大篠津町(おおしのづちょう)は鳥取県米子市の町名。郵便番号は683-0101(米子郵便局管区)。
本項では同地域にかつて所在した会見郡・西伯郡大篠津村についても述べる。
地理
和田村の北にあり、北は佐斐神村(現・境港市)、西は葭津村、東は美保湾に面する。
歴史
- 「口伝ではあるが川中島の戦いに敗れた武田の家臣井田藤右衛門の一族郎党が諸国浮浪のあとこの地に来て開拓し[4]
- …その後、藤右衛門の子孫、大篠津、下和田へ移り住み繁栄し、慶安2年(1649年)大篠津、佐斐神、下和田の中央部に当たる旧社地に社殿を建て[4]…(中略)一方、大篠津村開拓の祖・安田三郎義定は、この地に居を定め農となり諏訪神社を氏神として崇拝した[4]」とある。
- 昭和28年(1953年)に出された『大篠津郷土調査』の中には「大篠津の地に初めて人跡を踏み入れたのは四百余年以前のことで天文12年(1543年)毛利元就が尼子氏と戦を始め永禄九年尼子氏落城に至るまで二十三年間に及ぶ、而してその遺臣この地に来り開拓せしもの実に本村安田家の元祖(安田三郎義定ならんか?)」と記している。
石高 戸数
- 安永頃(1772-1780) 200石 80戸
- 文久頃 (1861) 365石 278戸
行政
自治体としての沿革
新政の始まり
明治4年(1871年)廃藩置県により鳥取県が誕生した[5]。翌5年に新しい行政単位として県内に112の区を設定し、各区に戸長(大庄屋)[5]、副戸長(中庄屋)[5]、村長(庄屋)を置く達しが出された[5]。この区制の開始によって弓浜部は六つの区に統合された[5]。
明治二十二年 会見郡大篠津村の発足
明治22年(1889年)10月1日、自治制からなる町村制の施行により、会見郡大篠津村として発足した[6]。当時の資料によれば、明治22年(1889年)の連合村(和田、大篠津、富益、夜見)の戸長は安田復四郎であり、議長も兼ねていた[7]。連合戸長並びに町村会に行政権限と議決権限が付与されていた[7]。
大篠津村議会
明治22年(1889年)10月18日連合戸長安田復四郎は村議会議員の定数を8名と定め、11月8日条例により議会構成がなされた[7]。村議会の議員は名誉職とし、任期は6年[7]、3年毎に半数ずつ改選であった[7]。
大篠津村役場
明治22年(1889年)11月9日、村長・助役・収入役・職員の組織と給料が定められている[7]。村長は村議会で選ばれ、助役とともに無給で名誉職とされた[7]。
歴代戸長・村長・助役・収入役・議員
- 安本喜三郎 明治5年(1872年)10月 - 管轄 - 大篠津村
- 安田復四郎 明治6年(1873年)4月 - 管轄 - 大篠津村
- 立原惣平 明治7年(1874年)4月 - 管轄 - 大篠津村
- ? 明治8年(1875年)4月 - 管轄 - ?
