尾高町
尾高町(おだかまち)は、鳥取県米子市の町名。郵便番号は683-0814(米子郵便局管区)。2011年6月1日現在の人口は208人、世帯数は123世帯[1]。 地理江戸期は米子城下十八町の1町。城下町の北部、外濠の北岸に沿って位置する。本通りに面して東西に伸びる旧町人地で、東は西倉吉町、西は岩倉町に隣接する。 町の総間数は約100間、別に藍座通(新小路)108間、天神小路27間があり、西倉吉町とは加茂川橋が境界である[2]。 歴史藩政時代尾高町の町禄(専売権)は、茣座、畳表で、後に呉服、太物、小間物も認められた[2]。町禄の内で、茣座、畳表については、西倉吉町も認められているので取り扱いをめぐって嘉永年間(1848年~1854年)に両町の争いもあったが、一方では出雲表などを勝手に米子城下や在方に売り歩く者があるのを厳重に取り締まってもらうよう両町共同で申請もしている[2]。呉服、太物、小間物は東、西倉吉町でも商いを認められており、城下町の中心部を占める町として当町の商業活動は盛んであった[2]。 当町の新小路筋には19世紀初めごろの文化年間(1804年~1817年)から、藩営の米子藍製座が設けられた[2]。現在の尾高町中央遊園地から凉善寺裏にかけての一帯が、藍座敷地であった[2]。 元禄8年(1695年)の戸数は家持23、借家45、明治2年(1869年)には表世帯39、裏世帯46、人口302人[2]。町制施行の明治21年(1888年)には、商業45戸、農業5戸、雑業41戸、漁業1戸、計92戸であった[2]。 当町の古い商人には、宮本、神庭、村上、野浪、松本、世田、坂口、木瀬、桶谷、古島などがあり、幕末期から住んだ今井芳斎、古林東斎は医師、学者として有名であった[2]。 地名の由来尾高町は、戦国時代まで西伯耆の中心であった尾高城下からの商工業者の移住によった町名とされる[2]。 商工業店・企業明治30年代(1897年~1906年)の当町の営業者状況をみると(『帝國實業名鑑』、『米子みやげ』、『伯耆国実業人名録』)[3]、
明治終わり頃に新小路筋が整備されたが、明治の初め頃にかけて、前記営業者のほか
昭和期に入ると営業を合名、合資会社組織にする商店が現れたり、営業品目を変えた店、新開業の店もみられる[4]。昭和9年(1934年)刊の米子商工案内によって、それらの事情をみると、今井郁文堂は度量衡・理化学機械も取り扱い、大谷印刷所はオフセット印刷で営業を伸ばし、野沢屋は鑵詰・洋酒類・饂飩「玉すだれ」製造を加えた[4]。 安来屋は薬種・絵具よりも近代的な建設資材店に営業を変えセメント・タイル・煉瓦・煙突・風呂釜・左官材料店となった[4]。 新開業の店では、
新小路筋での製造業や料理業などの出店が目立っている[6]。会社組織のものは営業税不明であるが、個人名義のものでは、永瀬商店百七十五円余、別所商店百二十円余、神庭常吉商店八十七円、安来屋五十三円、波多野商店、勝田商店三十七円余、渡部仏具店二十八円余、中島正確堂二十二円などである[6]。 昭和61年(1986年)の国勢調査による事業所は建設業三、製造業二、卸小売飲食六十八、サービス業十八となっている[6]。 代表的な商家
→詳細は「坂口平兵衛 (2代) § 家族・親族」を参照
出身人物・ゆかりある人物政治家実業家
教育家文化人
医師、学者参考文献
関連項目脚注
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