源氏物語礼讃歌「源氏物語礼讃歌」(げんじものがたりらいさんか)は、与謝野晶子による『源氏物語』の各帖を詠み込んだ、54首からなる和歌の連作である。 概要「源氏物語礼讃歌」とは、与謝野晶子による源氏物語の各帖の情景を詠み込んだ54首(一部例外あり)からなる和歌の連作である。 「源氏物語の各帖を詠み込んだ和歌」としては、各帖の巻名をその中に詠み込んだ「源氏物語巻名歌」と呼ばれるものが古くから多くの人々によって作られてきた。与謝野晶子のこの作品は、巻名を含んでいる和歌もいくつか含まれてあるものの、多くの和歌は巻名を含んでいない[1][2]。 『源氏物語』の影響が認められる歌を多数作った与謝野晶子が、生前に『源氏物語』を主題としてまとめたものとしては唯一の連作である。1924年(大正13年)5月刊行の19番目の歌集『流星の道』(新潮社刊行)の冒頭に「絵巻のために 源氏物語」として収められているが、1938年(昭和13年)10月から1939年(昭和14年)9月に金尾文淵堂から出版された与謝野の『新新訳源氏物語』にも、各帖の冒頭に本作が付されている。 このような印刷物として残されたもののほかに「一点もの」として、屏風・色紙・短冊などに揮毫されたものもいくつか残されている。それらの内容は大体において同じながらすこしずつ異なっており、本作は長年にわたってくり返し推敲を加えられていた「成長・発展していく作品」であったと見られる[3]。 2つ(関東大震災のために公表されることなく失われたものを含めると3つ)の『源氏物語』の現代語訳(与謝野晶子訳源氏物語)、『源氏物語』や紫式部について考察したさまざまな論考、晶子の生前には公表されることのなかった「梗概源氏物語」などと並んで、『源氏物語』に関係する晶子の業績の一つとして挙げられる[4]。 与謝野晶子の和歌と源氏物語生涯で5万首ともいわれる多作な歌人である与謝野晶子が詠んだ和歌の中には、さまざまな形で『源氏物語』の影響が認められるとされる。これらの和歌を「源氏物語とのかかわりの現れ方」という点から分類すると、
などとなり、このような形で『源氏物語』の影響が認められるものが数多くある。これらの『源氏物語』の影響が認められる和歌は、晶子の歌集や雑誌などの発表媒体に1首または数首づつばらばらに含まれており、まとまって含まれるものは、晶子の没後にその高弟であった平野万里が『晶子秀歌選』を編纂した際に、『源氏物語』の影響が認められる和歌67首をまとめて「源氏振り」と命名してまとめたもの[10]くらいである[11]。そのような中で、晶子による『源氏物語』をテーマとして詠まれた和歌がまとめられている唯一の連作が「源氏物語礼讃歌」である。 名称この歌の連作は、与謝野晶子自身によっても
他さまざまな名称がつけられているが、晶子の研究者はおおむねこれを「源氏物語礼讃歌」「源氏礼讃歌」「源氏礼讃」などと呼んでいる[12]。 成立と発展の歴史成立のきっかけかつてはこの讃歌は、藤原定家の『源氏物語巻名歌』の影響を受けたものと考えられていたが[13][14]、晶子自身の書簡の記述により、小林一三の自宅に招かれた際に見て感動を受けた「上田秋成の源氏五十四帖の歌の屏風」の影響によって作られるようになったことが明らかになった[15]。 与謝野鉄幹と晶子の夫妻は、自身の生活や借金返済等のために地方へ赴いて、人々の求めに応じて(対価を得た上で)自身の和歌を屏風・色紙・短冊などに揮毫する「歌行脚」を、生涯に何度か行っている。この「歌行脚」の最初のものは、欧州行きの資金を集めるために1917年(大正6年)5月28日から7月9日までの間、関西及び九州の各地に滞在して行われたものであった。 小林一三は、この歌行脚の途中で小林天眠宅に滞在していた与謝野夫妻を自宅に招待したらしく、一三の没後にその蒐集物を管理している池田文庫に残されている与謝野晶子の1917年(大正6年)6月4日付小林一三宛書簡によると、晶子はこの招待に対して「8日か11日ならば」と返事しており[16]、正確な日付不明ながらこの後間もなく小林一三邸を訪れたと見られる[17]。このとき晶子は、小林一三が1917年(大正6年)4月に購入したばかりの「上田秋成の源氏五十四帖の歌の屏風」[18]を見て感動を受けたらしく、逸翁美術館に残る「源氏物語短冊五十四枚」に付された1920年(大正9年)1月25日付小林一三宛与謝野晶子書簡において「いつか自分もあのようなものを作りたいと思った」と述べている[19][20]。 