- 南千蔵 明治9年(1876年)4月 - 管轄 - 大篠津村
- 八幡勝次郎 明治10年(1877年)4月 - 管轄 - 大篠津村
- 安本大(亨) 明治12年(1879年)10月 - 管轄 - 大篠津村、和田村
- 立原有隣 明治13年(1880年)4月 - 管轄 - 大篠津村、和田村
- 立原有隣 明治15年(1882年)4月 - 管轄 - 大篠津村、和田村、富益村、夜見村
- 安田復四郎 明治20年(1887年)12月 - 管轄 - 大篠津村、和田村、富益村、夜見村
- 安田勇 明治22年(1889年)12月 -
- 安田復四郎 明治25年(1892年)12月 -
- 安田與喜太郎 明治30年(1897年)1月 -
- 安田勇 明治31年(1898年)9月 -
- 安田義兼 明治32年(1899年)10月 -
- 本池豊 明治33年(1900年)4月 -
- 安田廣 明治36年(1903年)10月 -
- 安田正 明治41年(1908年)1月 -
- 足立柳造 明治45年(1912年)1月 -
- 青砥豊三郎 大正4年(1915年)9月 - 2期 法勝寺出身
- 本池豊 大正11年(1922年)5月 - 5期
- 本池甚一 昭和14年(1939年)7月 - 2期
- 本池忠雄 昭和20年(1945年)11月 - 3期 初の公選制
歴代助役
- 安田泰蔵 明治22年(1889年)12月 -
- 本池豊 明治22年(1893年)12月 - 2期
- 足立柳造 明治22年(1900年)12月 - 3期
- 安田長蔵 明治22年(1912年)10月 -
- 東米重 大正2年(1913年)2月 -
- 安田國松 大正6年(1917年)7月 -
- 本池甚一 大正10年(1921年)8月 - 6期
- 岩村英雄 昭和20年(1945年)5月 -
- 本池冨雄 昭和22年(1947年)6月 - 2期
- 東米作 明治22年(1889年)12月 -
- 安田長蔵 明治30年(1897年)7月 -
- 本池喜八 明治31年(1898年)4月 -
- 本池節也 明治32年(1899年)7月 -
- 本池義明 明治33年(1900年)1月 -
- 東米作 明治35年(1902年)5月 -
- 本池重雄 明治37年(1904年)4月 -
- 安本知亮 明治41年(1908年)4月 -
- 本池重雄 明治42年(1909年)8月 -
- 本池安蔵 大正2年(1913年)8月 -
- 本池重雄 大正4年(1915年)10月 -
- 杵島松太郎[8] 大正7年(1918年)9月 -
- 安本知亮 大正11年(1922年)12月 - 3期
- 本池勝正 昭和9年(1934年)12月
- 安田恒夫 昭和10年(1935年)4月 - 3期
- 本池益雄 昭和26年(1951年)6月
村会議員
- 安田勇、安田復四郎、安本亨、足立柳造、本池安蔵、立原修一、安田与喜太郎、東米作
- 安田与喜太郎、安田勇、立原修一、東米作、安田長蔵、本池弥市、本池重雄、安田繁市
- 安田甚平、安田重孝、本池安蔵、本池重雄、
- 本池久六、安田義雄、杵島隆重、松岡富三郎、安田猶重郎、本池総、本池金太郎
- 安本亨、安田勇、東米重、本池総、本池喜八、安田義雄
- 本池源四郎、松岡富三郎、、本池総、安田廣、安田重孝
- 安田忠四郎、本池喜八、東米重、杵島隆重、安田猶重郎、安田忠四郎、本池久六
- 本池鹿太郎、本池勝太郎、本池安蔵、大西徳太郎、浜田竹松、安田寛平、本池義明
- 東米重、杵島隆重、本池義明、安田大林、安田千代司、安田國松
- 安田大林、安田國松、杵島隆重、本池久六、本池義明、松岡富三郎、本池権六、本池鹿太郎、安田千代司、本池徳松、本池勝太郎
- 本池勝太郎、本池義明、本池林太郎、安田大林、杵島隆重、本池重利、松岡富三郎、安田甚作、本池鹿太郎、本池権六、安田与喜太郎、安田浅次郎
- 安田大林、本池徳松、本池勝太郎、東伊勢松、本池鹿太郎、安田甚作、杵島隆重、安田浅次郎、本池重利、本池林太郎、岩村幸太郎、安岡政太郎
- 本池節也、杵島隆重、本池勝太郎、安田甚作、安田大林、安田千代司、本池周作、本池林太郎、本池重利、東伊勢松、安田浅次郎、安岡政太郎
