坂口豊蔵坂口 豊蔵[1](さかぐち とよぞう、1872年(明治5年)1月13日[2] - 1930年(昭和5年)6月12日[3])は、日本の実業家。族籍は鳥取県平民[2]。 経歴鳥取県米子市尾高町の木綿問屋に生まれる。坂口平吉郎の五男[1][2][4][5]。兄平兵衛の養子となり、1920年、家督を相続する[4]。製糸業を営む[2]。銀行会社の重役として知られる[4]。 有限責任米子信用組合初代組合長[1][6]、坂口合名会社代表社員[7]、米子電車軌道[8]、米子製鋼所、八頭木材各社長、米子銀行副頭取、山陰電気副社長、米子坩堝、山陰日日新聞各取締役、日本製絲、皆生温泉土地各監査役などをつとめる[4]。 人物坂口豊蔵について、『商工資産信用録 第25回』には「職業・雑、調査年月・1924年3月、正身身代・G、信用程度・Aa」とある[9]。 『商工資産信用録 第28回』には「職業・煙草元売捌、調査年月・1927年8月、正身身代・G、信用程度・Aa」とある[10]。 鳥取県立米子工業学校建設費として金1万円を寄付したため、1928年に勅定の紺綬褒章を賜う[1]。また米子市水道敷設費として金3万円を寄付したため、紺綬褒章飾版1箇を賜う[1]。 家族・親族
脚注
参考文献
関連項目 |