東倉吉町
東倉吉町(ひがしくらよしまち)は、鳥取県米子市の町名。郵便番号は683-0815(米子郵便局管区)。2011年6月1日現在の人口は82人、世帯数は42世帯[1]。 地理外堀に沿って四日市町に続き、西倉吉町と共に旧町人街区の中央部を占める[2]。 歴史かつて町の総間数は64間、加茂川右岸を占める柳町通34間、判屋小路20間が町の中程に通じたが、大正末期から町役場前の中央通りとして道路幅が大きく拡張されたため、その面影をみることができなくなった[2]。西倉吉町との境には外堀内の鉄砲五十人町に通ずる鉄砲小路、加茂川向かいの覚証院に通ずる覚証院小路があって、これは現存する[2]。 元禄8年(1695年)には家持38、借家48[2]。明治2年(1869年)の調べでは表竈45、裏竈57、人口359人であった[2]。 町禄は小間物、足袋[2]。履物がまず認められ、やがて太物呉服株が認められた[2]。他国商人の出入が多くなるにしたがって宿屋株も許可された[2]。 町名の由来町名は久米郡倉吉城下からの移住者の居住区に由来するといい、米子では通称“ひがしまち”ともいった[2]。 政治各種議員区長町村制第六十八條に依り區を設け各區に區長及區長代理者一名宛を置き、各其の任期を四ヶ年とし區域の大小により區長には一ヶ年最低十圓より最高二十圓迄、區長代理者は一様に年額三圓の報酬を支給した[3]。 当選 市制第八十二條に依り區を劃し區長及區長代理者各一名を置き任期は四ヶ年とし、報酬は區長年額最低四圓最高十五圓、區長代理者は二圓乃至三圓である[10]。 産業商家呉服では桔梗屋、末吉屋、住田屋、播磨屋などがあり、幕末に宇尾屋は木綿直入方や判方を命ぜられた[2]。 木屋惣次郎は販売業のかたわら、三度飛脚宿も許可されている[2]。 宿屋は備前屋、吉田屋、越後屋、山城屋、松屋、隠岐屋があり、各地から行商やまた藩の在出役人の宿も引き受けた[2]。明治になって桜井、安島旅館も開業した[14]。 明治元年(1868年)秋の米子大入札講は官許の景気振興市であったが、当町を中心に展開され、入札会所には世良屋市右衛門(酒造業、町年寄)宅が当てられた[14]。 “世良屋世山氏”は米子を代表する酒造家で、幕末には鹿島家、大谷家などと共に町年寄を務めるほどの実力者であった[14]。そのほか、“末吉氏”、“仙田氏(仙台屋)”なども実力ある商人で、町の目代を務め、藩の資金調達にも度々応じた[14]。 “桔梗屋木村氏”は近世中期から開業、製糸業も兼業していた[14]。次いで住田屋、播磨屋が開業し、いずれも呉服商として昭和に及んだ[14]。明治に入って“志保屋野坂氏”、大正に入って“徳田屋渡辺氏”の開業があった[14]。 “安島氏”は呉服行商もやったが、旅館が本業で後に錦公園前に別館も持った[14]。 “岡本氏”は江戸時代から古着類を扱ったが、後に呉服を扱うようになった[14]。 小間物、雑貨は住田分家の“中住田氏”“角住田氏”や“中田氏”が開業し、足袋製造では伊藤商店、八鹿商店があった[14]。伊藤商店は、地下足袋で名を売った[14]。 和裁紋縫の小田商店、田村耕雲堂、染物の島田商店、田村善市商店、洋服仕立ての宮倉猶之助商店も明治期の有名店であった[14]。 梶谷芳芬堂は、明治10年(1877年)の開業で、梅花油、香油「美人の母」、蝋燭、鬢付油、種油などの製造販売[14]。 市川商店は明治中期開業で薬種、絵具、染料を扱い、活版印刷も兼業していた[14]。 進藤山輪堂は染料、薬種、洋酒、医療器械、木下薬店も同じころの開業であるが、同店は後に西倉吉町に移った[14]。
金融機関
出身人物・ゆかりある人物実業家・政治家実業家居住経験者参考文献
史料所得額三千円以上の人々国税営業税納入者名と対照して検討すべき資料として『郡勢一斑』から見積り所得額(所得税から各税率によって換算した額)三千円以上の人々の名を掲げておく[16]。大正4年(1915年)である[16]。木村吉兵衛(五千九百八十四円、東倉吉町)の名がみえる。
大正5年(1916年)の地主層当時、商工業の有力者は同時に地主でもあった[19]。この年度における米子町の地価1000円以上の地主名を挙げると次の通りである[20]。15000円~20000円の部に東倉吉町木村吉兵衛の名前がみえる。
脚注
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