- 本池忠雄、本池保隆、浜田長吉、本池周作、本池林太郎、本池節也、本池甫、東伊勢松
- 本池興、本池義重、本池周作、杵島松太郎[8]、本池忠雄、安田寛正、本池節也、安田千代司、東伊勢松、浜田長吉、本池保隆、山本金光
- 本池興、本池忠雄、杵島松太郎[8]、安田寛正、本池節也、本池周作、本池貞隆、本池義重、安田秀禄、安田重業、本池信成、山本金光、東央
- 本池正三、本池啓[9]、本池忠雄、安田秀禄、安田寛正、岩村義美、安田忠亮、本池清作、本池清、本池周作、米田雅明[10]、本池義重、本池貞隆
- 杵島松太郎[8]、本池啓[9]、本池深造、安田寛正、安田宏正、安田熙、本池茂、米田雅明[10]、安田忠亮、本池貞隆、安田宣、安田正治、安田丈平、本池義重、本池芳秋、本池扶公
米子市合併後の市会議員
- 昭和30年(1955年)5月 - 昭和50年(1975年)4月[11] - 5期[11]
- 昭和42年(1967年)5月 - 昭和46年(1971年)4月副議長就任[11]
- 昭和58年(1983年)5月[11] -
地域選出の県会議員
- 明治9年(1876年) - 明治14年(1881年)[11] - 島根県議会[11]
- 昭和42年(1967年)4月 - 昭和54年(1979年)3月[11] - 鳥取県議会[11] 3期[11]
- 明治44年(1911年)11月 - 大正2年(1913年)9月[12]
- 大正4年(1915年)9月 - 大正7年(1918年)11月[12]
- 大正8年(1919年)11月 - 大正13年(1924年)11月[12]
- 大正10年(1921年)11月議長就任[12]
通信
明治5年(1872年)飛脚制度廃止と同時に[13]、米子と境に郵便取扱所が設置され[13]、後年郵便局に改称された[13]。大篠津において郵便取扱所が設けられたのは明治14年(1881年)であり[13]、明治15年(1882年)郵便局になった[13]。平成11年(1999年)米子局で集中業務を行うため、大篠津局は無集配局となった[13]。
歴代局長名
産業経済
明治37年(1904年)『伯耆国実業人名録』には代表的商人として次の五人が載せられている[14]。
大正元年(1912年)12月『山陰実業名鑑』によると、地価三百円の土地所有者数は三十一人[14]、所得税納入者は十五人[14]、国税営業税納入者は十五人である[14]。次に示すのは営業税納入者と税額であるが[14]、◎印は地価[14]、所得税共に記載があるもの[14]、○印は所得税[14]、△印は地価のみの記載があるものである[14]。
大正11年(1922年)『西伯之資力』によれば地価額二百円以上の者は、三千九円余の安田義兼他53人であるが、営業税の記録はのせられていない[15]
世帯数と人口
2022年(令和4年)7月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[16]。
交通
鉄道
バス
道路
宗教
出身人物
政治家
教育者・政治家
実業家
教育者
文化人
スポーツ
その他
- 東京都中央区教育委員同教育長[22]。
史料
安田氏系譜
- 初代・又四郎
- 二代・仁三郎
- 三代・吉郎右衛門
- 四代・丈五郎
- 醸酒業を始める。
- 又四郎は当地の大地主として、その役職により鳥取藩とのつながりがあり、「木綿方融通所」の取締役に任命されている[23]。又四郎は万延元年(1860年)に木綿方融通所の役を御免となったが[24]、文久二年(1862年)には古手売買に精を出し[24]、境港まで直接持参して船手に売り渡していたが、不便利なので境村吉三郎にその売り渡しを任せるようにしたいと願い出て許されている[24]。大地主として、藩の権力とつながりを持ちながら在方商業に活躍した典型として[14]、安田又四郎を把握することができる[14]。
- 和田、大篠津、富益、夜見四ヶ村の戸長。
脚注
参考文献
- 『境港市史』
- 『米子市史』
- 『大篠津郷土調査』
- 『米子市実態調査第二集』
- 編集、発行-大篠津郷土誌作成委員会 『新修大篠津郷土誌』 2001年
関連項目
外部リンク