最初の源氏物語礼讃歌与謝野晶子の1917年(大正6年)6月4日付小林一三宛書簡によると、晶子自身は小林一三に送った和歌短冊について「昨年末にある人から頼まれて作ったものに推敲を重ねたものがこれである」としており、また与謝野夫妻の次男与謝野秀の回想録『縁なき時計 続欧羅巴雑記帳』の中の「花菱草」の章によると、大正7年か8年の年末に『中央公論』編集主幹の瀧田樗陰が与謝野宅に屏風を持ってやってきて晶子に屏風に源氏物語の和歌を揮毫することを依頼して承諾を受け、晶子が最初ノートに書き付けて推敲し、「明後日の夜までに」という約束で1919年(大正8年)12月30日の朝に受け取りに来た瀧田樗陰を待たせて屏風に清書して作られたとされている[21]。「最初ノートに書き付けて推敲した」ことなどから、この種の讃歌で最初に作られたのはこのときのものであると考えられている[注釈 1]。 その後、翌年1月になって作られて小林一三宛に送られ、現在逸翁美術館において「源氏物語短冊五十四枚」として所蔵されているもの[22]が、作成の経緯などから見ても、現存する中では最も制作時期が早いと見られていた。しかし、もともと正宗敦夫に送られ、現在天理大学附属天理図書館の所蔵となっている歌帖「源氏物語の巻々を詠める短歌五十四首」が、「大正己未(=1919年(大正8年))夏」の日付を持つことから、晶子や秀の証言に反して、より古い成立である可能性があるとも考えられている[23]。これについては、晶子自身の書簡の記述や秀の記憶が誤っているとは考え難いことと、天理図書館所蔵本の本文が逸翁美術館所蔵本の本文よりむしろ、それ以後に作られたとされる京都府立総合資料館小林天眠文庫所蔵本の本文に近いことを考えると、天理図書館本は1920年(大正9年)以降の成立であり、「大正己未(=1919年(大正8年))夏」とされる干支は「書き誤られた」と考えるべきなのではないかとする見方もある[24]。 一点ものとしての源氏物語礼讃歌与謝野晶子は当初、この「源氏物語礼讃歌」を活字化するつもりはなかったらしく[25]、先の大正9年1月25日付小林一三宛与謝野晶子書簡には「私の死後、遺稿集でも出すときに入れて欲しい」といった記述がある[26]。その後この「源氏物語礼讃歌」は、「屏風」・「短冊」・「歌帖」・「巻物」などさまざまな形態での配布が行われたものの、これらはいずれもそれぞれ「一点もの」として作られ、ごく親しい人に個人的に送るためのものであった[27]。 1920年(大正9年)3月11日付け小林天眠宛の与謝野晶子書簡によれば、歌人でもある九条武子にも送られていたと考えられる[28][29]。 1920年(大正9年)春になって、与謝野夫妻の最大のスポンサーである小林天眠に送られたものもあり、これは晶子和歌短冊『源氏物語五十四帖』(大正9年春4月日付)として、現在京都府立総合資料館の小林天眠文庫の所蔵となっている[30]。なお、この短冊について、晶子が「柏木」巻の和歌を書いた際に書き損じてしまい、同じ料紙が手に入らなかったためこの1枚だけ別の料紙に書いて送ったが、後に同じ料紙が手に入ったとして書き直して送っている。この2つの和歌短冊は、料紙が異なるだけでなく、和歌そのものが当初送られたと見られる和歌が「死ぬ日にも罪むくひど知るきはの涙に似ざる火のしづくおつ」、後に改めて送られたと見られる和歌が「二ごころ誰先づもちて恋しくも淋しき夜をばつくり初めけん」と、それぞれ全く異なるものになっている。小林天眠は当初送られてきた短冊と後で送られてきた短冊との両方を保存したため、現在も京都府立総合資料館の小林天眠文庫所蔵の晶子和歌短冊『源氏物語五十四帖』には柏木の和歌短冊が2巻含まれている。なお、京都府立総合資料館の小林天眠文庫には、この他に制作年月日不明の晶子歌帖『源氏物語礼讃』も所蔵されている。 1921年(大正10年)11月発行の第2期『明星』第4巻第2号には、「与謝野夫人作歌並書」である『源氏物語礼讃』の広告が掲載されている。これは「平安朝文学に精通し『源氏』、『栄華』の両物語の味解において現代の第一人者たる与謝野夫人」が「源氏物語の各帖を賛美して54首の歌を作り、これを自ら色紙に書して優麗香雅なる高島屋特製の豪華な装丁を施した「空前の一大歌帖」を桐箱に入れたもの」とされており、これを希望する申込先着者1名に限り価格350円にて頒布する旨の広告が掲載されている[31]、これは実際に申込先着者に販売されたという[32]。同種の広告は1939年(昭和14年)9月発行の『冬柏』にも掲載されている[33]。 1934年(昭和9年)1月25日付け与謝野鉄幹の菅沼宗四郎宛書簡には、「石井、正宗、山下三氏の絵に讃歌を認め候」とあり[34]、石井冬拍らの絵にしたためたものもあったと見られる[33]。 1939年(昭和14年)10月に開催された「新新訳源氏物語完成記念祝賀会」の案内においても、54首のうちいずれか1首の揮毫された短冊が金5円、全54首すべてが揮毫された巻物が金100円、特別仕立の巻物を金200円にて販売する旨記されている[35]。