安田光昭
安田 光昭(やすだ みつあき、1907年(明治40年)3月11日 - 1993年(平成5年)1月12日)は日本の教育者、政治家。元鳥取県議会議員。元米子市教育長。号東馬。 地方教育行政の要として野坂寛治市長のもと教育基盤の確立に尽力[1]。米子市独自の教育立地計画を樹立することが肝要と6年間にわたり現場教職員と一体となり実態調査を実施[1]。その結果を4冊にまとめ逐次刊行した[1]。このことは全国的に注目された[1]。また、全国の都市教育委員会の教育長に呼びかけて全国都市教育長会を結成し、地教委本来の使命達成に努めた[2]。その他、県立移管となった市立米子高等学校の開設「米子市小学校再配置計画」の立案実施を行った[2]。 経歴鳥取県西伯郡大篠津村(現米子市大篠津町)の「大阪屋」という割烹旅館の長男として生まれた[3]。 米子中学校(現鳥取県立米子東高等学校)を経て、1928年(昭和3年)日本体育会体操学校(現日本体育大学)卒[4]。神奈川県立横浜第三中学校勤務[4]、1938年(昭和13年)中華民国新民会指導部[4]、1943年(昭和18年)北京日本大使館嘱託[4]、同年華北興亜翼賛会錬成部副部長[4]。 その間大日本武徳会華北総本部常任理事[4]、大日本体育会華北総本部常任理事[4]、華北興亜青年同盟錬成部長を歴任[4]、終戦に依り引揚[4]。 1950年(昭和25年)の産業観光米子大博覧会では警備部長を務めたあと、文教課長を経て、1952年(昭和27年)市教育長になった[5]。 人物像安田は、東馬の号で絵画をよくし国際美術家協会員で国内より海外で人気があった[6]。1984年(昭和59年)に協会賞[6]。 家族・親族安田家
親戚参考文献
著書
関連脚注外部リンク |