石橋正彦石橋 正彦[1](いしばし まさひこ、1884年(明治17年)9月22日[2][3] - 没年不明)は、日本の政治家、会社役員、島根県多額納税者[4][5][6]。島根県簸川郡平田町長[5][6][7][8]。島根県会議員[8]。一畑電気鉄道監査役[5][6][8]。 経歴島根県人・石橋孫八の四男[5][8][7]。1907年、第五高等学校第一部英法科を卒業[1][9]。1911年、東京帝国大学法科大学政治学科を卒業[5][7][8][10]。1915年、家督を相続する[5][8]。農業を営む[2][5][8]。 1914年、農会長に推される[3]。1919年、簸川郡会議員に当選する[3]。1921年、平田町会議員となる[3]。1922年、島根県会議員に当選する[3]。産業組合中央会島根県支部長、島根県農会副会長である[8]。 小作問題、農業の振興、道路橋梁、水利、港湾の施設、教育の刷新等に全力をつくす[1]。 人物石橋正彦について、『商工資産信用録 第33回 中国四国版』には「職業・雑、調査年月・1932年7月、正身身代・O、信用程度・B」とある[11]。 『商工資産信用録 第38回 中国・四国版』には「職業・会社重役、調査年月・1937年1月、正身身代・N、信用程度・A」とある[12]。 石橋の死後16年を経て郷土の人々が石橋を想い、敬慕の念をもって銅像を立てた[1]。 同期の永尾策郎は代議士として中央に進出するよう石橋にすすめたが、石橋は「一生地方の有志として郷党のために尽くす」という強い信念に生きた[1]。 貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有する[2]。『島根県案内誌』によると石橋は「性磊落にして鋭敏、容貌魁偉、些かの虚飾なく頗る天真爛漫である。平生寡黙多くを語らざるも機に触れば談論風発その尽くるところを知らず。」という[3]。 住所は島根県簸川郡平田町新町[6](のちの平田市、現・出雲市)。 家族・親族
脚注
参考文献
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