これは晶子の高弟平野万里の発案によるものであり[36]、このとき販売された巻物のひとつは堺市博物館の所蔵に[37]、このときは屏風に仕立てたものもつくられたらしく、その一つは現在神戸親和女子大学付属図書館の所蔵になっている[38][39]。また、紫式部の邸宅跡である京都市上京区の廬山寺にも巻物が寄贈されており、これも1939年(昭和14年)の晶子による書とみられている[40]。 印刷物に収められた源氏物語礼讃歌上記のように「一点もの」が数多く作られていく中で、当初の「活字化しない」という方針に反して1922年(大正11年)1月刊行の第2期『明星』第1巻第3号の冒頭に「源氏物語礼讃」として掲載され、初めて活字化される[41][42]。 流星の道さらに1924年(大正13年)5月刊行の第19歌集『流星の道』(新潮社)の中261から289に『太陽』大正11年6月増刊号に「『栄華物語』絵巻に」として掲載された『栄華物語』21首、『人間』大正10年6月号に「をりをりの歌」として掲載された『平家物語』5首とともに「絵巻のために 源氏物語 栄華物語 平家物語」として掲載された[43][44]。本作が、当初の「活字化しない」という方針に反して歌集に収録され広く知られるように方針が変更されたことの理由として、歌集『流星の道』が与謝野晶子としての関東大震災(1923年(大正12年)9月1日発生)後の最初の出版物であり、震災の影響、特にこの震災によって晶子が長年にわたって書き続けてきた『源氏物語』講義の原稿が失われたことの影響が指摘されている[45]。 『流星の道』は与謝野晶子自身が編集に関わり、1933年(昭和8年)10月に刊行された改造社版の『与謝野晶子全集』の第3巻に収録されているが、このときには漢字と仮名の使い分けなどが一部変更されている[46]。 新新訳源氏物語このようにして形成されてきた「源氏物語礼讃」は、1938年(昭和13年)10月から1939年(昭和14年)9月にかけて金尾文淵堂から出版された与謝野晶子の『新新訳源氏物語』の各帖の冒頭をかざることとなった[47]。なお、『新新訳源氏物語』には、和歌に「晶子」との署名が付されていることから『源氏物語』の原文に存在するものではなく与謝野晶子が付け加えたものであることは分かるものの、これらの和歌を書き加えた理由も、これらの和歌が『明星』や『流星の道』に掲載されていたものとほぼ同じものであることの説明も一切ない。また『新新訳源氏物語版』では
といった違いがあるため、他の版より和歌の数が2首多く、全部で56首となっている。 初版では、各帖の冒頭に晶子自筆の和歌が記された色紙の写真が掲載されており、第3巻以降では色紙の次の頁に活字の形で和歌が掲載されている。色紙に記された和歌にはルビは一切記されていないが、翻刻された和歌には『新新訳源氏物語』の本文と同様総ルビとなっている。また色紙に記された和歌と翻刻された和歌は同じであるが、ただ一箇所、匂宮巻において「春(はる)の日(ひ)の光(はかり)の名残(なごり)花(はな)ぞのに匂(にほ)ひ薫(かを)るとおもほゆるかな」が色紙では「薫るおもほゆるかな」となっており、「と」一文字が欠けている。 この『新新訳源氏物語』が完結したことを記念して1939年(昭和14年)10月に開催された「新新訳源氏物語完成記念祝賀会」において『源氏物語礼讃』として参加者に配布された印刷物に収められた[注釈 2][48]。 『新新訳源氏物語』は晶子の没後、さまざまな出版社から刊行されたが、その本文は細かな部分でしばしば晶子自身によるオリジナル版の『新新訳源氏物語』とは異なっている。角川文庫版ではその本文について「新字新かなに直した」と注記されているが、「中には文法的におかしかったり意味が変わってしまったりしているような「改竄」と行っていいような改悪もある」との批判もある。また『新新訳源氏物語』は、角川文庫版以外にも三笠書房、日本書房、河出書房(河出書房新社)などから出版されており、漢字表記や仮名遣い等の手直しをそれぞれ独自に行っているが、これらにもそれぞれ問題が含まれていると指摘されている[49]。 内容とその変遷与謝野晶子は1942年に死去しており、その作品は1993年に著作権の保護期間が満了してパブリック・ドメインで利用できるため、以下その内容を掲載する。 内容の変化については、
があり、この表記の変化については
がある。 以下、巻ごとに概ね成立・発表の時期順に並べる。
なお、巻名の表記は版によって漢字・かなの違いなど多少異なっているものもある。
脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |