紫家七論『紫家七論』(しかしちろん)とは、江戸時代の水戸の国学者である安藤為章(安藤年山、1659年(万治2年)-1716年(享保元年))により著された紫式部および『源氏物語』に関する評論を内容とする『源氏物語』の注釈書。全1巻。1703年(元禄16年)9月の成立。 書名本書の最も一般的な書名は『紫家七論(しかしちろん)』であるが、以下のような様々な名称で呼ばれることもある。
これらの表題に多く使われている「七論」の名は、本書でその議論を作者に関するもの2つと物語に関するもの5つの計7つの項目にまとめていることに由来している。 概要安藤為章が契沖のもとで『万葉集』の講義を受けた際、かねてから考えていた『源氏物語』についての諸説を語り合ったところ同意することが多かったために自説を一冊の書物に仕立て上げたのが本書である。本書は『源氏物語』の注釈書に分類されるが、これ以前に存在した一般的な『源氏物語』の注釈書のように巻序を追って本文を挙げて説明を加えているのではなく、『源氏物語』と紫式部に関するさまざまな問題を七項目(七論)にまとめて論じたものであり、『源氏物語』と紫式部に関する、はじめての本格的作家論であるとされている。『源氏物語』注釈史の中でそれまで余り重要視されていなかった『紫式部日記』を初めて積極的に『源氏物語』解釈に取り入れて、紫式部の生没年や『源氏物語』の執筆時期などについての数多くのそれまでに無かった考察を行った。安藤為章は水戸藩における修史事業に携わる中で数多くの公卿らの日記に接しており、『紫式部日記』を『源氏物語』の解釈に取り入れたことはその歴史研究の手法を『源氏物語』の理解に取り入れたものと考えることが出来る[1]。その結果、長く『源氏物語』成立の事情を説明すると信じられてきた『源氏物語のおこり』について、もし紫式部と源高明とが安和の変以前から知り合っていたとすると式部は五十歳を過ぎてから娘の大弐三位を生んだことになるなどあり得ないことであると指摘して否定したことなど『源氏物語のおこり』に代表される『源氏物語』や紫式部についての伝説的説明を排除して、『源氏物語』の執筆時期などについて現在でも多く支持されている学説を始めて唱えたことなどに研究史上の意義を持つ。 本書は、『源氏物語』の注釈史の中で新注の嚆矢として契沖著の『源注拾遺』(1698年(元禄11年)成立)と並び称されており、これに続く本居宣長などによる国学者の『源氏物語』研究に大きな影響を与えた。本居宣長は本書の内容について批判し否定している部分もあるものの、その著『源氏物語玉の小櫛』の巻一において本書を必読書として挙げている。本居宣長記念館には国の重要文化財に指定されている本居宣長が自ら書写し手元に置いていた本書の写本が現存しており、しばしば展示されている[2]。 内容本書は序文および初めに「紫家系譜」を示した後以下の7章に分けて旧説を引用し、それを批判する体裁をとって議論している。
本文伝本は多いが、内容的には大きな異同はないとされる[要出典]。翻刻本として以下のようなものがある。
現代語訳として以下のものがある(一部抄出)
脚注
参考文献
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