻巻末の本文が切り取られたままに残っているために、これも一つの「定家自筆本源氏物語」(の断簡)と見ることが出来る[16]。 現存しない定家本上記の現存する巻以外に、桐壺[注釈 4]、帚木[注釈 5]、花宴[注釈 6]、葵[注釈 7]、若菜下[注釈 8]、橋姫[注釈 9]については室町時代中期ないし末期までは定家自筆本が存在したらしい痕跡が存在する。また、「桐壺」、「帚木」、「花宴」、「若菜上下」、「柏木」、「橋姫」、「浮舟」については「定家の自筆本を字形・字詰・行数からミセケチ等の校訂の跡まですべてそのまま写した」とされている「東海大学図書館桃園文庫所蔵明融臨模本」が存在するためこの時期までは「臨模本」の元となった「定家自筆本」が存在したと考えられる。 複製本・影印本1978年に「野分」の影印本と「花散里」・「柏木」の複製本が公刊されていたが、2018年に「行幸」「早蕨」の影印本が刊行されたことで、40年を経て定家自筆本5巻全ての刊行がなされることとなった。2019年に発見された「若紫」も2020年に印影本が刊行された。
参考文献
脚注注釈出典
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia